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参考図書室
eiko の連句教室<その1>
谷地元 瑛子

□序として:

先月、芭蕉会議の吟行句会がありました。私の成績はさんざん、俳句が下手なのは
わかっているのですが、あまりの結果に気分は沈みます。連句人の私は長く俳句に
違和感を持っていましたが、最近ようやく、俳句にも身を入れようと心を入れ替えていただけにこたえました、家に帰って、気を取り直し、句会の前に頂いた海紅先生のプリントを読みました。霧が瞬く間に晴れ渡り、当日の皆様の句を拝借して=付け合い=ができないかという連句スイッチが入ってしまいました。その結果を、以下のように芭蕉会議のフォーラムに投稿しました。

 

&   

夏の蝶休む姿に風見えし
若葉道行くスカートの裾

梅雨晴れ間疎水めぐりて番所跡
青葉の光まなこ閉じても

歩け歩け江戸の果てまで日盛りを
「その方!待て」止める夏袴

ホームレスとふたこと三言川涼し

草の騒げば夏帽押さえ

小名木川一直線に夏つばめ
翁も過ぎし船番所まで


中川の水陸バスは夏に入る
鳩の巣のある橋梁の下

 

〜〜思いがけないことでしたが、海紅先生がコメントを投稿してくださいました〜〜


御節介で瑛子さんのコメントの注釈をいたします。

1)「稀有な一日」とは「一瞬打ちのめされもした」「楽しさがさざ波のように
広がって来た」という2点に集約できると思います。

2)「一瞬打ちのめされもした」とは自作の互選結果が思わしくなかったということを強調したものと解釈します。実は、何年俳句を作っていても、なかなかキャリアにはなりません。句作の出来不出来は、その時々に自分の「心のありよう」に掛かっているからです。一方、入選するかどうかという点についていえば、読者(選者・句会参加者)の選句眼の高さ低さに関わる問題でもあります。「自分の心のありよう」「読者の選句能力」、互選結果が思わしくない場合は、このいずれかにその理由があると考えます。よって、最後は自選能力を磨くこと、信じること。そこをめざせば、落胆はエネルギーに変わるでしょう。そのために、同好の士と句会を重ねて、その仲間に共通する「美の標準」を構築することが肝要。今回を例にとれば、20人以上も参加しているのだから、10点、15点を獲得する句がなければ、レベルの高い句会とは言えません。その意味で、白山句会はマダマダです。互選結果がそのような方向に進むことを願っています。

 

3)「楽しさがさざ波のように広がって来た」とは、たぶん海紅が配布した「教員が語る大学院の魅力」というプリントの読後感と関係があるように思います。この文章は、大学院受験者をふやしたいという事務方に求められて、海紅の個人史の一端を吐露したものです(東洋大学大学院Home

page)。俳諧、とりわけ連句というものに出逢わなければ、海紅は海紅という名も持たず、別の道を歩んでいたということを書いたものです。「老い先の短いボクに書かせても効果は期待できないゾ」と拒みましたが、教員側も事務方も「ソウハ思ワナイ」という意見で、それならどんな結果になっても「オイラノ所為ジャナイ」と開き直って書きました。連句ということになれば、ホレ、瑛子さんは国際連句協会の代表だから、元気が出ちゃう。そんでもって「楽しさがさざ波のように広がって来た」にちがいありません。たとえば「夏の蝶休む姿に風見えし/若葉道行くスカートの裾」の発句・脇は、船番所句会における、うららさんの「夏の蝶休む姿に風見えし」に、静枝さんの「スカートの女裾波打たせ若葉道」を短句に仕立て直して、一幅の絵にしたというわけです。「自分の句」などという「小乗性(自己中心性)」を捨てて、他者の句をこんなふうに結びつけて遊ぶことの魅力、即座にそんな遊びができてしまう人を芭蕉会議のメンバーに持っていることを喜びたいと思います。これは、連歌俳諧の世界に入る際の海紅の志とも重なります。

4)瑛子さんの書き込みを、以上のように解釈・鑑賞していただきたく思います。これが俳句(発句)の心得に有益であることは海紅が保証します。(先生、暖かいご配慮ありがとうございま eiko)

■附記:句会に参加できなかった人に申し上げます。「教員が語る大学院の魅力」は、ネットで「東洋大学大学院」「谷地」と打ち込めば読むことができます。(これが、句会で配られたプリントです)


 

第一講

俳句と連句は全く違う?

□近代俳句のスタート  

詳しい経緯は後回しにします、近代俳句は連句を否定したところから始まったことになっています。俳句という言葉は明治になってから広まった言葉です。
連句という呼び方も明治になってからのもの、それ以前は俳諧の連歌、短かく言う時は、俳諧と呼ばれていました。さて連歌と俳諧の連歌の違いは何?という当然の疑問にはクラッシク音楽とpopular songの違いとしておきましょう。今や世界的詩人である芭蕉はポピュラー音楽の世界から出て、クラッシック界を超える不朽の名曲を歴史に残した人物に例えられる存在です。芭蕉も蕪村も自分を俳句の人とは思っていません、若い時から、俳諧の座に連なり、やがて俳諧の宗匠という立場になった詩人なのです。

宗匠とはライブセッションの場で文芸時空を生み出す営みの中心にいて、連衆を捌く人です。捌く、これは裁くとか採点するという意味ではありません。一つ一つ出される句の本性と香りをみづからの静謐な内奥で味わい、座の文芸である連句作品を作る上で、全体の中にどう生かすかに工夫することを捌くといいます。お魚を捌いて美味しい料理にするというときの語法ですね。 さてここにキーワード@が出ました、『座』です。座に連なる連衆は互いの句を味わい、即興で想像の翼を広げそこから付句を出します。このライブ時空に身を置くと、稀有なことが起こります:(マイナス時間)〜普段の減っていく一方の時間〜が(プラス時間)〜座のエネルギーが現実と虚構の間に引き起こす生きた時間〜を体験するのです。

さて想像の翼と言いました。連句は時に連想ゲームと説明されることもあるようですから、想像力をキーワードAとしましょう。ナボコフという亡命ロシア貴族はその威力を次のように語ります。
(After being forced into exile she lived in a poor apartment) Nothing was lost from my mother. As long as actors remember their lines, the stormy moor of heathers, the misty castle in fog or the magi-cal island exists right there wherever a theatrical company tours around. Just like this, all that my mother's soul had collected over the years were with her always. She loved her soul with all her might and let the rest be taken care of by
destiny. -Nabokov

訳)国外追放となったは母は貧しいアパートに住んでいました)母からは何一つとしてなくなっていませんでした。劇団がどこに巡業しどこで公演しようと、俳優たちがセリフを忘れさえしなければ、ヒースの騒ぐ嵐の原野も、霧中にぼんやり浮かび上がる城の姿も、魔法の島さえも眼前に存在します。それと同じように長い人生で母の魂が集めたすべては常に母と一体でした。彼女は全精魂をかけて自分の魂を愛し、それ以外のすべてを運命に任せていたのです。

座とはそれぞれの人生を生きてきた連衆が深いところに納めてきた瞬間やイメージを前句に触発された想像力で呼び出し、共感を分かち合う場なのです。

座の文学という概念、〜自分以外の作者による前句から触発されて句を作るという創作方法〜、これは、明治になって日本に入ってきた西欧近代文学の概念にはありませんでした。私たちが受けてきた国語教育にもこの概念は説明されていなかったと思います。

19世紀の文学といえば作品のオリジナリティ、文体の種類、プロットの展開、全編に通底する主題の設定、個の解放と規則に縛られない自由な表現などが要諦とされていたように思います。近代日本の水路を開いたと言われる1867生まれの正岡子規は、連句をこうした西欧文学の枠組みで捉えることができないことにすぐ気付きました。全体の作者が誰だか曖昧であり、付けはともかく転じと呼ばれる変化を重んじ、式目と呼ばれるルールのある連句は彼の憧れた西欧由来の文学とは水と油と見たのでしょう。

近代日本語、近代日本文学を急いで打ち立てる必要に迫られている列強時代を生きている青年子規は、『発句は文学なり、されど連俳は文学にあらず』と世に高らかに宣言しました。実はこの段階では連句実作をさして体験していなかったそうです。後年、彼は連句の
面白さを味わう機会を持ちました、連句に関する宣言を撤回することもあったかもしれないところ、限られた寿命がその可能性を奪いました。

2017年の今言えることは、日本が近代化したことには代償、犠牲が伴っていたと
いうことです。私たちは古文をほぼ読めなくなってしまいましたし、普通に生活していて
千年以上脈々と続いてきた連歌連句の豊かな伝統に触れることもなくなってしまった。。。
文化伝承の連続性が無理やり切断された中で、そうとは知らずに、私たちは育ってきたとも言えます。

 

その結果が、本来一つのものであった俳句と連句をこんなにも遠い関係にしてしまったのです。 

連句の発句を世界最小の詩として全体から切り離し、新しい命名をして出発したのが近代俳句です。コラボレーションの詩である『連句』を封印してきた俳句の世界ですが、人間関係の密な結社といい、車座的句会方式といい、『座』の感じが残っています。明治に始まった俳句は大正になると、新聞に掲載しやすいことから、大衆文化の一翼を担う存在となり、多くのスター俳人が現れます。大正、昭和戦前、戦後と人気は衰えず、職場や地域に数限りなく俳句会が生まれます。今や俳句の捉え方も一筋縄では行かず、伝統俳句系、現代俳句諸家と百花繚乱の感があります。連句はといえば、子規の宣言後も大変細々とではありますが、本来の座の文芸を守り楽しんできた人々のおかげでこの文芸の灯が完全に途絶えるということにはなりませんでした。(主な功労者*寺田寅彦・根津芦丈・室生犀星・橋 關ホ・能勢朝次・安東次男・真鍋呉夫・東明雅など)

閑話休題、市民生活に著作権という言葉が闊歩する21世紀、ささやかな連句のたしなみを軽い気持ちで示したことは、場が場なら、著作権違反という罪に問われかねません。もちろん私は連句と俳句両方を大切にする芭蕉会議という得難い場だからこんな『いたずら』をしたのですが、それにしても海紅先生の解釈に感激しました。 

 

□連句:世界文学としての可能性

明治の青年たちが熱く憧れた西欧文学もこの百五十年の間に変遷をたどりました。

連句を自分のライフワークと定めるに至るのには、35 才を過ぎて、米国の大学で文学を学ぶ機会を得たことが下地になっていると最近気づきました。私はミネソタの教室でジェームス・ジョイスに出会ったのです。ロマン主義、ヴィクトリア朝文学と対照されるモダニズム、ダダイズムやシュルレアリズムとなると、ついてゆけない私でしたが、ジョイスのモダニズムは違いました。「移ろうものやとらえがたいもの、束の間のもの」を意識の流れに沿って描写するジョイスの初期の作品、特に必須テキストだった「ダブリンの人々」は特別でした。それまでシェークスピアやスウィフトの授業を予習し、それなりに楽しんでいた私に自分が勉強の身であることをすっかり忘れさせる力があったのです。ダブリンの人々を読んでいると遠く離れた日本の人々が次から次へまざまざと浮かび上がってくるのです。英文学ではジョイス以後、小説に虚構と現実の区別がなくなったと言われますが、そのとおりでした。大英帝国の最初の植民地であるアイルランドに生まれ、故国の現状を受け入れられなかったジョイスは、自らの意思で国外追放の身となリます。多くのアイルランド人はアメリカに移民して立派なアメリカ人になりましたが、彼は違います。パリ、ジュネーブ、トリエステなどのヨーロッパの街に居を探し、貧しい中、ひたすら書き続けます。アイルランドの外にいて、一生自分が捨てた故郷にこだわり抜き、想像と創造に言葉を尽くします。言葉の[おおもと]に想像力が備わっていること、想像力なしの言葉は言葉ではなく、記号になってしまうこと、命を養うのは生きた言葉であることを確信していたジョイスです。アイルランド人の母語であるゲール語に対し、行政用語・公用語 ・作家の書き言葉としての英語の折り合いの問題とも格闘していたことでしょう。言葉の限界と可能性の狭間で紡がれた物語は真実味の塊として、また、言語学と文学の融合領域として、私を魅了しました。

ところでジョイスは一人でアイルランドを離れたのではありませんでした、彼はアイルランドを体現したノラという妻を連れていました。言葉に命を与えるのは、想像力の他に、身体性です。彼はノラの話すアイルランド風の英語から多くのインスピレーションを得ました。私たちが日本の学校で習う英文法とは関わりのない、素晴らしく土くさく、生きるエネルギーを放つノラの言葉と一緒に国を出たのです。(*ノラの英語には英語が嫌いな日本人が書いたような天真爛漫な味があります!)ジョイスは文学とは何か、言語とは何か、を常に疑い、文学の素である言語の多面的命に徹底的にこだわり、真実のテキストを編み出そうと、ユリシーズやフィネガンズウェイクを書いたのかもしれません。言葉をバラバラにするというところまで行くところが連句と似ています。(ジョイス以外の連句的センスの文学者:チェーホフ/Ezura Bound/Jack

 

Kerouacなど。日本文学に興味を持った欧米人:A.ウェイリー、R.H. ブライス/ ラフカディオ・ハーンなど)古典主義やロマン主義を古くさく感じ始めたジョイスの時代の西欧には文学の新しい潮流が生まれていたのです。その中にウエーリーやバウントのように日本や中国の短詩に活路を見出す人が出ます。明治と反対のベクトル、西欧の方が日本の詩を発見したのです。1920年前後のことです。帝政ロシアを襲った革命を描いたソビエトの映画監督、エーゼンシュタインは芭蕉の連句を知っており、革命を描く場面の転換に連句の転じを応用し大変な効果をあげたことはよく知られています。

現在ハイクは世界各国で愛されています。しかし、文学として確立しているかといえば、まだそうともいえず、著名な出版社が日本の近代俳句の本を出版することは稀です。小冊子で出版される 各国語のhaiku の本は数限りなくありますが、どうもまだ第二芸術扱いのようでアカデミズムの世界で文学として確立するには何かが足りないようです。特筆すべきは日本にあるような俳句と連句の壁が海外にはなく、自然な形で連句に出会う俳人が日本より海外に多いことです。一方日本では俳句の人は連句を敬遠しがちで、短歌の人の方が気軽に連句に興味を示すように聞きました。短歌を並べて詠じる時の律動が連句の律動と同じことから親しみを感じてもらえるのかもしれません。連歌と俳諧の連歌の
距離も今でははっきりしないわけですし、俳句より短歌が連句に近いというのは歴史のいたずらでしょうか。

私が長く続けている国際連句についてひとこと:他者による翻訳は時差を経て多言語作品になりますが、座という現場にまだ言葉にならない詩因の段階から身を置き、
一つの詩を同時に2カ国語で生み出すことの魅力はすでに出来上がったテキストを一人机に向かって翻訳するのとは全く異なります。言語の元の元を見る連句ならではのカタルシスが得られます。簡単ではありませんが、トライする価値があります。連句は世界文学たり得る一番新しい文芸形式になる可能性を秘めています。(*メキシコ人ノーベル賞作家のオクタビオ・パス氏や最近亡くなられた大岡信さんは言語をまたぐ共同制作の詩に強い関心を示しました。)

□俳句と発句の違い、そして連句のさわり

おもいきり古く、同時に一番新しい連句の魅力を実作で実感していただくのが
eiko連句教室のゴールです。今日はそこまで行かず申し訳ありません。ただ、このまま
第一講を終えてはならじと、1)『俳句と発句、どこが同じでどこが違う』2)『立句と平句はどう違う』を一緒に考えてみたいと思います。そして3)として連句の最小単位である三句の渡りを紹介します。 

なお発句は連句のエンジンになる出発の句で、立句(たてく)とも呼ばれます。そして発句の後ろに続く付句群はほとんどすべて平句(ひらく)と呼ばれます。

1)*俳句と発句はほとんど同じである。

江戸期にも、発句合わせと言って、最初の句を皆で出し合い
良いものを選ぶ楽しみ方は存在した。発句は575の定型、季語と切れ字を入れる。
*俳句と発句はほぼ同じとはいえ、つくる気持ちに少し違いがあるかもしれない。
モノローグである俳句も句会に出す以上、挨拶性があると思う。
ただ発句は挨拶性がより強い。季節、場所、連衆への挨拶である。

*発句は連句中、最も独立性の強い句であり、作者は表現者として自由である。ただ、
次に出される脇句によって重層的景が描かれることをどこかで予期して作る場合
がある。付ける人の気持ちを忖度することもあるかもしれない。 次の例で考えよう。

   五月雨を集めて涼し最上川     芭蕉
     岸にほたるをつなぐ舟杭     一栄  

歌仙興行という即興の座での芭蕉の発句にうち添える脇句を亭主である大石田の俳人一栄がつけ
  こうして上の二句は二句一章となり、 発句/脇で一幅の絵となる。

     五月雨を集めて早し最上川

  大石田で作った歌仙の発句を芭蕉はのちに推敲、「早し」のバージョンの方が有名。

 

奥の細道という俳文の中に置かれたこの句はダイナミックな自然の脅威を感じさせる詩となったのです。  

2)  立句は俳句の心得が概ねそのまま生きると思います。

けれど平句は勝手が違うかもしれません。と言っても立句より難しいのではなく、
句のつくりとしてはより簡単です。
*俳句がたった17音で詩になり得るのには、切れ字と季語の働きが大きいと言われます。切れているからこそ、そこに読者の想像が入り込む広大なスペースが生まれるからです。
*平句に切れはありません。その理由は句と句のあいだの行間に切れ以上に広大なスペースがあり、そこで魔法が起こるからです。平句自体には余情を持たせません、直裁に端的に書きます。
ところで平句には季節の句と雑の句と言って、川柳の元となった季語なしの句があります。そして平句には、575の長句と77の短句があります。
*芭蕉一門の連句から秀逸な平句を拾ってみます。

   もの思ふ身にもの喰へとせつかれて  (恋の長句)
   風吹かぬ秋の日瓶に酒なき日     (秋の長句)  
   髪はやす間をしのぶ身のほど      (雑の短句)
   月は遅かれ牡丹盗人          (夏の短句)

3) 連句は長句、短句、長句、短句と長短交互に鎖のようにつなげます。最短の連句は3句の渡りと言ってもよく、連句人は年賀状に歳旦吟として3句の連句を書きます。ここでは芭蕉の連句から途中の3句を取り出してみます。律動感を味わってください。


げんげすみれの畠六反  (A)

嬉しげにさえずる雲雀ちりちりと (B)

真昼の馬のねぶた顔なり (C)

  
* 以下、ABC三句の付け合いについての能勢朝次先生(1894〜1955)の解説です:

 

QUOTE

Bは雲雀がいかにも嬉しそうに、啼きながら空高く舞い上がる様を表したものであるが、その表現は表すべきものを表出しきっている。もし発句であれば、『嬉しげに』という言葉を用いないで、それを余情に籠めるはずである。しかるにこの句をAという前句に立ち向かわせてみる時、AとBの間には春の豊かな生気がじつに潑刺として漲り溢れてくる。またBを前句としてCという付句を配してみる時、春昼のけだるい睡いような気分が二句の間に模糊として立ち込める。春の駘蕩たる情感が発生する。これは双方ともに言い切った句であるからである。相互に挑みかかる力を持っているからである。

俳句の連作という並べものと比較して見られると良い。発句を並べた中から生まれる気分などはかような生動の気を生まない。それはお互い同士が内輪に取り澄ました発句の並列では相互に働きかける力が封じられているからである。連作俳句がついに新しきものを生み得なかったのは当然であった。

UNQUOTE

*物理学者にして、俳人、そして人気エッセイストでもあった寺田寅彦は連句を愛しました。俳句がスティル写真であるとすれば、連句は映画的と言っています。

 

 (予告)第二講では、芭蕉の連句と現代の連句を覗きつつ、
聞きなれない連句用語に慣れていただくことを考えております。


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