まずは、歌合(うたあわせ)に倣い、発句を左右に番え優劣を競う句合(くあわせ)の俳書『蛙合(かはづあはせ)』の巻頭から。
一 番
左 芭蕉
古池や蛙飛こむ水のおと
右 仙化
いたいけに蝦(かはづ)つくばふ浮葉哉(うきはかな)
判詞は「此ふたかはづを何となく設けたるに、四となり六と成て一巻にみちぬ。かみにたち、下におくの品、をのをのあらそふ事なかるべし」と優劣はつけていない。
『蛙合』は貞享三年(一六八六)の春、深川芭蕉庵に芭蕉、素堂、孤屋、去来、嵐雪、杉風、曾良、其角らが会して二十番の蛙の句合を行い、その衆議判を仙化が書き留めたもの。その目的は「句合という趣向を借りて全二十組、すなわち四十句によって、和歌伝統の美学を脱した蛙の実相を活写する試み」(「古池の風景」谷地快一『東洋通信二〇〇九・一二』所収)であった。和歌伝統の代表作は「かはづ鳴く井出の山吹散りにけり花のさかりにあはましものを」(不知・古今・春)。
芭蕉の高弟其角は句合の時、「古池や」ではなく「山吹や」を上五に提案したが採用されなかった。その其角の、発句「古池や」に付けた脇句が、寛政十一年(一七九九)に尾張の暁台が編んだ『幽蘭集』(芭蕉連句集)に収載されている。
古池やかはづ飛こむ水の音 はせを
芦のわか葉にかゝる蜘の巣 其角
「なべて同条件のもとで発句に詠まれていないものを付けて、発句の世界の焦点を絞り、より具体的にして余情豊かな効果を導き出すのが脇句の役所である」(『連句辞典』)が、発句と同時同場の春景がそっと添えられている。飛び込む蛙と蜘蛛の巣の相対付(あいたいづけ)けにおかしみも感じる。
さて、蛙といえば草野心平(明治三六〜昭和六三 福島県いわき市(旧上小川村)生)の全篇蛙ばかりの詩集『第百階級』(昭和三)から三篇。
秋の夜の会話
さむいね
ああさむいね
虫がないてるね
ああ虫がないてるね
もうすぐ土の中だね
土の中はいやだね
痩せたね
君もずゐぶん痩せたね
どこがこんなに切ないんだらうね
腹だらうかね
腹とつたら死ぬだらうね
死にたくはないね
さむいね
ああ虫がないてるね
生殖 T
るるるるるるるるるるるるるるるるるるるる
古池や蛙とびこむ水の音
音は消えてしまつた
音のあつたその一点から
寂寞の波紋が漲る
うるし色の暗闇の夜を
音のない夜を
寂寞の波紋が宇宙大に拡がる
芭蕉は芭蕉を見失つた
無限大虚無(ニヒル)の中心の一点である
「秋の夜の会話」は付合の原型、「生殖 T」は五音で切って読むと蛙の気分になった。「る」の羅列を蛙の卵のつながりと見た人もいるかも。「古池や」については引用で。
「芭蕉の有名な句が、すでにタイトルに掲げられており、おまけに詩中で芭蕉と名指されてもいるのだから、この場合、引用認定については、これほどみごとにクリアしたものはないほどだ。したがって読者の視線は、過去へのベクトルをもたされる。しかし、この詩篇は、「蛙とびこむ水の音」の「音のあつたその一点」からの「波紋」を拡げていき、ついには宇宙大にまで拡げてしまう。芭蕉が芭蕉を見失うほどの拡がりだ。詩人は、このように芭蕉を呑み込んでしまうほどの拡がりを措定してみせることで、過去へのベクトルに拮抗しうるだけの今へのベクトルを、そこに重ねることができた」(「詩的言語と間(あいだ)の交通論」篠原資明『岩波講座 現代思想4 言語論的転回』所収 一九九三)
今回最後は、別所真紀子詩集『すばらしい雨』(鰍ゥりばね書房 二〇一四年三月一日)の句詩付合から一篇「亡き母や」。
亡き母や海見るたびに見るたびに 一茶
三日月が 鹹い絶望の潮に櫂を入れる
溶かされていった
血と肉とたましいの透明な重量
ちりり ちりり
千尋の底で白い骨が 鳴る
(俳句雑誌『蝶』207号(2014年5・6月))
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