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参考資料室

蕪村絵画考―双幅「後赤壁賦・帰去来辞図」を読み直す―   紅 谷 愛

  第四章 画中人物・背景
  『全集』六巻より転載 四三七「後赤壁賦・帰去来辞図」

  第一節 「後赤壁賦」の図
本図は蘇東坡の『後赤壁賦』の画賛である。まず人物についてであるが、蘇東坡と、尋ねてきた二人の客を描いたものと考えられる。そして蘇東坡はおそらく杖を持つ左の男であろう。なぜなら、蕪村が他の作品で描く蘇東坡との共通点があるからである。具体的には「八一 東坡宝山昼眠図」・「八二 東坡宝山昼眠図」のゆったりとした中国の衣装と帽子。さらに五二四「東坡図」の同じ様の衣装と長い杖である。容姿としては髭を生やしているということも挙げられる。このように「後赤壁腑」の蘇東坡と考えられる人物にもこれら三つの作品との類似点が見受けられ、第一章第二節でも言ったとおり、蕪村が蘇東坡のことを好んでいたことも加味すればこの杖を持つ左の男は蘇東坡だと考えるのが妥当である。
次に場面であるが、客と蘇東坡の三人で月を望み、歌を歌い合っているところだろうか。蘇東坡は杖を持つ右手で左上のほうを指し、手前の黒い衣装の人物も同じ方向を見て手を掲げている。また、この三人全員が笑顔であり、和やかな雰囲気を醸し出していることから何か美しいものを愛でているのではないか、と推測できる。さらに後ろに描かれる木であるが、左の枝の先の部分が描かれていない。この用紙の左側にはまだ続きがあり、そこには今は無い月も描かれているような気さえする。しかし、肝心の月が描かれていないのはなぜだろうか。ここに蕪村らしさがあると、私は考える。蕪村はおそらく、あえて月を描かなかったのだ。なぜなら月は蘇東坡の「後赤壁賦」に浮かんでいるからである。であるから、月を描かなくても鑑賞者には月が自然と見えると蕪村は考えたのではないだろうか。そしてその方が断然風流であると確信していたに違いない。以上のことから、この「後赤壁賦」は蘇東坡の賦に月を見て、蕪村の画賛からこの三人の和やかな雰囲気を読む、というような、まさに画と賦がお互いに手を取り合ってこそ完成する作品である。逆に言えば、鑑賞者には漢文を読む力も画を観察する力が必要であるとも言える。

  第二節 「帰去来辞」の図
本図は陶淵明の『帰去来辞』の画賛である。まず人物について乗り物に乗っているのが陶淵明、従っている男二人は、文章に出る従者ではないだろうか。陶淵明は「四八 陶淵明図」・「一六三 陶淵明図」・「一六四 陶淵明図」でしばしば描かれている。中でも注目したいのは「四八 陶淵明図」である。そこに描かれる細長い髭と縁の黒い装束は類似しており、同じ人物だと捉えるのが妥当である。また、第二章第二節でも触れたように、陶淵明に心酔している蕪村であれば、ここに陶淵明の姿を描くのは至極普通のことではないだろうか。そして従っている二人だが、奥の人物は当時の庶民のような半被のようなものを着ており鉢巻姿、手前の男は腕まくりをしていて、二人ともいかにも雇われている側の人物であるという雰囲気を醸し出している。
次に場面であるが陶淵明が田舎に帰り山に登り自然を楽しんでいるところであろうか。明らかに道は画面の左から右へ続いている。しかし、陶淵明は進行方向ではなく右手前を見ている。そして車を押す従者も陶淵明と同じ方へ視線を向けている。ということは、道すがら車を停めて、何かを見ていると考えられるのではないだろうか。そうであれば、彼らは何を見ているのだろうか。ここで参考にしたいのが陶淵明の辞である。それからは前述の通り官職をやめ、農村で自然を楽しむ陶淵明の生活が窺える。そのことを蕪村が画にしているのであれば、おそらく画中の陶淵明達は辞中にある〈奥深い谷〉を眺めているとは考えられないだろうか。これを〈生き生きとした木々〉や〈泉〉また〈清流〉としなかったのは、背景から見て山に登っておりその道の脇には崖、そして谷があるのが一般的ではないかと考えたからである。特に〈清流〉は辞に〈…臨清流 賦詩〉とあるが、画中の陶淵明は詩を作ろうとしている様が見えないため違うと考える。以上のように、〈帰去来辞〉は蕪村の画によって、陶淵明の辞にある自然とともに暮らす自由な生活をより鮮明に思い浮かべることができるような作品なのではないかと思う。つまり、蕪村の絵は鑑賞者の想像を手助けするような存在なのかもしれない。


  第五章 大きさ比較(双幅についての問題)
  『蕪村全集六 絵画・遺墨』に載っている作品で二枚以上の用紙を使用して一つの作品としているもの(双幅、三幅対、四幅対、十一幅対)の作品数と、その中で用紙の大きさが揃っていないものの作品数を調べた。その上で、私の考察を述べる

作品数 用紙の大きさ (揃っている) 用紙の大きさ (不揃い)
双幅 四八 四三
三幅対 一一
四幅対
十一幅対 なし

 

以上のことから、蕪村が対として描いた画のほとんどが、用紙のサイズが揃っていることが分かる。そもそも双幅とは二幅で一対となる掛け軸のことで、龍虎や鶴亀のように、対句や対図が多い。では、『蕪村全集六 絵画・遺墨』に付してある作品番号と一緒に双幅についてのみ、具体的作品を挙げる。
@「二六四 闇夜漁舟・雪景山水図」
(右幅一三〇・三×四七・六p、左幅一二九・七×四七・〇p)
款 右幅「謝春星写於夜半亭中」、左幅「倣沈石田 謝春星」
印 右幅「謝春星」、左幅「謝長庚」
A「三八四 山水人物図」
(大きさ、記載なし)
款 右幅「安永七晩夏写於平安夜半亭 春星」、左幅「東成謝寅」
印 二顆(印文不詳)
B「四一九 亀・岩図」(応挙・蕪村合筆)
(右幅二二・九×二八・三p、左幅二二・五×二八・一p)
款 右幅「庚子暮春写 応挙」、左幅「東成謝寅」
印 右幅「応挙」「仲選」、左幅「潑墨生痕」
C「四三七 後赤壁賦・帰去来辞図」
(右幅一三三・八×五七・三p、左幅一三三・三×五七・一p)
款 右幅「日東謝寅画□書」、左幅「日東々成謝寅画且書」
印 右幅「謝長庚印」、左幅「春星」
D「四四〇 樵夫・田夫図」
(右幅一三四・五×五七・九p、左幅一三五・八×五六・一p)
款 右幅「安永辛丑春二月東成謝寅写於雪堂且書」、左幅「謝寅画且書」
印 右幅「謝長庚印」「春星」、左幅一顆(印文不詳)

このように具体的に見ていくと一目瞭然のことであるが、用紙の大きさはさほどずれているわけではない。しかし、数的に比べるとその違いが歴然である。また、Bで挙げた「四一九 亀・岩図」(応挙・蕪村合筆)は円山応挙との合筆であるから、用紙のサイズが異なっていても疑問には思わない。しかし他の四点は明らかに異質であり、双幅でない可能性が高いのではないだろうか。つまり、作品を『蕪村全集六 絵画・遺墨』では双幅として取り扱っているが、私はそう思わない。双幅であれば用紙の大きさ酒ではなく、「武陵桃源図」のように漢詩、もしくは画にもっと繋がりがはっきりと見えるだろう。