(二)穂村が短歌を選んだ理由
エッセイ『本当はちがうんだ日記』の帯の文句には「今の私は『リハーサル』。ある日、素敵な「本当の私」に生まれ変わるのだ。」とある。
このエッセイのタイトルと帯文で全てを表していると言っても過言ではないが、穂村の創作理由はつまりこういうことである。
つまり自分は素晴らしいと思ってるわけじゃない。根拠ないけど。何もやっとことないけど。素晴らしくないなら、俺は死んじゃうよ、と思ってるわけ。そういう風でしょ、若い人間は。(2)
何者かでありたいっていう気持ちがまずあって、そこで(林)あまりさんのあれをみた瞬間に、あ、これは俺できるって、すごい思った。(中略)その時は、自分が一方的に受けてって意識じゃなくて、これで瞬間に自分も世界に対して、何か表現する側に回れるって(2)
穂村の子供時代は高度成長期の真っ只中にあり、青春を過ごした時期はいわゆるバブル期であった。克服すべき不幸や貧困がない。いわば心が自然に動き、鍛え上げられる環境になかった。贅沢な悩みだが、同時に不幸でもある。周囲に何でもあるので、求める心が脆弱になる。そんななか自分自身を磨き上げる他なかった。「生まれてきたことの意味が何かだけ知りたい」「最終的にじぶんがなにを残したいかっていったら自我であり意味しかない」(2)このような思いである。
自分である意味、自我。それを世に残すには、誰でもない自分を打ち出す必要があった。それも素晴らしい自分。その一点のみの力である。
そうして穂村は短歌を選んだ。自分に物語はなくても、言葉で理想の自分の物語を歌の中に作っていくことが出来たのである。
(三)歌論検証
ベスト版歌集である『ラインマーカーズ』より、穂村の代表的な作品をここにあげておく。
体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ
「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」
終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて
試合開始のコール忘れて審判は風の匂いにめをとじたまま
風の交叉点すれ違うとき心臓に全治二秒の手傷を負えリ
目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき
恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死
恋人のあくび涙のうつくしいうつくしい夜は朝は巡りぬ
こんなめにきみを会わせる人間は、ぼくのほかにはありはしないよ
なんという無責任なまみなんだろう この世のすべてが愛しいなんて
『ラインマーカーズ』
1.共感〈シンパシー〉と驚異〈ワンダー〉
穂村自身による歌論書『短歌という爆弾』の第三章「構造図」には、「衝撃と感動はどこからやってくるのか」という副題が付けられている。歌の衝撃と感動はどこからやってくるのか。それは「共感=シンパシー」と「驚異=ワンダー」の二つであるという。
穂村の考えはこうだ。「共感とはシンパシーの感覚。『そういうことってある』『その気持ちわかる』読者に思わせる力である」(10)しかし、ただ単純に誰でも体験しているようなことを詠めばいいわけではない。ごく当たり前のことを読まれてもそこに面白みは生まれず、何よりも心を表す言葉を吟味し、研ぎ澄ます作業が行われないのだ。共感だけでは心の深い部分に刺さらないのである。
そこで必要になってくるのがもうひとつの要素、「驚異=ワンダー」である。「驚異=ワンダーの感覚とは、『いままでみたこともない』『なんて不思議なんだ』という驚きを読者に与えるものである」(10)これが一首の中あることによって、読者の意識がそこに引っかかるのである。本書にも提出されている例で見てみる。
シャンプーの香をほのぼのとたてながら微分積分子らは解きおり 俵万智
いたく錆びしピストル出でぬ
砂山の
砂を指もて掘りてありしに 石川 啄木
俵万智の歌の「微分積分」の部分が「数学の試験」ではない様に、石川啄木の歌の「錆びしピストル」部分が「朽ちし木片」でないように、想像が及ぶ範囲の展開ではなく、「自分の体験とはかけ離れた」展開を作り出すのである。これが衝撃である。これによって読者は「より普遍的な共感の次元へ運ばれることになる」(10)
では穂村自身の歌にはどのように反映されているのか。ここでも重要なのは、穂村の歌は〈わがまま〉であるということである。
何を受けて、何を求めて、何に向かって詠うのか、という問いが短歌においてあるとするならば、従来の短歌は「生身の水平方向にある他者」(1)であった。その一方で穂村が言う彼の短歌は、「垂直方向に対する憧れ」(1)その一点を見つめている。そこで浮かぶのは、「垂直方向に対する憧れ」が「ひとりの信仰」であり、個人個人の世界観ならば、共感することは不可能であり、読み手を必要としないのではないか。ごく個人的にノートや日記にまとめておけばよいのではないかという疑問である。
そこを敢えて発表する理由は、「自分のあこがれや夢とか心は、他者とか大衆であってもいいし、さまざまな場を潜らないといけないという感じがする。」(3)(筆者注・ここでいう「場」とは「自分以外のもの」であるという)という考えと、「大衆であれ他者であれ、ぼくの敵であれ、もしぼくの夢とあこがれが本当のものであれば、それは受け入れられるというか友達になれるというか。みんなそういうものを求めていると思う。他人の本当の輝きを自分に見せてほしいと思っていると思う。他人に対して逃げないでほしいと思っていると思う」(3)という漠然としつつも揺るぎない確信によるものである。
穂村が言う短歌が人を感動させるために必要な要素は「共感=シンパシー」と「驚異=ワンダー」の二点であるということは前に述べたが、垂直方向を見つつも、他者へアウトプットする彼の短歌は、「個人の世界観」が源泉ならば、「共感=シンパシー」が足りないのでは、という次元を飛び越えて、本質的には「共感=シンパシー」を目指していないことになる。
穂村はどのようにして読者と繋がろうとしているのか。それは「他人を論破する、説得するというところから、魅了する、洗脳するというかたちにシフトしていくと思う」(3)という方法である。「共感」と「驚異」による「衝撃」と「感動」で読者を「論破」し「説得」するのではなく、ただ「個人の世界」の神に対する「ひとりの信仰」のみで「衝撃」と「感動」を与え、読者を「魅了」し「洗脳」したい。すでに彼は持論すらも無視し、根源的な欲望を目指しているのだ。この行為こそ〈わがまま〉と言わずにはおれないだろう。
2.圧縮と解凍
同じ量の散文に比べて必ず韻文のほうが情報量が圧縮されている。それが難しさとい
うふうに言われているものの主原因だと思うんです。ということは、読み手の側が努
力してその圧縮されている情報を解凍しなきゃいけないということですよね。(11)
短歌は五七五七七であるが、そこにはただ三一文字では収まらない程の情報が込められている。それを圧縮とし、その情報を読み取って理解することを解凍と穂村は名称付けている。
もし理解のできない短歌があるとするならば、それは読み手が圧縮された情報を解凍できなかったということだが、穂村の歌が鑑賞される文脈の中には「わからない」という言葉にしばしば出会う。つまり彼の歌も正確に解凍されていないことになるが、それは一体どういったことが問題なのだろうか。
「短歌を読む=圧縮と解凍の新ルールを持ち込む」(『短歌研究‘04』一一月号)では、現代短歌の流れを俵万智の『サラダ記念日』以前・以降に分けて、この問題についてこのように議論されている。俵万智以前は「例えば不治の病であるとか、駆け落ちしたとか、学生運動に参加したとか、そういう私性の背後の物語が情報の圧縮、解凍を助けていたんですよね。」(11)というように、作者自身の物語があれば圧縮、解凍がしやすかったという。例え突飛な歌を読んだとしても、作者の背後の物語というその歌が生まれた背景を知っているので、それを手がかりにしていけば、読者の解凍は容易かったのである。
それに対して俵万智自身は「純粋に文体のレベルで、口語の導入によってその圧縮、解凍に関する新ルール」(11)を持ちこんだという。口語を用いることによって理解しやすくする、ということである。彼女は圧縮と解凍という定義を受けて、「解凍できないくらい圧縮するのはやりすぎじゃないかと思っているんです。でも棒立ちもどうかなあと思う。せっかく短詩型なんだから」(12)と述べている。ちなみに「棒立ち」とは「棒立ちのポエジー」のことであり、圧縮のかかっていない、読んだ意味そのままの歌のことである。
穂村は「共感=シンパシー」を目指していない、ということは1・で述べた。それはここでいう解凍しづらい、もしくはできない歌であるということだが、歌による穂村の理想は俵とは全く逆である。
誰にも解凍できないほど圧縮をかけた言葉や詩の奥義みたいのものを追求することが
できれば、そこにたどりつけば、水平方向のコミュニーケーションとは別の形で全人類の目覚めが起きるであろうみたいな。 (12)
圧縮のみで歌を完成させること。これは未だかつてどの歌人も目指さなかった未踏の地である。解凍ゼロの圧縮した歌を読んだら、共感ゼロの驚異のみが生まれるのだろうか。これを可能にするのは、次項の要素であるとする。
3.愛の希求の絶対性
『短歌という爆弾』には「愛の希求の絶対性」という言葉が登場する。「1.共感〈シンパシー〉と驚異〈ワンダー〉」ですでに述べたが、読者という他者を魅了、洗脳するため、穂村が歌をどう詠むかというときに、最強のカードとしているものである。「愛の希求」が最大限に表れているもの、それこそが素晴らしい歌なのである。
では「愛の希求」とはどういうことなのだろうか。それは恋愛歌に限ったことではないのだという。ここでいう「愛」とは「憧れ」と言い換えることができる。何に対する憧れなのかというと、それは「今はまだないもの」である。非在のものに対する憧れ、つまり「愛の希求の絶対性」というのは、愛の不可能性のことなのだ。
それは万人に共通するものではない。個人個人が根源的に持っているものなのだ。その愛は現実問題の遥か上にきらめいている。現実問題がいかに満ち足りていても、永遠の憧れとしてそこにある。
まさしく「上位の感覚」であり「ひとりの信仰」ということにリンクしている。「水平方向に他者を強く求めている感じがするかどうか、これがしないんです。そのかわりにあるものは何かというと、(中略)垂直方向に対するあこがれみたいなものです」(3)
具体的な要素は何もない。しかしそれがあるものは歌を読めばすぐわかるのだという。共通しているのは「彼らはみな何かに心を奪われている」ことなのだ。絶対に手に入らないものをそれでもなお求める強さの表れ。それこそが穂村にとって、歌における最も素晴らしい要素なのだ。
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