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参考資料室 |
最上河はやくぞまさる雨雲ののぼればくだる五月雨のころ
『兼好法師家集』(岩波文庫)でこの和歌を見つけて、すごく嬉しい気分になった。「家集」とは個人の歌集のこと。本歌は、醍醐天皇下命の『古今集』巻第二十「東歌」、
最上川のぼればくだる稲舟(いなふね)のいなにはあらずこの月ばかり
兼好法師(一二八三頃〜一三五二頃)の和歌は、二条為定(ためさだ)邸で行われた「褒(ほ)め貶(そし)る」和歌会で、「五月雨」を題に詠まれたもの。為定は兼好の和歌の師である二条為世(ためよ)の孫にあたる。兼好は生前は『徒然草』の作者としてではなく歌人(和歌四天王の一人)として知られていた。二条良基(一三二〇〜八八)は晩年に著した歌論書『近来風体抄(きんらいふうていしょう)』(一三八七)で、歌人としての兼好を「ちと俳諧の体をぞ詠みし」と評している。少しくさしているか。(丸山陽子『兼好法師』笠間書院)
稲田利徳氏は『徒然草』と兼好の自撰家集を対比し、「「徒然草」の、「花はさかりに、月はくまなきをのみみるものかは」という斬新な美的理念を基底にした歌は、「家集」には顕著ではない。これは、和歌には伝統的な本意意識の呪縛があったのに対し、随筆という新しい文芸様式が、自由で独自な美的理念を展開させる要因ともなっているとの見方も成り立つであろうか」と述べている。(『徒然草論』笠間書院)
さて、兼好の和歌からすぐ思い出すのが『おくのほそ道』の次の一節。
「左右山覆ひ、茂みの中に船を下(くだ)す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の瀧は青葉の隙(ひま)ひまに落ちて、仙人堂岸に臨みて立つ。水みなぎつて舟危ふし。
五月雨をあつめて早し最上川」
この名吟の前に芭蕉は「みちしるべする人しなければと、
わりなき一巻(ひとまき)」を残している。時は元禄二年(一六八九)五
月末(陽暦七月中旬)、大石田(山形県)の高野一栄(いちえい)宅の客
となり、地元の俳人高桑川水(たかくわせんすい)を加えた四人で歌仙を巻いた。
その表六句は、
さみだれをあつめてすゞし最上川 芭蕉
岸にほたるを繋ぐ舟杭(ふなぐい) 一栄
瓜ばたけいさよふ空に影まちて 曾良
里をむかひに桑のほそみち 川水
牛の子にこゝろなぐさむ夕間暮 一栄
水雲重しふところの吟 芭蕉
(橋關ホ「奥の細道歌仙」評釈 沖積舎)
船宿の主人・高野一栄が、「つながる人情の清涼感」も暗示する芭蕉の「涼し」に対して、「蛍をつなぐ舟杭」と応じている。自分の家(舟杭)に珍客芭蕉(蛍)を迎え入れた喜びを表し、客発句・脇亭主の挨拶を交わしたわけだ。
『おくのほそ道』といえば、芭蕉自筆の『おくのほそ道』が平成七年(一九九五)に出現し、その鑑定結果が翌年発表され、作者の推敲の後が解明された。一度書いた文字を小刀で削ったり、上から紙片を貼り付けて訂正。三二枚の料紙の内、二四枚、計七四か所に張り紙が見られた。張り紙の下に隠された原文はDVE(デジタル・ビデオ・エフェクト機)で大部分が解読された。(町田誠之『回想の和紙』 東京書籍)
これは芭蕉会議の谷地快一先生から伺ったことだが、『おくのほそ道』冒頭が〈立ち帰る年〉から〈行きかふ年〉と張り紙訂正されていたそうだ。先生曰く「これは旅を〈出かけて戻ってくるもの〉から〈逢って別れるもの〉へと定義し直したことに当る。主題の根幹にかかわるこんな推敲を、芭蕉以外にできるはずはない」「つまり、「月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行きかふ年もまた旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老(おい)をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす」というのは、空を行きかう月と太陽、大晦日に入れ替わる行く年来る年、舟を乗せる船頭や、馬で旅人や荷物を運ぶ馬方を含めて、すべては、「毎日逢って、別れる」ことを繰り返す旅人だというのです」
『徒然草』第二十五段。「飛鳥川の淵瀬、常ならぬ世にし有れば、時移り、事去り、楽しび・悲しび行き交ひて、華やかなりし辺りも人住まぬ野良となり、変はらぬ住家は、人改まりぬ。」・・・「草の戸も住替る代ぞひなの家」。私の芭蕉の中を兼好が過ぎって行く・・・
雅俗を織り込み「中世的な美意識を開拓」(西尾実)した『徒然草』の受容史をひもとくと、室町時代は歌人、連歌師に大きな影響を与え、芭蕉の活躍した十七世紀には十種類以上の注釈書が刊行された。そのなかには林羅山の『野(の)槌(づち)』、松永貞徳の『なぐさみ草』、北村季吟の『徒然草文段抄(もんだんしょう)』がある。第何段と章段番号がついたのは江戸時代に入ってからだった。また、寛文四年(一六六四)には『兼好法師家集』が刊行されている。(島内裕子『兼好 露もわが身も置きどころなし』ミネルヴァ書房)
小西甚一氏は『徒然草』が持つ特色に触れて「それは『徒然草』の各段が、それぞれ独立していながら、相互に連想のうえで微妙な結びつきを示すことである。この事実は加藤磐(ばん)斎(さい)(一六二五〜七四)によって発見され、かれは「来意(らいい)」と名づけた。それは勅撰集などの歌群が「連想」の原理で切れながら付いているのを思わせるけれども、いっそう近いのは、連歌における付合の展開であろう。兼好の頃は、連歌が句と句との付合よりも百韻ぜんたいとしての展開に関心が移ろうとしていた時期であり、それによって兼好が各段の配列にこうした意匠を思いついたとしても、あるいは当然であろうか」と述べている。(『日本文藝史V』(講談社)・「随筆の発祥」)
「来意」は、『田園の憂鬱』の佐藤春夫が『徒然草』を評して「連句の獨吟を思はせるやうな様式」(「兼好と長明と」昭和十二年)と言っていることとつながると思う。
『徒然草』における連想や有機的接続に着目して、序段から連続的に読む「徒然草連続読み」(島内裕子)は、連句を楽しむための基盤を作る営為となるかもしれない。
参考文献 西尾実『中世的なものとその展開』(岩波書店)/久富哲雄『おくのほそ道全訳注』(講談社学術文庫)/島内裕子校訂・訳『徒然草 兼好』(ちくま学芸文庫)/谷地快一「俳句的ということ」(『俳句教養講座』第一巻 角川学芸出版)
(俳句雑誌『蝶』206号(2014年3・4月))
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