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参考資料室

蕪村絵画考―双幅「後赤壁賦・帰去来辞図」を読み直す―   紅 谷 愛

   第二項 「武陵桃源図」
ここでは芳賀氏と山形氏の説について紹介したい。まず、二人が説の題材として選んでいるのが次の〈安永十年与謝蕪村作「武陵桃源図」〉である。
※図一「武陵桃源図」

この図には便宜上両幅に描かれた八名の人物に@〜Gの通し番号を付してある。その番号に従い、はじめに芳賀説、次に山形説という順で紹介する。共通して先に言っておきたいことは、二人は画中人物の解釈を丁寧に試み、作品の全体の解釈をしているということである。
では、芳賀説の説明に入る。芳賀氏は右幅を武陵の漁夫の桃源郷への入境(entrance)と捉えている。@Aの人物は桃源の老人。これは「桃花源記」「桃花源詩」参考にした外人のような衣服からである。具体的には、身の丈より長い杖や藁製の円座と、竹の杖、腰の瓢箪というどこでも寛げるような面白い格好が挙げられる。また袁中郎の詩にある〈白頭の了髻子、花裏に去って仙の如し〉とある白頭からそう判断している。Bの人物は老漁夫。これは漁夫が持つ瓢箪や櫂が、当時の人が普段身につけているものだからである。そして右幅の内容は「桃源の老人二人が漁夫の行く手を阻む場面」としている。その理由は四つある。一つ目は桃源郷の老人二人の様子。二翁は右手を軽くかかげながらしきりに話し込む漁夫に対して、微笑しながら話を聞いている。この微笑は面白がりながら漁夫を引きとめ、口述を注意深く聴取していると捉えることができる。二つ目は、その漁夫の丸い背中に対して真っ直ぐ伸びる二翁の背中。これは桃源の里を後ろにして、二本の平行線を描いている。それとあわせて三つ目は、翁の持つ杖である。背中の線に加えて、俗界からの侵入者に対して「通せんぼ」をして、それとなく桃源の平和を守ろうとする者の図像とみることが出来る。最後に四つ目は、桃の木。一本は漁夫と二翁を隔てて横様に伸びている。他は漁夫の向こう側に立ちはだかり、いわば二翁とともに取り囲むように描かれており、桃源の村里へ通じる路をふさぎ隠す様子からは、奥へ招じ入れようという気配が感じられない、としている。
左幅は武陵漁夫の桃源郷からの出境(exit)と捉えている。Cの人物は桃源の村人。それはこの笑顔から判断される。Dの人物は桃源の村長風の老翁。それは黒頭巾と竹杖といういでたちや、左手の人差し指を立てる仕種からである。これは陶淵明「記」にある〈此の中の人、語げる云う、外人のために道うに足らざるなり、と〉という桃源についての口外禁止を告げる仕種と類似している。Eの人物は漁夫。これは「へのへのもへじ」面で「つ」の字に口をあけて笑うその表情からである。Fの人物は桃源の村人。小走りで画面の右手奥(桃源からの出口である洞窟)を指差す仕種をしている。Gの人物は桃源郷の若者。腕を組んで胸に上げる長揖という仕種をしており、これは袁中郎詩に「洞外に一たび長揖して、人・仙此より分る」とあるように、仙側からの挨拶であることが分かる。よって左幅の内容は「村中が喜んで漁夫を送り出す場面」である。これは、入境・出境とすることで右幅とのコントラストをつけたのだろう。ここからは次の二つのことが読み取れる。まずは、桃源の人のにこやかな表情や仕種から読み取れる、蕪村の皮肉な解釈である。桃源の人たちのにこやかさは、逗留中に仲良くなったがゆえのものではない。この異分子が二度とこの地に戻れないことを知っていながら、そんなことをおくびにも出さず、彼を追い出してほっとしたことから出るものである。次に漁夫の表情から読み取れる、浅はかさや愚かさである。村人たちの一種の底意地の悪さに気付かず、嬉々として別れを告げる漁夫。俗人にして俗物の漁夫は村長から言い渡されたタブーは念頭になく、帰ったら秘境発見の手柄話をして、偉い人たちとともにまたやってくるつもりであろうか。愚かな漁夫は二度とこれないことを知る由もない。
最後に双幅として。私たちが期待するものは、桃源への夢想の郷愁を込めた展開であるのに、ここでは真の桃源への入り難さを語る。強烈な知的アイロニーである。そして蕪村の「癖するところある」桃源郷解釈(『桃源行図』参考)が窺える。陶淵明の詩を読み込んでいる蕪村だからこそ、この画で「桃花源記」の新しい読みを示唆していると言える。また、双幅に描かれなかった部分(桃源郷内部)が蕪村の居る場所ではないだろうか。これは自らが桃源の人となっており、漁夫のように桃源に入ったり出たりするのではない。以上が芳賀徹氏の説である。
次に、袁中郎の詩と蕪村の画の関連性を考えながら解釈をした山形彩美説について紹介する。なお、図の通し番号はそのまま利用する。山形氏も右幅を武陵の漁夫の桃源郷への入境(entrance)と捉え、芳賀説を概ね追認する形となっている。@Aの人物は仙人(桃源の老人)、Bの人物は漁夫としているが、それぞれ図2「四五四 顔筆仙図」、図3『画荃』巻四、図4『八種画譜』の一『新鐫七言唐詩画譜』を挙げ、蕪村の描く仙人、漁夫と具体的な共通点を紹介している。例えば図2「四五四 顔筆仙図」はふさふさの顎鬚に扁平な帽子が共通、図3『画荃』巻四は杖、巾着、瓢箪が、図4『八種画譜』の一『新鐫七言唐詩画譜』においては髪型、服装、櫂、裾を持ち上げる様子、と共通点が多い。また、図4『八種画譜』の一『新鐫七言唐詩画譜』の画の基は中唐陳羽の詩(『三体詩』巻一所収「伏翼の西洞荷人を送る」)であり、画も詩も桃源に近いものとなっている。そして、全体としては桃源の老人二人が漁夫を温かく出迎える場面であり、ここでは芳賀氏と同じく袁中郎の詩其の二〈白頭の 髻子、花裏を去くこと仙の如し〉を引き合いに出している。しかしそれだけでなく「桃花源記」の〈魚人ヲ大驚キ、従テ来ル所ヲ問フ。具ニ之ニ答フ。便チ邀ヘテ家ニ還リ、為ニ酒ヲ設ク。鶏ヲ殺シテ食ヲ作ル。〉や「劉阮天台」の〈便チ劉阮ス之姓名ヲ喚ブニト、旧有ルガ如シ。喜ンデ問フ、郎等来タルコト何ゾ晩キト。因キテ邀ヘテ家ニ過ル。庁館服飾精華ナリ。東西各床有リ。帳帷ニ七宝纓珞ヲ設ク、世ノ有ル所ニ非ズ。〉からも、仙人が明らかに人を歓待している様子がみられると言っている。
次に左幅は武陵漁夫の桃源郷からの出境(exit)である。Cの人物は芳賀氏と同じく桃源の人。Dの人物は陶淵明のイメージが濃厚に投影された桃源の人と捉えている。なぜなら図5「五五六 柳下陶淵明図」に描かれている陶淵明と杖、頭巾、胸がはだけた姿が共通しているからである。しかしここで陶淵明であると断定しないのは、「桃花源」の作者が「桃源図」に描かれた例は未見だからである。EFの人物は脱俗の人物、ここから芳賀氏の説との違いが生じる。この理由としては図6「四六八 寒山拾得図」の人物との類似点が挙げられる。具体的に、この作品の人物の髪型、履物、衣服は、脱俗の人物を彷彿させる。また、もし左幅に寒山拾得の如き脱俗の人物が描き添えられているとするなら、仙境としてのイメージを高める効果もある、といえる。Gの人物は若返った漁夫であると主張している。それはこの人物が長揖をしていることが理由の一つである。長揖は『漢詩大観』(鳳出版 一九七四年)の一五例中、十二例が別れの場面において辞し去るもの、立ち去るもの一方が「長揖」するのである。そのことから、このGの人物も立ち去る人、つまりは漁夫だと考えることが出来る。また、仙境には不老長寿の効能がある桃の実があるといわれ、その他の仙薬の話もつきものである。よってそのおかげで若返った漁夫と捉えることが可能なのである。まとめると左幅は桃源の人が若返った漁夫を温かく見送る場面である。右幅の説明と同じく、「桃花源記」「劉阮天台」の詩から仙人は、人を歓待するものだということが大前提にある。
  最後に、双幅として。右から左へ漁夫が移動していることが分かる。すると、右幅は左手奥、左幅は右手奥に桃源郷があると考えられる。そして画に描かれていない桃源郷の内部は袁中郎の詩によってその様子を想像できる仕組みになっているという解説がある。
以上が芳賀徹氏、山形彩美氏二人の解釈である。私は蕪村が詩と画で全く同じことを描くとは思えない。その点では二人の解釈と一致する。しかし、私は山形彩美氏の説を支持する。蕪村は、画と詩がお互いに助け合う作品を目指していたのではないだろうか。これは、連句と大変似ているところがある。一つ一つの句が組み合わさって出来るのが連句である。それと同じように、ここでは、袁中郎の詩と蕪村の画が合わさって、ひとつの作品を完成させているのである。これぞまさに蕪村だからこそ描ける画といえるのではないだろうか。谷地快一教授は『与謝蕪村の俳景』で「俳諧ものの草画は、こうして画俳に通じた彼が創出した、句と絵の付合という新しい様式ではなかったか。」と言っている。これは俳諧ものの草画ではないが、同じようなことが言えるのではないだろうか。また、物の怪や人に忌み嫌われるものに対して優しいまなざしを向ける蕪村が、桃源の人に漁夫に対して冷酷な態度をとらせるとは私は思わない。よって、山形彩美氏の説を支持するのである。

   第三項 蕪村命名説
  陶淵明の「帰去来辞」の一文は「蕪村」命名の根拠と目されている。それは〈田園将に蕪れんとす 胡ぞ帰らざる〉の一文である。これを「帰去来辞」由来説と呼び、一般的に受け入れられている説である。これについて少し紹介しよう。
  この根拠とするものは@蕪とは「荒れている」ということで、蕪村の脳裏に浮かぶ生まれ故郷毛馬村は、いよいよ荒れ果てていた。そうした故郷への愛惜の情が生んだ。A蕪村は陶淵明が好きであった。蕪村の死後、夜半亭の机の上にあった陶靖節(淵明)の詩集に「桐火桶無弦の琴の撫でごころ」と書いた蕪村自筆の栞があった、と門人月経が記していること等がその証拠である。(『与謝蕪村』田中善信著)
  そもそも、蕪村の出生地は毛馬村なのであろうか。毛馬村は、大阪北郊(摂津国東成郡、現在大阪市都島区毛馬町)にある。この毛馬村説は二月二十三日付(安永六年と思われる)、宛先不明の書簡の中に
   一春風馬堤曲 馬堤ハ毛馬塘也。即、余が故園也。
   余幼童之時、春日清和の日ニハ、必ず友どちと此堤二のぼりて遊び候。(一部抜粋)
とあることに最大の根拠をおく説である。また大江丸の『はいかい袋』(享和元年刊)にも
   一蕪村 性は与謝氏。生国摂州東成郡毛馬村の産、谷氏也。
とある。このような根拠があり、現在では出生地は毛馬村という説が一番有力である。
  この説のほかには天王寺節がある。京都の金福寺の「蕪村翁碑」に〈摂津ノ人。既二シテ其ノ生ズル之地ハ天王寺村二属ス。村名ハ蕪青ヨリス、乃チ蕪村ト号ス〉とあるので天王寺の生まれで、天王寺がカブラの産地だったので、蕪村と名づけたというものである。
(『蕪村集』村松友次著)
  以上のように「蕪村」の命名説は多々あるにしても、蕪村が陶淵明に心酔していたことは間違いないだろう。第一項、第二項で取り上げた以外にも、沢山の作品を残していることからもそれは明白である。