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参考資料室 |
現代短歌論―穂村弘の〈わがまま〉― 安 池 智 春
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■本論
一、作品論―穂村の〈わがまま〉とは―
(一)作品鑑賞
1.
「とりかえしのつかないことがしたいね」と毛糸を玉に巻きつつ笑う
『シンジケート』
一読しただけではどういった意味なのかはわからない。そういった意味で非常に穂村的と思われるが、穂村が歌を詠む時のルールとして「基本的には相手が喋ったときはカギ括弧。で、相手が喋って自分も喋るときは入れる。自分だけが喋っているときは入れない」(4)というものがある。さらにこの歌集『シンジケート』を通して読むと、詠み手である男性と恋人であるひとりの女性の対話であることがわかる。
そういった設定がある以上、この「とりかえしのつかないこと」とはあやふやなものではなく、現実の何かなのである。
それは例えば結婚、あるいは死―。結婚はしてしまえばもしのちに離婚しても、結婚していたという事実はなかったことにならない。死はもちろん、死んでしまえばそこで終わりである。やり直しはできない。どちらも二人の関係において、「とりかえしのつかないこと」である。
そして何故毛糸を玉に巻いているのか。通常毛糸はあらかじめ玉で売られているか、編み上げられてセーターやマフラーになって、私たちの周りにある。その毛糸を「玉に巻」いているのだから、すでに形になっていたものをほどいて元に戻している場面である。一度形にしてしまってもまたほどいて何度でもやり直せる毛糸。それは「とりかえしのつ」くことである。
つまりこれは「とりかえしのつかないこと」と「とりかえしのつ」くものとの鮮やかな対比の歌なのである。二人でやり直しのきくことではなく、例え破綻しようとも「とりかえしのつかないこと」をしようと望む彼女。恋人同士の日常の他愛無い会話に隠した、燃えるような鬼気迫る恋への情熱を感じさせる一首である。
2.
サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい
『シンジケート』
穂村の歌の中で最も有名な一首であり、代表歌のひとつでもある。
この歌の評価として「子供みたいで不思議」「何でもない言い方でも五、七、五、七、七の中に無自覚にはまってきちゃうと非常に幼児性が拡大してみえてくる」(5)というのがある。
「幼児性」、とはまさにその通りである。しかしこれは成るべくしてなった、「幼児」であり、そしてこの歌は紛れもなく、大人の感情を詠んだ歌である。現実との軋みに、社会の摩擦に疲れるように生活していると、心の苦しみは生きていく上で誰にも当たり前に生まれ、持ちうるものである。疲れた、休みたい。何故ここにいるのだろう。これは本当の自分ではない……。けれど自分よりつらい思いをしている人がいるなかで、みんなその苦痛を耐えている。それはわかっていてもどうしても耐えられないとき、誰にも聞かせられないから、想像できる自分から最も遠い場所の、最もどうでもいいと思われるもの、価値のないものに聞いてもらおうとする。それが「サバンナの象のうんこ」なのだ。そんなものにしか聞かせられないのである。ここには他人との繋がりが希薄な様子もうかがえる。
吐き出してしまいたい心のもやもやとした不安は、上手く言葉や理由付けができない。なんだかだるい、なんだかせつない、なんだかこわい、なんだかさみしい。そういった感情を端的に現すと「だるいせつないこわいさみしい」になる。一読すると幼稚な語感だが、幼い頃から知っている言葉であり、単純な言葉であるからこそ、根源的な切な叫びになるのだ。
そして同時に、最もどうでもいいもの、価値のないものに聞かせるこの不安もまたどうでもいいもの、価値のないものであることも子供ではないからわかっている。そもそも現実にはサバンナの象のうんこには悩みを聞かせることもできない。矛盾を抱えた、日々の不毛な悩みの歌である。
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