三、俳諧・連句の基本理念である「対話」(挨拶)と変化(転じ)を芭蕉の作品にみる。まず、『橋關ホ「奥の細道歌仙」評釈』大林信爾編(沖積舎 平成八)を参考に。
風流の初めやおくの田植歌 芭蕉
覆盆子(いちご)を折て我まうけ草 等躬
水せきて昼寝の石やなをすらん 曾良
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さみだれをあつめてすゞしもがみ川 芭蕉
岸にほたるを繋ぐ舟杭 一栄
瓜ばたけいさよふ空に影まちて 曾良
里をむかひに桑のほそみち 川水
牛の子にこゝろなぐさむ夕まぐれ 一栄
水雲重しふところの吟 芭蕉
「・・・自然の山野と人間のすべてから受ける爽やかな快さ、それが「涼しさ」なんで、この巻の「すずし」の意味にもそれが込められています。流れる水の量や勢いからくる壮快味だけをさして「涼し」と云っているのではない。この場合にもやはりその裏に、つながる人情の清涼感を暗示しようとしているようです。だから迎える一栄もそれを受けて「蛍をつなぐ船杭」と応じているのです。」「一栄は船宿を営んでいるのですから、舟杭というのも結局は自分の家という意味になってきますね」蛍は珍客・芭蕉を象徴的に表している。
「道しるべする人しなければと、わりなき一巻を残しぬ。このたびの風流ここに至れり。
最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。・・・水になぎって舟危ふし。
五月雨を集めて早し最上川」(おくのほそ道)
餞乙州東武行
梅若菜まりこの宿のとろゝ汁 芭蕉
かさあたらしき春の曙 乙州
雲雀なく小田に土持つ比なれや 珍碩
しとぎ祝ふて下されにけり 素男
片隅に虫歯かゝえて暮の月 州
二階の客はたゝれたる秋 蕉
『猿蓑』
◎俳諧・連句の基本理念である「対話」と「変化」は「○○を心に(対話)、××へ転じる(変化)」表現ともいえる。時空を越えた交流から生れる句。
例一
遊行柳のもとにて
柳散清水涸れ石処どころ 蕪村(寛保三年(一七四三))
田一枚植て立去る柳かな 芭蕉(元禄二年(一六八九))
道のべに清水流るる柳陰しばしとてこそ立ち止まりつれ 西行(新古今集・夏)
「西行の「道のべに清水ながるゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」(新古今集・夏)と、芭蕉の「田一枚植て立去る柳かな」(おくのほそ道)を心に、謡曲『遊行柳』によって名高い風景が夏季から秋季へ転じられ、冬季「神無月」へと移され、蘇東坡の「後赤壁賦」の景色を面影に古典的風景を一変させる秀くである」(學灯社『國文学』平成十九年四月号 特集「おくのほそ道を行く」より「のちのほそ道 雲理坊と蕪村」谷地快一)(「山高ク月小ニ、水落チ石出ヅ」後赤壁賦。前書「神無月の始、道のべの柳かげにて」(古選)
山崩れ石あらはに芒処々 寅彦(明治三二)
例二
ゆがみて蓋のあはぬ半櫃 凡兆
草庵に暫く居ては打ち破り 芭蕉
いのち嬉しき撰集の沙汰 去来(「市中は」歌仙 『猿蓑』)
「初めは「和歌の奥儀は知らず候」と付けたり。先師曰く、「前を西行・能因の境涯と見たるはよし。されど直に西行と付けむは手づつならん。只俤にて付くべし」と直し給ひ、「いかさま、西行・能因の面影ならん」と也。」(『去来抄』)
「凡兆が〈古いためにゆがんでしまって、うまく蓋(ふた)ができない半櫃(はんびつ)よ〉と詠んだのを受けて、芭蕉は〈草庵にしばらくいたかと思うと、やがて住み捨てて旅に出てしまう〉と付けて、風狂の旅人を描いた。半櫃は長持ちの半分ほどの大きさの物入れである。次に去来は芭蕉の句に〈自分の和歌が勅撰集にはじめて選入されるという通知が受けられたのは、長生きしたおかげである〉として、そこに西行のらしき人物を匂わせた。「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」(西行『山家集』))をそれとなくふまえて余情としたのである。このように読者の知識を触発しつつ、それとは断定しない作法を面影(付)という。(『俳句教養講座 第二巻 俳句の詩学・美学』片山由美子・谷地快一・筑紫磐井・宮脇真彦編 角川学芸出版 平成二一 「俳諧の余情 中興期を軸として」谷地快一)
四、連句の源流と認識(付録)
「「日本芸術はその起源に近い時代ほど競技精神を豊かに持っていた。殊に歌では掛合ひが盛に行なはれ」(折口信夫『日本文学の発生序説』)それが歌垣であり、歌論議となりやがて連歌が発生すると言う。図式的に言えば、ギリシャにおいては対話が哲学を生み、古代日本においては対話が芸術を生み出した。とでもなろうか。」(『芭蕉の作品と伝記の研究』村松友次 笠間書院 昭和五十二)
・養老四年(七二〇)五月『日本書紀』成、日本武尊と秉燭者(ひともせるもの)との片歌問答が見える。
・・・是の夜、歌を以て侍人に問ひて曰(のたま)はく
新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる 日本武尊
諸の侍者、え答へ言(もう)さず。時に秉燭者有り。王(みこ)の歌の末に続けて、歌(うたよみ)して曰(まう)さく
日日並べて夜には九夜日には十日を 秉燭者
即ち秉燭人の聡を美(ほ)めたまひて、敦く賞(たまひもの)す。
「菟玖波の道を尋ね、佐保川の源を知りて流れをうけよ」。(二条良基『菟玖波集』(準勅撰))「良基が連歌の起源としたのは、「王(みこ)の歌の末に続けて」の表現に示された唱和性と、それぞれ片歌として独立している点によるものであろう。」(佐藤勝明、竹下義人、谷地快一、宮脇真彦編『連句の世界』新典社 平成十一)
・天平十六(七四四)このころ以前に、大伴家持と尼との唱和あり。(万葉集・巻八 部立・秋相聞)
佐保川の 水堰き上げて 植ゑし田を 尼作る
刈る早飯(わさいひ)は ひとりなるべし 家持続く
「連歌のやうなものが、どうして起ったか。これは機智問答的な興味といふものが、何としてもその中心である。感情の詠歎的表出への意志からは、かやうな智的興味は起らない。従って、和歌形式といふものが、十分に発達し、表現様式や修辞が或度までの発展をとげて、所謂詞花言葉を翫ぶといふ境地になって、かかる形式は発生して来ると考へられる。家持の時代は、そうした時代の曙の時代であった」「「ひとりなるべし」は、「獨りなるべし」と「樋取りなるべし」との掛詞である。佐保川の水を堰いて、樋を以って導き灌漑して作りあげた田の収穫(早飯)なら、それは正に樋取り(樋の力で以て収穫した)といふべきだらうとの、言語的な洒落が用ひられてゐるのである」(能勢朝次『聯句と連歌』要書房 昭和二五)
・古今和歌集」全二○巻の部立 春(上・下)・夏・秋(上・下)冬・賀・離別・羈旅・物名・恋(一〜五)・哀傷・雑(上・下)・雑躰(短歌・旋頭歌・誹諧歌)・大歌所御歌(古今和歌集約一一〇〇首の内、三四二首が四季の歌、三六〇首が恋の歌。「たとひ時移り事去り、楽しび悲しびゆきかふとも、この歌の文字あるをや」仮名序)
・寛弘四(一〇〇七)『拾遺集』この年までになるか。連歌が合作の和歌ではないとする考えが見える。
人心うしみつ今は頼まじよ(丑三つ 憂し見つ)
夢に見ゆやとねぞ過ぎにける(子の刻 寝過ごした) 良岑宗貞(『拾遺集』)
「・・・しかし、この男女の応答には季題(季語)こそないものの、長句と短句という定型が守られ、切字の効果に等しい言い切りがなされ、即興的な機智がはたらいた結果、滑稽な味わいや挨拶の心がよく出ている。このように、俳句の規則や心得はすでに連歌の世界に胚胎していた。
この上の句と下の句の唱和を短連歌(一句連句)という。やがて二句の応酬では飽きたらず、長句と短句を交互に連ねる長連歌(鎖連歌)へと発展し、五十韻・百韻という連歌形式を生んで、鎌倉・室町時代に大いに流行する。これは、二者による唱和や問答が、前句を契機とする主観の描写、創作へと成長する可能性の模索でもあった。
その後、連歌は和歌的な優美さに世俗的な味わいを加えて連句という文芸を派生させ、江戸時代においては松永貞徳を指導者とする貞門俳諧、つづく西山宗因を中心とする談林俳諧へと大衆化をおしすすめ、松尾芭蕉の晩年に至り、雅俗とりまぜた詩の領域の拡大と、文学的な達成をみるのである。ただし、連句という名称については少し注釈が必要で、江戸時代までは「俳諧の連歌」を正式の呼称とし、略して俳諧といっていた。
連句の名は明治三十七年(一九〇四)、高浜虚子の提唱で定着した。・・・」
(『俳句教養講座 第一巻 俳句を作る方法・読む方法』角川学芸出版 平成二一「俳句的ということ」谷地快一)
・延文一(一三五六)三月二六日、『菟玖波集』(全二十巻)の序文成。
・応安五(一三七二)二条良基、救済の助力で応安新式(連歌新式)を制定
〔天然界〕
(天)光物・時分/(地)山類・水辺/(媒)聳物・降物/(飾)動物・植物
〔人間界〕
(天)神祇・釈教/(地)名所・旅/(媒)恋・述懐/(飾)居所・衣装
〔人間〕(人倫)
〔四季〕春・夏・秋・冬
「世界を先ず、天然界と人間界に二分する。天然界を更に、天空の素材、大地の素材、天地の媒介者の素材、装飾の素材に四分する。更に、それぞれ対をなす二者に分ける。例えば天空の素材は光物(天体)と、それが演出する夜、朝、夕の時分(明暗に基づく一日の区分)に分ける。
天地の媒介者の素材という設定もまた素晴らしい。これは、聳物(大地から天空へ登ってゆくもの。雲、煙、霞の類)と降物(天空から大地へ下ってくるもの。雨、雪、霜の類。)から成る。二條良基がことに心をくだいた箇所ではないか。
しかし、この選択配列の絶妙さは、以上の天然界の秩序が人間界にもそのまま反映するという思想にある。神仏という天空、旅と旅先という大地、人を神仏へと導く恋と述懐、人の生活を潤す衣、住居の備え、これらは、尽く人の社会のうちに存在する」
「去嫌連歌はできるかぎり均等に、様々なジャンルの語彙を使用するという理念に立っていたが、連歌新式はそれを、曼荼羅を描き、旅をすることにも似た行為へと高めたのである。この新しい連歌の精神から、やがて侘茶をはじめとする、中世の座の文化が次々に生まれるのである。」(光田和伸「連歌の正体」『文学』2002 9、10月号 特集=連歌の動態 岩波書店 平成十四年)
「楽にも序・破・急のあるにや。連歌も一の懐紙は序、二の懐紙は破、三・四の懐紙は急にてあるべし」『筑波問答』(応安五年 一三七二)
・永徳二年(一三八二)十月十三日
二條摂政殿発句曰「松ハタテヌキハ紅葉ノ錦カナ」。府君命対句於余。余曰、「秋雨灑如絲」(秋雨ソソグコトイトノゴトシ)。(義堂周信『空華日工集』)
・天正一〇(一五八二)五月二四日 愛宕百韻・賦何人連歌
時は今天が下しる五月哉 光秀(夏)
水上まさる庭の夏山 行祐(夏)愛宕西之坊威徳院住職
花落つる池の流れをせきとめて 紹巴(春・花)当代第一の連歌師
風に霞を吹き送るくれ 宥源(春)
春も猶鐘のひびきや冴えぬらん 昌叱(春)
かたしく袖は有明の霜 心前(冬・月)
うらがれになりぬる草の枕して 兼如(秋)
聞きなれにたる野辺の松虫 行澄(秋)光秀家臣
三表三句目(53句目)
しほれしを重ね侘びるたる小夜衣 紹巴(雑・恋)
おもひなれたる妻もへだつる 光秀(雑・恋)
浅からぬ文の数々よみぬらし 行佑(雑・恋)
とけるも法は聞きうるにこそ 昌叱(雑・釈教)
賢きは時を待ちつつ出づる世に 兼如(雑・人倫)
心ありけり釣のいとなみ 光秀(雑)
三裏三句目(67句目)
契り只かけつつ酌める盃に 宥源(雑)
わかれてこそはあふ坂の関 紹巴(雑・山類)
旅なるをけふはあすはの神もしれ 光秀(雑・旅 神祇)
挙句(100句目)
色も香も酔をすすむる花の本 心前(春・花)
国々は猶のどかなるころ 光慶(春)明智十兵衛(光秀の子)
「・・・つまり連歌における変化は、なんとなく変わっていったり、変わればそれでいいというようなものではなく、変化そのものを、換言すれば無常の世を具現することにあったのである。このことについて良基は次のように述べている。
連歌は前念後念をつがず(前の思いは一瞬の間も後へ尾を引くことはない)。
又盛衰憂喜、境をならべて移りもてゆくさま、浮世の有様にことならず、昨日と思へば今日に過ぎ、春と思へば秋になり、花と思へば紅葉に移ろふさまなどは、飛花落葉の観念もなからんや(この世の無常を心に観じ思うこともどうしてないことがあろうか)。
すなわち、無常を嘆く和歌に比して、連歌は無常を具現して互いに共感する
ことによって、現実の無常を超える仏の知恵に近づくことができるというのである。この考え方は後に心敬によって仏道連歌道一如論にまで高められるのであるが、乱世に連歌が隆興した要因の一つであった。」(『浜千代清編 芭蕉を学ぶ人のために』世界思想社 平成六 「芭蕉と連歌」浜千代清)
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・座連句95(平成七年二月五日)のガイダンス(会場・東京芸術劇場大会議室(池袋))
「連句の基本は、一、前の句につける。二、鎖のようにつながる。三、同じことをしない(森羅万象を歌いあげよう)」「かつて寺田寅彦が「渋柿」に、トルソという革新的な連句を発表したことがありました。そのトルソは余分なものを切り捨て、連句の原点を求めるというものでした。」「今、ここに、私たちの連句の形式を「帰ってきたトルソ」と命名します。」
▽トルソー 首および四肢を欠く胴体だけの彫像
▽「澁柿」俳誌。大正四年(一九一五)二月創刊。主宰・松根東洋城(明治十一〜昭和三九)。誌名は、大正天皇が俳句につきご下問、東洋城が奉答した句「渋柿のごときものにては候へど」による。昭和二七年東洋城隠退し野村喜舟が主宰となる。平成十七年十二月号で一千百号(連句協会報一六一号)。「渋柿はその芭蕉に於いてなされし如く連句を大切にす。之により多くの俳諧を闡明(せんめい)拡充し高揚す」
TORSO(大正十四年八月『渋柿』)
シヤコンヌや国は亡びし歌の秋 寅日子
ラディオにたかる肌寒の群 ゝ
屋根裏は月さす窓の奢りにて 蓬里雨
古里遠し母病むといふ文 ゝ
新しきシャツのボタンのふと取れし 子
手函の底に枯るゝ白薔薇 ゝ
忘れにしあらねど恋はもの憂くて 雨
春雨の夜を忍び音のセロ 子
見下ろせば暗き彼方は海に似て 雨
▽シャコンヌ バロック時代に始まったゆるやかな3拍子の舞曲で、一種の変奏曲。十六世紀に中南米からスペイン・イタリアに伝えられた舞曲に基づく。
▽蓬里雨(ほうりう) 小宮豊隆(明治十七〜昭和四一)の俳号。
▽「「トルソ」という題は、それに費やす時間の関係上、歌仙形式の三十六でまとめるのが困難だったので、三句でまとめたり、六句でまとめたり、十句でまとめたり、その時々の気分次第で、いろいろになったが、結局それは、歌仙の断片にすぎないという意味を、しゃれて「トルソ」と名づけたまでであると小宮は云う。」(『寺田寅彦と連句』小林惟司 勉誠出版 平成一四)
「「トルソ」頂戴、いずれも結構でありますが、・・・それからこれは僕も気がつかなかったのだが、「シャコンヌ」の巻の長句が四つ続けて「て止め」になっています。これもいかがいたしましょうか。ご相談申し上げます。・・・」(小宮豊隆宛寺田書簡・大正十四年五月十六日)
・座・連句95に集った十三座のなかから「少年の座」の作品が「星女賞」(最優秀賞)に(*俳諧寒菊堂連句振興基金運営委員長・岡本星女)
『大四畳半』の巻 捌 鈴木一人
少年や六十年後の春のごとし 耕衣
剥き出しの牙舐める舌先 一人
目が合えばほほ笑む気違い歯医者(マッドデンティスト)さん 弘
ピーカンの空顳顬(こめかみ)に銃 佳代子
幾何学の模様宇宙に広がって 壱子
大四畳半めぐる妄想 徹
膝小僧に顔を描かせてくれないか 弘
カッパの皿に満漢全席 佳
囚われの美女に海と砂贈る 美香
引き出しの中思いあふれて 壱
テディベア腹を裂いたら白い粉 佳
肉まんじゅうをほおばったまま 徹
野ざらしのはっぴいえんどを期待して 徹
いっせーのせで眠りにおちる 弘
○当日の審査員の評
「襖の下張りが無限に膨張してゆくような妄想と、膝小僧というリアルなエロティシズムの付合は秀逸でそこまでの運びもよく・・・」(別所真紀子 『俳諧評論集 共生の文学』(東京文献センター 平成十三)、小説『数ならぬ身とな思ひそ 寿貞と芭蕉』(新人物往来社 平成十九)の著者)
それなんだ!おまえの小脇に核弾頭/少年夢見る風呂屋の番台
イリオモテヤマネコの住む闇を行く/明るい血出る僕の傷口(別の座の付け)
「正直にいって大学生達の表現は全く未だしの状態だ。付合の意味も一巻の小宇宙の広がりも何も分らぬままに付け合いじゃれあっているのだから。しかし、それでいいのだ。五・七・五と七・七の二つのユニットを使っての対話詩の面白さ、二句天上に開く花の美しさを体で知ること。それが連句入門の第一課である。」(『歌仙行』村野夏生 平成十三)
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五、連句入門U 連句を巻いてみよう。付合参考(宿題・別紙)
市中は物のにほひや夏の月 凡兆
あつしあつしと門かどの声 芭蕉
二番草取りも果たさず穂に出て 去来
(元禄三年(一六九〇)「市中は」歌仙)
はしだてや海に一刷毛青嵐 雲裡
杖も預かる夏陰の宿 吟松
あらいよき洗濯もののうれしくて 蕪村
(宝暦五年(一七五五) 於・宮津)
正月の子どもに成りて見たき哉 一茶
兎をつくれ春の初雪 樗堂
山風の末は柳に嵐して 堂
(寛政九年(一七九七)一月)
荻吹くや崩れ初めたる雲の峯 子規
かげたる月の出づる川上 虚子
うそ寒み里は鎖さぬ家もなし 規
(「ホトトギス」第二巻第二号 明治三一年十一月発行)
文鳥や籠しろかねに光る風 寅日子
塀の上より春の遠山 東洋城
炉の名残都の絵師に宿貸して 寅日子
(昭和二年十一月『渋柿』)
雪散るや穂屋の薄の刈り残し 翁
瞑りしままの森の梟 夏生
稿はじむ2B・3B尖らせて 志津香
(平成十一年第二十六回俳諧時雨忌)
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 翁
しんとしづもる天地霜月 川野蓼艸
とりあへず熱き葛湯をもてなして 岩渕喜代子
(平成十二年第二十七回俳諧時雨忌)
宿かりて名をなのらするしぐれかな 翁
世間狭しと交す熱燗 小林靜司
寒鰤の水揚げ高も上向きて 大窪瑞枝
(平成十二年第二十七回俳諧時雨忌)
◎寺田寅彦が連句について言いたかったこと。
「・・・この芸術はまたある意味で近代の活動映画の先駆者であり、ことにいわゆるモンタージュ映画や前衛映画、そうしておそらく未来に属するいろいろの映画芸術の予想のようなものでもある。それだのに、この「俳諧」という名が多くの人には現代の日本人とは何の交渉もない過去のゆう霊の名のように響くのは何ゆえか。その少なくも一つの理由は、これが従来ただいわゆる宗匠たちのかび臭いずだ袋の奥に秘められて、生きて歩いている人々の、うかがい見るのを許しても、手に取りはだに触れることを許されなかったせいであろう。俳諧自身はかび臭いものではない。いわゆる「さび」や「しおり」は枯骨のようなものではなくて、中には生々しい肉も血もあり、近ごろのいわゆるエロもグロもすべてのものを含有している。このユニークな永久に新鮮でありうべき芸術はすべての日本人に自由に解放され享有されなければならない。そうしてすべての人は自由に各自の解釈、各自の演奏を試みてもさしつかえないものである。俳諧も音楽同様に言葉や理屈では到底説明し難いものだからである。・・・」(寺田寅彦 昭和六年一月三十日、東京朝日新聞「芭蕉連句の根本解説について」(太田水穂著))
参考文献
『俳諧大辞典』(明治書院 昭和三二)
『連句辞典』(東京堂出版 昭和六一)
『俳文学大辞典』(角川書店 平成七)
『連句・俳句季語辞典 十七季』(三省堂 平成十三)
『連句芸術の性格』能勢朝次(角川選書 昭和四五)
『定本芭蕉大成』(三省堂 昭和三七)
『芭蕉七部集』中村俊定校注(岩波文庫 平成三)
『露伴評釋 芭蕉七部集』(中央公論社 昭和三一)
『座の文芸 蕪村連句』暉峻康隆監修(小学館 昭和五三)
『一茶の連句』高橋順子(岩波書店 平成二一)
『寺田寅彦全集』(岩波書店 平成九)
『寺田寅彦と連句』榊原忠彦(近代文芸社 平成十五)
『新潮日本古典集成 連歌集』(新潮社 昭和五四)
『日本古典文学全集 連歌論集 能楽論集 俳論集』(小学館 昭和四八)
『連句入門 芭蕉の俳諧に即して』東明雅(中公新書 平成七(八版))
『現代連句入門』山地春眠子(沖積舎 平成六)
『連歌入門』廣木一人(三弥井書店 平成二二)
『次世代の俳句と連句』大畑健治(おうふう 平成二三)
『詩の誕生 大岡信 谷川俊太郎対話』(読売新聞社 昭和五〇)
「國文学 連句のコスモロジー」學灯社(昭和六一・四月号)
「詩と連句 おたくさ」(同人雑誌)鈴木漠(平成二四)
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