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参考資料室 |
『季語の研究』―「雨」によって日本人の四季観をみる― 中 里 郁 恵
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第二章 無季
前章で述べたように、「季語」について調べるにあたって、「季語」を使わないという「無季」という俳句が詠われていることがわかった。
そこで、無季についても調べてみることにした。「『俳句講座9 研究』「無季 原子公平」(明治書院)」によると、以下の通りに論じられている。
「俳句の約束というのは、第一に、俳句が、五音・七音・五音の三句節からなる十七音の詩であるということ、第二に、一句の中に、季節の感じを持ったことば、つまり季語を含んでいなければならないということです。この二つは、昔から今に至るまで、変わりなく受け継がれてきた基本的な約束です。」―‐これは、ある中学校の教科書に、私自身が書いた、「俳句の約束」という文章の一節である。
といったようにまずは「俳句の約束」から述べられている。そして、
たしかに、一般的な観念として、俳句の約束は、以上の二つのものに要約されるであろう。しかし、この二つの約束、つまり、定型と季の約束は、必ずしも永久不変の原則として今後も通用して行くものであるかどうかはわからない。(中略)季の問題は、明治以降の俳句史をかえりみればわかるように、たえず論議されてきているのである。また、いくたびか、無季俳句の実践が行われてきてもいるのである。
と、この約束はこれからも続けていくのかどうかわからないから、無季俳句というものが昔から議論されているのだ、ということである。
また、同じ「『俳句講座9 研究』」で有季論を書いている島崎千秋氏はこう論じている。
俳句を俳句と足らしめるものが十七音定型と季語である、といわれたのは昔の話で、今日ではそれは単なる「二つの約束」ごとに過ぎず、それとは別に俳句を俳句足らしめる俳句性の探求が行われているというのが現状である。そのせいか、昭和初頭を飾った新興俳句運動の時代には、有季か無季かという対立の形で季の問題に関する論争が白熱化しているのに対し、現在の俳壇では季の問題はほとんど閑却されているといっても過言ではない。
この二つの論文から、無季派が現れたことによって、「季語」を使う句、つまり有季ということが問題に上がってきたことがわかった。
無季論では、「無季俳句という季語のない俳句をつくってみるとわかることは、季語という特別の分身を持つ言葉をつかう俳句は、なんと多くを季語に助けられているかということ(『國文學―解釈と教材の研究―』「季語の行方」特集・俳句の争点ノート)」であるという文からもわかる通り、ここでは「季語」は「特別」なことばであり、「季語」によって俳句が成立しているといっているようにもとれる。だからこそ、「無季俳句には、季語に匹敵する言葉がなくてはならないということである。すでに本意の定まった季語をつかわずに、俳句として作品を出すということは、とてもむつかしいことである。(『國文學―解釈と教材の研究―』「季語の行方」特集・俳句の争点ノート)」といったように、「無季俳句」を作る側の立場の人でも「季語」から離れることは難しいのである。
では、「雑の句」についてはどうであろうか。『俳文学大辞典』の「雑の句」を見てみると、「一句の中に季節を表す言葉をもたない句をいう。逆に季節をもつ句は「季の句」という。百韻で、発句・脇は当季を詠み、月・花の定座は季を必ずもつが、それ以外で季のない句のことである。」とあり、さらに、「神祇・釈教・無常・恋・旅・述懐・懐旧・名所などと分類される。雑の句を用いることにより、季の句に織り交ぜて人事一般の事柄を自由に読み込むことができ、百韻の世界がより変化に富み詩情に満ちたものになる。」と書かれている。この文からわかることは、「雑の句」は連句や連歌において、一つの作品に四季の変化を持たせるために詠まれたものであるということである。
以上のことから「雑の句」は「無季の句」とはいっても、それは連歌や連句の中でのことであって、俳句の中では「雑」を季語のかわりに詠みこみ、それを「雑の句」とはいえないのではないか。
「季語」は約束事であるから、俳句をよむのに「季語」を用いなくてもいいのではないか。ということが、「無季」派の人たちの考えのようである。しかしこれでは、十七音という定型も、もう一つの約束であるから守らなくてもよい、という考えが出てきてしまう。このことによって、「俳句とは何か?」と俳句を知らない人に聞かれたら、なんと答えたらよいのかわからなくなってしまうのではないのだろうか。俳句を知らない人に俳句を説明するのには、やはり定義が必要であると私は考える。さらに、「無季」や「自由律」を俳句とする考えでは、詩や散文となんら変わりのないものになってしまうのではないのだろうか。「俳句」ということばがあるからには、詩や散文とは違う特徴がしっかりと説明できる「季語」の存在を、軽視してはならないのである。
しかし、前述したことから無季派の人たちは、「季語」の重要性を知っているからこそ、その「季語」に対しての反発を抱いているのではないかと感じた。
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