ホーム
参考資料室

蕪村絵画考―双幅「後赤壁賦・帰去来辞図」を読み直す―   紅 谷 愛

 第三章 詩を読む
   第一節 「後赤壁賦」
  まずは本文を載せる。原文では分かりにくいと判断したため、成島行雄氏の『蕪村と漢詩』に記載されているものをそのまま引用した。これは次節「帰去来辞」でも同様である。

   後赤壁の賦

是の歳十月の望 雪堂自り歩りて 将に臨皐に帰らんとす
二客予に従い 黄泥の坂を過ぐ 霜露既に降り 木葉尽く脱つ
人影地に在り 仰いで名月を見る 顧みて之を楽しみ
行歌いて相答う 已にして嘆じて曰く
  客有れども酒無し 酒有りとも肴無し
  月白く風清し 此の良夜を如何せんと
客曰く
  今者薄暮 網を挙げて魚を得たり
  巨口細鱗状松江の鱸の似し 顧うに安くにか酒を得る所あらんと
帰りて諸を婦に謀る 婦曰く
  我に斗酒有り 之を蔵すること久し 以て子が不時の須を待てり
是に於いて酒と魚とを攜え 復た赤壁の下に遊ぶ
江流声有り 断岸千尺 山高く月小に
水落ち石出ず 曾ち日月の幾何ぞや
而るに江山復た知る可からず 予乃ち衣を摂げて上る
巉巖を履み 蒙茸を披き 虎豹に踞し
虬竜に登り 栖鶻の危巣に攀じ 憑夷の幽宮に俯す
蓋し二客従う能わず 画然として長嘯すれば 草木震動し
山鳴り谷応え 風起こり水涌く 予も亦悄然として悲しみ
粛然として恐れ 凛乎として其れ留まる可からざる也
反りて舟に登り 中流に放ち 其の止まる所に聴せて休す
時に夜将に半ばならんとす 四顧寂寥たり 適孤鶴有り
江を横ぎりて東より来る 翅車輪の如く 玄裳縞衣
戛然として長鳴し 予の舟を掠めて西す 須臾にして客去り
予も亦睡に就く 夢に一道士あり 羽衣翩仙として
臨皐の下に過ぎり 予に揖して言いて曰く
  赤壁の遊 楽しかりし乎と
其の姓名を問うに 俛して答えず
  嗚呼 噫嘻 我之を知れり 畴昔の夜
飛鳴して我を過ぎりし者は 子に非ず也耶と
道士顧みて笑う 予も亦驚き悟む 戸を開いて之を視れば 其の処を見ず

「是十月望」とあるので、この賦が前の「赤壁賦」と同じ年に作られたことがわかる。つまり元豊五年(一〇八二)蘇東坡四七歳の時の作品である。この頃、蘇東坡は黄州へと流罪になっており、自耕自食の毎日は蘇東坡にとって楽しいものだったであろう。「前赤壁賦」は七月十六日に湖北省黄岡県の城外で赤鼻磯といわれるところで作られだという。これは「三国志」で有名な赤壁の戦いの古戦場ではない。しかし、蘇東坡の心は「三国志」の世界に遊歴していたのである。七月十六日といったが、その三ヶ月後の十月十五日にまた赴いて「後赤壁賦」を作っている。さらに十二月十九日も誕生日にも訪問しており、よほど好きだったことが分かる。
ところで赤壁の戦いとはどのようなものだったか。後漢の献帝の建安一三年(二〇八)、魏の曹操は八十万と称する軍を率いて、呉の孫権、蜀の劉備の連合軍と赤壁で対峙した。劉備は諸葛孔明を孫権のもとに派遣し、呉との連合を果たした。そして呉の周瑜は三万の兵を率い、孔明と策略をめぐらし、曹操の大軍を迎え撃つことになる。船戦に慣れない曹操軍は、火攻めの計に大敗し、曹操は辛うじて北へ逃れた。この結果、曹操は再び南下ができなくなり、孫権は江南を、劉備は荊州から益州を保ち、ここに孔明の天下三分の計が成ったのである。
「後赤壁賦」は「赤壁賦」と趣を変え、酒を用意していた賢妻を引き来り、ロマンチックな導師の夢を見たところで終わりとする。「赤壁賦」を三国志の世界に舞台を借りての抒情詩であるとするならば、「後赤壁賦」は導師の世界に夢を載せた幻想的抒情詩とでもいうべきものであろう。また、明月の中で歌を歌いながら歩き、十二分に満喫しているところも見逃せない。

  第二節 「帰去来辞」
    帰去来の辞
帰りなんいざ
田園将に蕪れんとす 胡ぞ帰らざる
既に自ら心を以て形の役と為す
奚ぞ惆悵として独り悲しまん
已往の諫められざるを悟り
来者の追う可からざるを知る
実に途に迷うこと其れ未だ遠からず
今の是にして昨の非なるを覚る
船は遥遥として以て軽くあがり
風は飄飄として衣を吹く
征夫に問うに前路を以てし
晨光の熹微なるを恨む
乃ち衡宇を瞻
載ち欣び載ち奔る
僮僕は歓び迎え
稚子は門に候つ
三逕は荒に就くも
松菊は猶お存す
幼を携えて室に入れば
酒有りて樽に盈つ
壺觴を引きて以て酌み
庭柯を眺めて以て顔を怡ばす
南窓に倚りて以て傲を寄せ
膝を容るるの安んじ易きを審らかにす
園は日に渉りて以て趣を成し
門は設くと雖も常に関ざす
扶老の策をつきて以て流憩し
時に首を矯げて遥かに観る
雲は無心にして以て岫を出で
鳥は飛ぶに倦みて還るを知る
景は翳翳として以て将に入らんとし
孤松を撫して盤桓す
帰りなんいざ
請う 交わりを息めて以て游を絶たん
世と我と相い違う
復た駕して言に焉をか求めん
親戚の情話を悦び
琴書を楽しみて以て憂いを消す
農人 余に告ぐるに春の及ぶを以てし
将に西疇に事有らんとす
或いは巾車を命じ
或いは孤舟に棹さす
既に窈窕として以て壑を尋ね
亦た崎嶇として邱を経
木は欣欣として以て栄に向かい
泉は涓涓として始めて流る
万物の時を得たるを善みし
吾が生の行くゆく休するを感ずる
已んぬるかな
形を宇内に寓すること復た幾時ぞ
曷ぞ心を委ねて去留に任せざる
胡為れぞ遑遑として何れに之かんとす
富貴は吾が願いに非ず
帝郷は期す可からず
良辰を懐いて以て孤り往き
或いは杖を植きて耘耔せん
東皐に登りて以て舒に嘯き
清流に臨みて詩を賦さん
聊か化に乗じて以て尽くるに帰し
夫の天命を楽しみて復た奚ぞ疑わん

この作品は、陶淵明が四十一歳のとき、彭沢県の県令という地位をなげうって郷里、江西省潯陽県柴桑に帰ってきてまもなくの作と知られている。〈そして、陶淵明自身の思想と生活を理解する上で、とりわけ重要な意義を持っている。第一に、それは桓玄の失敗した翌年にうまれた作品であること、そしてそのことがこの作品の政治性を決定づけていること。第二に、それは陶淵明が最後に出仕して帰来するにあたっての作品であるということ。したがってこの作品は陶淵明の生活史における前半生のしめくくりといった性質を帯びている。最後に、陶淵明の一生についてみるとき、この「帰去来辞」のなかの主題は、それにもまして彼の全作品に流れる主調音であるといってよく、したがってその意味でも、この作品は特に代表的性質を帯びている、ということを忘れてはならない。〉この作品では「僮僕は歓び迎え」から「吾が生の行くゆく休するを感ずる」までの田園生活を満喫して十分心を解放できる歓びは、読む者にも果てしない共感を覚えさせずにはおかない。特に「雲は無心にして以て岫を出で 鳥は飛ぶに倦みて還るを知る」の二行は、古来一つの絶唱として人口に膾炙されている。このように窮屈な役人生活に訣別し、自由な農村での生活を享受できる喜びを謳歌している。と単純に読むことも出来るが、その〈思想の実質は、「雲は無心にして以て岫を出で 鳥は飛ぶに倦みて還るを知る」、「聊か化に乗じて以て尽くるに帰し 夫の天命を楽しみて復た□ぞ疑わん」〉といった表面の語句からだけでは、捉えることはできない。もしそんなふうに捉えるならば、陶淵明の出仕ははなはだ無意識的にすぎるし、彼の帰来にしても単純にすぎ、単純すぎて矛盾が少しもないことになる。本当はそうではなかった。陶淵明は儒家思想の影響を非常に色濃く受けた人間である。だから彼の場合、出仕が正常な行為であって、帰来はやむをえないことであった、ということを忘れてはならない。「帰去来辞」を賦して以後、陶淵明の政治的態度は明確化の時期に入り、思想面でも成熟期に入った。
さらに全体をみていくと、前段において陶淵明を待ち受けているは、家族の団欒と酒であり、貞潔そのものの松や菊、あるいは夕日の中をのびやかに飛ぶ鳥たちである。さらに後段での彼の田園生活を支えるものとして、琴と書、親戚や村の人との語らい、野良仕事、そして何にもまして作詩の営みがある。ここには陶淵明の全ての素材が集約されている。