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参考資料室

芭蕉の紀行論 ―『おくのほそ道』を中心に―   丹 野 宏 美

  第三章 『ほそ道』の表現の特徴

   第一節 虚構性と風雅の理想
  『ほそ道』の内容が、実景や曾良随行日記との相違点から、実際の旅の事実と異なることを問題視する議論があるが、すでに述べたとおり、もともと芭蕉は虚構性こそ文学としての紀行の真髄であると考えている。したがって、相違点を列挙したり実証を試みたりする議論は、ここではあまり意味をなさない。むしろ『ほそ道』の虚構性と、虚構性をとおして芭蕉が何を表現したかったのかについて考察してみたい。
  『ほそ道』の主人公「予」は、芭蕉という作者を捨象して別人格を形成し、作者は旅を題材にして、いかに風雅の理想を実践していくかという虚構の文学に臨んでいる。
  『ほそ道』は、「予」が「行く春や」と旅立ち、終着に至っても「行く秋ぞ」と新たな出逢いや発見を予感させながら、全体をドラマ化して展開する画期的な紀行文学である。
さて芭蕉は、この旅の途中で風雅的世界の理想図の一環として、不易流行という基本的な考えがあることに目覚める。井本農一氏はその時期について、「歌枕や旧蹟をめぐり歩きながら、芭蕉は人間の営みの中に、変るものと変らないものがあることに考えをすすめていった。(中略)そのことについては、羽黒山に滞在しているとき、土地の俳人呂丸に初めて話した」(注52)としている。今栄蔵氏も「考え方の原型は羽黒山の滞在一週間の間の芭蕉の俳壇の中に早くも現れる」(注53) と述べている。
そもそも、羽黒山滞在中、芭蕉を案内した呂丸が、芭蕉の俳談を書きとめた『聞書七日草』に、「天地流行のはいかい」「風俗流行のはいかい」(注54)などの語が見られる。このことから、両氏の説は、この書に書いてあるすべてが、芭蕉の説として受け取るわけにはいかないとしながらも、「羽黒山でこの特殊な言葉が、芭蕉の口から出たものである」ことを論拠にしている。また金沢で出会った北枝の『山中問答』に「不易の理を失はずして、流行の変に渡る」(注55)という記述が見られる。
このことは、井本農一氏が述べるように、「金沢から福井の近くまで芭蕉に同行した北枝が芭蕉から聞いた教えに基づく」(注56)ものとみられ、すでに芭蕉の信念の中にこうした考えがあったことを物語る。尾形仂氏は、「こうした信念に到達したのは、元禄二年の旅の終わった後」(注57)だったとしている。この説は、『去来抄』に「此の年(元禄二年)の冬はじめて、不易流行の教えを給へり」(58)とあることを論拠としている。
いずれにしても不易流行の理念を悟ったのは、『ほそ道』の旅の途中か終わった時期であり、出発に当たってはまだ模索の段階であったと思われる。
久富哲雄氏は、「冒頭の〈月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人也〉という一節は、人生を旅と観ずる芭蕉の人生観の表白であるとともに、流転変化することこそは、この宇宙の恒常的な不変の原理であるとする不易流行論の理念を打ち出したものであった」(注59)とされる。私見としても、この説明は、不易流行の理念を簡明に示したものとして理解するものであるとすると共に、この芭蕉の理念は、少なくとも旅の発端から実相としてあったのではなく、執筆の段階において虚構の文学として書いたものと考える。
もっとも、仮にそのような理念が出発の時点からあったとしても、李白の詩などに思いを馳せながら、高い教養に基づいて、観念の世界の中で表現した虚構の文章であろう。
ところで不易流行論から醸し出される「流転の相の中における永遠なるものへの憧憬の念は、武隈の松・壺の碑の章にも述べられているが、平泉の章は特に強く叙述されている」(注59同)ことはすでに確認したところである。このことを書くことが、芭蕉の『ほそ道』の執筆の狙いそのものであったと考えられる。
『ほそ道』の執筆の狙いに関しては、井本農一氏は、「風雅的世界の理想図を描く」ことにあったとみている。(注60・61)これに対して、久富哲雄氏は、「『ほそ道』の執筆には、〈不易流行〉の理念に目覚め〈軽み〉への志向が芽生えた奥州の旅を振り返り、その意義を確認するという意味合いが含まれていたともいえよう」としながら、「両者相反するものではなく、相補うべき説である」(注62)としている。現代から見れば、後者は結果として前者に含まれるように理解される。
  少なくとも、このような不易流行論を根底にした風雅的世界の理想図を描く狙いは、旅の事実のみを書く紀行では実現しえず、別次元の虚構の文学において実現するものである。

   第二節 句文融合
  『ほそ道』の表現の形式は、紀行文の中に句が挿入されている俳諧紀行文である。
  芭蕉はすでに述べた『笈の小文』の紀行論の中で、「紀貫之、鴨長明、阿仏尼らが、すぐれた文を書き、旅情をこまやかに述べてからは、その後の紀行文はみなどこか似かよってしまっている」(注63)とし、誰にも書けそうな旅の事実を書いても詰まらないとして新しさを希求していた。これまでも紀行の文に和歌など配列する作品はあったが、『ほそ道』は、地の文と句が見事に融合しているという新しさや独創性を実現した。句が中心でも文が中心でもない。地の文が句において集約され、句は地の文に新たな生命を吹き込むという相互作用をなし、全体として詩的で文学的な響をもたせている。
  例えば、「行く春や鳥啼き魚の目は涙」の句は、それだけ読めば唐突で大袈裟な表現であるが、旅立ちの章の前段に記す惜春の情と離別の情が句に集約され、後段で旅立つ人と見送る人の名残惜しい思いが句と一体となり、翻ってこの句が文全体に余韻を残す役割を果たしている。
もう一つ句文融合である表現形式を理解しないと理解がしにくいのが、遊行柳の場面であろう。能の「遊行柳」は、昔、西行法師が旅した折、「みちのべにしみづながるる柳かげしばしとてこそ立ちとまりつれ」(注64)という和歌を詠んだ、そのゆかりの朽木柳の精という化身と旅人(遊行上人)が対話し、世阿弥が様式化した夢幻能の世界を展開するドラマである。(注65)「田一枚植えて立ち去る柳かな」の柳の意味を理解するには、この章の「すみづながるる柳」のこうした由来が不可欠となる。その理解に立てば、句文融合の表現形式により、この局面を夢まぼろしと儚く消える夢幻劇的世界に導いてくれる。そして、主人公が西行法師の「暫しとてこそ立ちどまりつれ」と詠まれた柳の木陰に、田一枚植え終わるほどの長い時間感慨に耽りながらたたずみ、そうして夢幻劇的世界から目覚め、名残りを惜しみながら詠嘆して立ち去る局面が理解できるのである。なお、「植えて」「立ち去る」の主体のとらえ方について諸説展開されているように(注66)、主人公の動静には、地の文と句の融合した全体の流れの中で様々な想像の世界をみることができる。このことは、『ほそ道』が様々な想像を展開させながら読める紀行であることを意味している。
  すでに、仏道修行に関連して述べた立石寺の章も、様々に想像の世界をめぐらせるが、やはり見事な句文融合の姿をなしているものとして評価される(注67)。「仏閣を拝し、佳景寂寞とした境内の雰囲気」と「心の澄みゆく」己の心を、「閑かさや」の句に集約させて絶唱している。続く最上川の句の意味合いがおもしろい。
   五月雨を集めて早し最上川
  この句の中七は、「集めて涼し」の形で大石田での歌仙の発句として詠まれたものであった。もとより最上川は日本三大急流の一つであり、古来より早川として有名である。
諸説は、「実際の体験をとおして、俳席の挨拶の句から、急流の本意をとらえた句へと転位したものである」としている。(注68・69)。そのとおりであるにしても、ここでは中七の改案によって句文が見事に融合していることを指摘しておきたい。すなわち「日和を待つ」と気象の状況を示した上で、「最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。碁点・隼など恐ろしい難所あり。(中略)白糸の滝は青葉の隙々に落ちて(中略)水みなぎつて舟危ふし」と畳み掛ける文章と気象・地理的状況の記述は、「集めて早し」でなければ、この句文は収斂しない。
そして「〈集めて早し〉と言い切ることで、まったく主題の異なる二つの作品」(注70)となり、改案された句は、翻って地の文にも新たな息吹を与えている。
ところで更に読めば、そのような急流であっても、最上川は「稲船」と相まって、古今和歌集・東歌の「もがみ河のぼればくだるいな舟のいなにはあらずこの月ばかり」(注71)の古歌を想起させ、沿岸一帯の豊穣を彷彿させている。
谷地快一氏は、「蕉風の第二段階は、古典と日常素材の調和をはかった『ほそ道』の世界」とし、この最上川の句を一例に挙げられる。(注72)
私見を加えれば、この句は地の文の「稲船」との融合をとおして、出羽の景と流域の農耕生活の日常的な光景を含みながら詠んでおり、蕉風そのものと考える。
なお蛇足ではあるが、同氏は蕉風の第三段階として、「現実人生への関心を強め、古典から自立して(中略)、〈秋深き隣は何をする人ぞ〉というような世界」(注73)とされ、最晩年の俳風で締めくくられる。筆者も、現代人にも通じる人生の孤独感・寂寥感などが入り混じったこの頃の作品が、蕉風の到達点であると確認するところであるが、やはり最上川の句が、地の文と融合して、芭蕉の作品の文学的成熟度を満喫させることも忘れられない。ともあれ、句文融合という視点で、この紀行を読み直したときに、『ほそ道』の魅力は倍増する。