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参考資料室 |
講談社学術文庫18 桑原武夫『第二芸術』(昭和51年6月30日)、まえがき
<*なお、文字のシアン化は無迅の意による。>
ここに選ばれた八編によって、「学術文庫」編集部は、私が敗戦後の数年間に展開した日本伝統文化批判を代表せしめようとしたようである。この選択に私は異存はない。もっとも、最後の一遍だけはほぼ十年後に書かれたもので、方向は同じだが調子が少し変わってきている。
これらの評論によって私は近代主義者と規定された。そうかも知れない。しかし、当時私は保守的文化主義ムードへの腹立たしさのうちに伝統文化を批判していたが、「近代主義」の旗の下になどという自覚は少しもなかった。当時日本の左翼は雑誌『近代文学』によった人人をしきりに攻撃していたが、私はその論争の外にいたつもりである。私に自覚むしろ希望があったとすれば、それはプラグマチックでありたいということであった。
私がデューイを知ったのは一九四二年ごろで、『確実性の探求』にひどく感心した覚えがある。間もなく転任して行った東北大学の図書館で、京都、大阪では見付けられなかった『経験としての芸術』の原書を発見したときは嬉しかった。それをストーヴもない寒い研究室で耽読したのは戦争中のもっとも楽しい時間であった。そうしてプラグマチズムはたしかに好きになったが、それは世界にはこんな考え方もあったのかという驚きではなく、むしろ、やはり、あれでよかったのだ、ともいうべき安心感であった。性に合っていたという感じである。そして、こういう考え方は日本にもっとひろまらなければならない、という気持ちはたしかにあったが、戦後になってものを書いているとき、これでデューイの考えからはずれていないだろうか、などというような顧慮は少しもしたことがない。プラグマチズムへの志向をもったという以上、これらの文章は、その射程と効率の点から検討されることを免れることはできない。厳しい批判を覚悟している。西欧中心主義への反省が欠如していたことは認めなければなるまい。最後の一編にはいわゆる「土着主義」なるものへの傾斜が少し出てきている。これは私の戦前からの柳田国男、南方熊楠」、富岡鉄斎などへの愛好の線につらなるものである(『事実と創作』参照)。またプラグマチズムの基底には科学へのオプチミズムがあるが、私の心の底にも同じオプチミズムがいつもあり、科学不信の時代にもなお消えていないことを告白せねばならない。科学技術の成果を心安らかに享受しながら、科学精神を安易に否定する天下の大勢に同調しえない古いものが私にはある。
三十年前の文章について筆者自身が感想を語ることはつらいことだが、とくに『第二芸術』について、それを求める人が今も少なくない。今は反省しているか、と言わんばかりの質問もある。私はここに五年前に『流行言』と題して書いた短文を再録して寛恕乞うのみである。
<『流行言』は省略>
短詩型文学については、鶴見俊輔氏の「限界芸術」の考え方を参考にすべきであろう。私は『第二芸術』の中で長谷川如是閑の説に言及しておいたが、鶴見氏のように、芸術を、純粋芸術・大衆芸術・限界芸術の三つに分類することには考え及んでいなかった(『鶴見俊輔著作集』第四巻「芸術の発展」)。しかし、現代の俳句や短歌の作者たちは恐らく限界芸術の領域で仕事をしているということを認めないであろう。なお、最近ドナルド・キーン、梅棹忠夫の両氏は『第二芸術のすすめ』という対談をしておられるが、そこでは『第二芸術』で私が指摘したことは事実であると認めた上で、しかし名声、地位、収入などと無関係の、自分のための文学としての第二芸術は大いに奨励されるべきだとされている(『朝日放送』一九七五年十二月号)。これは長谷川如是閑説と同じ線である。
私の文学批評は文芸社会学的な面を常にもっている。私の単詩型文学批判は十分な社会調査をふまえていない、という批判があったのはもっともである。しかし、私はそこまで手をのばす余裕がなかったのである。ただその後、現在の大学生がどのような俳句を愛好し、それについてどれほどの知識をもっているのか、についてささやかな調査を試みたことを付言しておく(『文明感想集』所収「大学生と俳句」)。
一九六〇年以降、日本人が経済成長によって自信を回復したのはよいが、同時に、世界から切りはなされたものとしての日本文化の特殊性が強調、賛美され、日本文化はこれでよろしいのだという文化的ナショナリズムの風潮もつよまったように見うけられる。世界の中での日本という自覚が一層要請される今日、これは危険な傾向ではなかろうか。素朴な形においてではあるが、これらの文章はそうした風潮への反措定として、なお若干の意味をもちうるかも知れない。
文庫におさめるにあたって、言葉の使い方、段落の切り方、その他、不備の点に気づいたが、これらの文章の若干は論争の主体ないし対象となったものである。それをいま改めることは公正でないような気がするので、一、二の例外をのぞき、すべてもとのままとした。ただ編集部の裁量によって若干の言葉に簡単な注を加えてもらった。
一九七六年五月 桑原武夫
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