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参考資料室 |
芭蕉の紀行論 ―『おくのほそ道』を中心に― 丹 野 宏 美
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第三節 精神(仏道)修行
隠棲の生活の中で侘びの世界に徹し、漂泊の長い旅に出た芭蕉に、「精神修行」を求めるのは、言わずもがなの感を否めないが、この紀行の魅力を語る上で、避けて通ることができない。
芭蕉は深川に隠棲した頃、仏頂和尚に禅を学んだことは、すでに述べたとおりである。
また『野ざらし紀行』の旅では、鎌倉の円覚寺の大蘋和尚の死を悼む記述をしている。とはいえ、本人自身は僧侶でも仏門の人でもない。しかし、日光で主人公の姿を「桑門の乞食巡礼のごときの人」と表現するほど、芭蕉の心底に仏道修行の精神が流れていることは間違いない。
あらとうと青葉若葉の日の光
この句の解釈として、角川ソフィア文庫本は、「純粋な自然礼賛とのみ受け取ることはできない(中略)家康の威徳を称えようとする考えから出発いていた」(注34)とする。久富哲雄氏も、「日の光は、太陽の光線であるとともに地名の日光を詠みこんで(中略)日光山東照宮の威徳に対する賛美の気持ちが込められている」(注35)とする。『新編古典文学全集』(注36)も「東照大権現の御威光」であると注釈する。
また、鈴木秀一氏は、章段の特色として「芭蕉の日光賛美は、そのまま東照宮賛美に重なる(中略)太平に収まった世の中が徳川家によってもたらされたことに対する芭蕉の感謝の念が率直に表れた章段」(注37)と、一歩踏み込んでいる。
しかし、以上は現実との関わり合いを捨て風狂の世界に没入している作者にしては、仏道修行の精神に先立って権力者の威光を強調しすぎた解釈に思われるし、第一これらの解釈に、それほど複雑でもない次の本文の内容が加味されていない。
卯月朔日、御山に詣拝ス。往昔、この御山を「二荒山」と書きしを、空海大師開基の時、「日光」と改め給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今この御光一天にかかやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の 栖穏やかなり。なお憚り多くて、筆を差し置きぬ。
この文には、御山・詣拝・空海大師開基・さとり・憚りなど、仏教に関する言葉で綴っており、「あらとうと」の意味に、御仏の尊いことに祈る仏道修行を背景とした「ああ尊いことよ」という意のある解釈を忘れてならない。羽黒山の「ありがたや」も同じ趣である。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
この句にしても、「閑さや」の意味について、諸説には「全山は寂寞としずまりかえって物音一つしない」(注38)と静寂のみを問題にするものが多い。そうした中で、松隈義勇氏は、「蝉の声は人の心に染みとおる死霊の声にほかならぬとおもわせるような契機となっているのを感じる。(中略)〈閑さ〉が、文字の額面通りの幽清閑寂というだけでなく、寂静・涅槃の死の世界に通じる、底無しの深さを潜めている・・・」(注39)として、仏道との関連を含めた解釈をしている。
また、堀切実氏は、「この句の蝉の声は、芭蕉の生命の声であり、そのまま大自然の岩に溶け込んでゆくような感じである。(中略)禅の道元の説く〈身心脱落〉(自分のからだも心も、自我の殻を打ち破って、あるがままの境地)になることをいう。〈閑さや〉の句の表すものは、まさにそれで単に静けさを表しているものだけではない」(注40)と解して、そこには「大自然と自分の心が一体となる境地を示している」(注40同)と述べている。
私見としては、これらの解釈に導かれることを多とするが、仮に芭蕉がこの句を遺さなかったとしても、この山道に臨めば、宗派をこえて誰しもが仏道の心を喚起し、「仏閣を拝し、佳景寂寞として心澄みゆくのみおぼゆ」ものと思われる。そこで『ほそ道』の作者は、本来ならうるさいはずの蝉の声が、岩山や松柏、さらに苔滑らかな老いた土石などの自然の設えた環境と一体となって、仏道の心の静まる思いを詠嘆したものと考える。そうした中で、「しみ入る」の語を含蓄あるものにし、この句を名句と言わしめている。
芭蕉は本文において、日光の空海(弘法大師)に対し、ここでは最澄(慈覚大師)を登場させたのであり、この句文によって、他の寺社における参拝と趣を異にしており、人の勧めによって、わざわざ予定外に山寺を訪れた積極的な理由も、このような場を求めたからに他ならない。
このほかにも、同行・行脚などの文言はもとより、雲巌寺の奥の仏頂和尚の旧居跡で徳を讃える筆の運び、瑞巌寺の見物聖を尋ねる記事、さらに出羽三山における「天台止観の月明らかに、円頓融通の法」などの件に続いて、那谷寺・永平寺ならびに数々の上人・禅師が終章間近まで登場して、仏道修行の一面は、『ほそ道』のいろいろな局面に語られ、この紀行を特徴づけており、見逃すと単調な理解に陥ってしまいかねない。
なお、芭蕉にとって、仏教的無常観が一層深められ、老荘思想から仏教思想へ転換したのは、基角の『芭蕉翁終焉記』に「是ぞ玉の緒のはかなき初め也。爰に猶如火宅の変を悟り、無所在の心を発して」(注41)と書かれているように、「天和二年(一六八二)に大火に見舞われ人生の無常迅速を体験し、翌年、実母の死亡という悲報を聞いた頃」(注42)であったとみられる。
第四節 旅の出逢いと心の変化
話題を旅の第一夜である草加のあたりまで戻すと、「もし生て帰らばと、定めなき頼みの末をかりて」と、弱気な真情も滲ませる。この長途の旅では、旅に対する期待から強気な意志を表示する反面、時として顕に悲壮感を漂わせている。このような主人公の心の変化は、紀行全体をとおして人々の出逢いや別れの姿に巧みに表現されている。
さて「予は」つまり主人公は、千住で気心の知れた人たちに、「後影の見ゆるまではと」見送られるのであるが、最初に対面するのは日光の宿の主人・仏五左衛門である。
作者は、「わが名を仏五左衛門といふ。よろづ正直を旨とする」と自己紹介させ、さらに、「唯無知無分別にして、正直偏固の者なり、剛毅朴訥の仁にちかきたぐひ、気稟の清質もっとも尊ぶべし」と、正直な仏五左衛門を登場させる。
諸説の中には、この章を「観念的な描写」(注43)と見るものや、「室の八島と日光山
東照宮という神祇の記事が連続するのを避けた」(注44)とするものもあるが、鈴木秀一氏が、「芭蕉はそこに、〈無知無分別〉という禅的、仏教的な悟りと、『論語』にいう〈剛毅朴訥の仁〉に近いものを見自らの理想とする人物の一人として描いている」(注45)と説くのは至当である。なぜなら利害得失が重要視される江戸の俗世界から開放されて、この行程では最初に、正直一点ばかりの人を登場させたかったのである。
それだけでなく、続いて那須の黒羽では、「雨降り日暮るる」中で、「農夫の家に一家を
借りて、明くれば野中を行く」というふうに、途方にくれたり難儀をしたりして、歩き続ける道中に、馬を貸してくれる正直に親切を加味した農夫を登場させる。そして、その小娘の「かさね」には、その名の優雅さと共に、野道を行く姿に心温まる思いと安堵の心を表現する。
すでに触れたところであるが、飯塚の里ではあやしき貧家に泊り、蚤・蚊にさされて
眠るどころではなく、持病もおこって、気の遠くなるような苦痛を味わう。
そのような苦痛の後の仙台では、風流にいささか心ある画工加右衛門という人に逢う。
この画工加右衛門には、一日案内してもらったうえに、松島・塩竈の案内図を描いてもらい、且つ紺の染緒を付けた草鞋二足をもらう。画工加右衛門の好意も半端ではないが、主人公の感謝の気持ちもそれに呼応して、「風流のしれ者、ここに至りてその実を顕す」と謝意を示し、次の句を残す。
あやめ草足に結ばん草鞋の緒
石巻を通りすぎる頃も、「さらに宿貸す人なし」と心細い旅を続け、念願の平泉で歌枕
を見た後、出羽路に向かい「よしなき山中に逗留する」と、旅寝の侘しさを表現する。
蚤虱馬の尿する枕もと
この句について諸説のほとんどが宿泊の悪条件を表現したものと解しているが(注46)、
飯塚の里よりははるかに機知に富んでおり、不安な旅心にも少しずつ変化がみられてくる。先に進んで、緊張感のある危険な大山を越えるあたりでは、陸奥から出羽へ(表から裏
へ)でる重大事件(注47)であり、試練であるにもかかわらず、無名の案内人を信じきっ
て助力を受けて、無事ついたところで、互いに喜んで分かれている。
ここまでは正直者との出会いに始まり、恐怖や緊張そして感謝の繰り返しが続き、石の
巻を除いて、その都度、支援者が登場する。だが大まかにいえば触れ合う人は異色であり、館代やの郡代など屈託がないようにも見えるが、なんとはなしに厳格な人物も登場する。
出羽に入ると、登場人物の雰囲気が一変する。おおらかで、ほとんど緊張感がない。
涼しさをわが宿にしてねまるなり
尾花沢では、長旅の疲れを癒し、すっかり安息して、がちがちの漂泊から一皮むけて風雅を楽しむ座の中にいる旅の主人公の姿がある。加えて、「富めるものなれども志卑しからず」と、徒然草(注48)から引いて紹介される豪商人・清風の心づかいも、それに対する主人公の感謝の気持ちも句文に現われる。
大石田では、雨天のために舟待ちをする間、「道しるべする人」を求められて、土地の人々と一巻を巻き、「この旅の風流ここに至れり」と、この人たちと座を持ったことを喜ぶ。
出羽三山は霊験あらたかな信仰の山でありながら、ここで門人となる図司左吉(俳号呂丸)の案内で別当代会覚阿闍梨に謁するが、この高僧の処でも思いやりあるもてなしを受けて、本坊において俳諧を興行し、巡礼の句々を短冊に書くなど気軽な触れ合いが目立つ。
ありがたや雪をかをらす南谷
この後の旅での出逢いは、鶴岡の重行・酒田の不玉・象潟の低耳(美濃の商人)金沢の北枝等気楽な門人と新たな仲間、宿を共にする商人、宿の主人で門人となる久米の助(小童)、丸岡天竜寺の長老、そして紙と硯を持って追いかける若い僧たちであり、人々との触れ合いに心の余裕を覗かせる。
余裕を覗かせるのは、人々との出会いだけではない、酒田では夏の暑さを心地よく二句吟じ、象潟では「雨もまた奇なり」と受け入れ、飯塚の里のような苦痛も石巻を過ぎる頃のような不安もなくなって、心の変化を如実にする。
異色なのは、市振の宿での遊女との出会いである。旅路を共にすることを懇願されるが、不憫に思いながらも「ただ人の行くにまかせて行くべし」と突き放し、
一つ家に遊女も寝たり萩と月
と詠み、曾良に書き留めさせるが、読者の想像を多様に展開させる局面である。
ただ筆者には、この局面において富士川のほとりの哀しげに泣く捨て子に、食物を投げて通り過ぎた『野ざらし紀行』の旅のシーンを彷彿させる。この章は端から、「親知らず子知らず」等の難所という地名から入り、芭蕉の止むに止まれぬ情感を垣間見る思いがして、一部の有力説のように、恋の話題とすることにためらいがある。
ただこの句を含め、尾花沢の「眉掃き・・・」の句、象潟の美女の「西施」を登場させる句と曾良の「みさご」の句、さらに後述の越後路の七夕の夜の「荒海や・・・」の句には、艶なる思いが忍ばれ、この間の道中を彩っていることも確かであり、恋の予感に躊躇してばかりではいられない。
特筆したいのは、福井の等栽を訪ねる件である。「あやしの小家に夕顔・へちまの延へかかりて」あるいは「昔物語にこそかかる風情ははべれと」と、『源氏物語』の夕顔の巻(注49・50)を引いて、等栽の屋敷や妻の応対の風情を表現するのはさすがだ。須賀川では、先輩格の等窮が、隠棲している僧・可伸を紹介するが、福井では無愛想な妻が、古き隠士である等栽を紹介する。前者では厳粛な風情、後者では昔物語という設定でありながら、むしろ等栽の妻に対する共感を裏返しに表現しおり、風変わりながらかえって日常的な出来事としての情趣を感じる。
以上、ここまで考察してきた「旅の出逢いと心の変化」は、平泉を境にして出羽に入る前半部と後半部の相違点が、後述するこの紀行の「巧みな構成」に、深く関わってくる。
ところで、同行・曾良との別れと再会も、舞台の設定や心の動きが絶妙である。まず、腹を病んだ曾良との別離の舞台は、効能豊かな山中温泉で、しかも小童ながら手厚く介抱してくれそうな主人がいる宿である。事実療養に努めたのであろうが(注51)、なぜか、曾良がわざわざ長旅をして伊勢の縁者の処へ発つことから、二人の間に何があったのかと、現代の読者の憶測を呼ぶ。
行き行きて倒れ伏すとも萩の原
曾良の旅立ちの心は、不安も後悔もない、行き倒れたとしてもそこは、萩の花の美しく咲くところですからというのであるが、やはり深刻である。
今日よりや書付消さん笠の露
芭蕉も二羽の鳧(ケリ)が別れて、雲間に迷う一羽に喩えたうえで、別離の辛さを右の句に詠んでいる。ところが全昌寺では、曾良が前夜ここに泊ったことを書き、「一夜の隔て千里に同じ」と付け加えるが、あわただしく先を急ぐ。福井の近くまで送ってくれた金沢の北枝に「折り節あはれなる作意など聞ゆ」と多大な信頼を寄せ、その後も次に登場する等裁を頼りにする。そして露通も敦賀まで迎えにくる。
ここまでは、読者の推理心に高まりをみせても仕方がないのだが、大垣では読者の無駄な詮索を全く無視するがごとく、曾良は伊勢からはせ参じて、大勢の門弟と共に出迎える。
もちろん主人公のところには、親しい人・門弟が日参して、「蘇生の者に会ふがごとく」と、無事を喜び、ねぎらいを受ける姿がある。結局はよき門人に恵まれていたことを物語るのである。
このように、主人公の行き逢う人との出会いや別れが旅の心の変化を現わして、作者の人間性を顕在化させ、紀行をとおして芭蕉の求める生き方や人間像に迫っている。
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