2 芭蕉の文芸と源氏文化
以下、芭蕉の表現の中に源氏文化を探してゆきます。
@ 『笈の小文』の須磨・明石の場面
芭蕉と源氏文化を考える際、誰でもが気づくのは『笈の小文』の中の、須磨・明石を訪ねる場面です。また『奥の細道』にも、
寂しさや須磨にかちたる浜の秋 芭蕉
という句があります。
話は飛びますが、私が詠んだ短歌の中に、これは私の愛唱歌のひとつでもありますが、次のような歌があります。
寂しさは須磨にかちたる原発沖に浮かぶ名月
この歌は、テレビに映る原発事故の画面を見て、思わず口をついで出たものです。
最初の十二文字が同じなので、芭蕉のパクリではないかと言われています。(会場、笑)
さて、芭蕉の句は、『源氏物語』の須磨巻の影響というのは誰でも分かります。一般論として『源氏物語』が芭蕉におよぼした影響というのは、案外少ないのではないかと思われています。私もそう思うのですが、散文と一体化した俳文の中には、源氏文化が濃厚に残っています。つまり「源氏詞」、「伊勢詞」あるいは『古今集』の歌がそのまま使われています。
A 『拾八番句合』跋
前後十八番の句合、やつがれ馬頭(うまのかみ)に成りて、物定めの博士に指され侍る。渋面顔に分別臭く、ひびらき(ひひらき)たる様、我ながら片腹痛けれど、そのかたはらに筆を汚して、上、中、下の品を分かち侍るも、たまたまにも頷く人あれかしとこそ。
これは宗祇が、源氏学で最も重要視したと言われている帚木巻の「雨夜の品定め」を踏まえた一節です。「雨夜の品定め」が、重要視されたのは、この中で女性の優劣を競っていることでは決してありません。それは人間を見る眼というものを、光源氏や頭中将に左馬頭(ひだりのうまのかみ)が教えているからです。つまり政治家として、なくてはならない「人間を見る眼」を、教えていることが重要なのである。このように宗祇以来力説して来ているわけです。つまり「和」の思想です。宗祇は、人間関係を上手に成立させるには何が大切か、ということを考え「雨夜の品定め」を重要視したのです。
さて、この芭蕉の文章の方ですが、芭蕉は句合の座で、あたかも「雨夜の品定め」に出てくる左馬頭に相当する役を連衆に指名され、句を捌くわけです。そのとき「雨夜の品定め」に出てくる光源氏や頭中将のように、私の捌きにも頷く人が出て欲しいと芭蕉は書いているわけです。
ここでは単に『源氏物語』の言葉が使われているというだけではなく、「古今伝授」で重視された帚木巻の「雨夜の品定め」の表現を使っていることが大切です。
B 「侘テすめ」詞書
月を詫び、身を詫び、拙きを詫びて、わぶと答へむとすれど、問ふ人もなし。なほ侘び侘びて、 侘テすめ月侘斎がなら茶歌 芭蕉
この文章は、『源氏物語』の須磨巻で、引歌されている有名な在原行平の歌、
「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつ侘ぶと答へよ」
を、孫引いているものです。漁師が海水で袖を濡らしているように、私も都から遠く離れ、涙で袖を濡らしながら侘びています、と言う歌意です。須磨巻で引かれた歌なので『源氏物語』が発明した言葉ではなく、『源氏物語』が引用したものになります。しかし結局は「源氏詞」の範疇に入ります。
須磨・明石巻が、芭蕉に与えた影響は大きいものがあると思っています。私は「侘び」「寂び」 や、先程谷地先生が話をした『嵯峨日記』の「清閑ニ楽」あたりとの関係を、『方丈記』だけではなく、本気でもう一回調べる必要があると思っております。
C 「うにほる岡」
伊陽の山家に、「うに」といふ物有り。土のそこより掘り出でて、薪とす。石にもあらず、木にもあらず。黒色にしてあしき香あり。そのかみ、高梨野也(やや)、これをかゝなへて曰く、「本草に石炭といふ物侍る」。
Cは石炭の話です。この芭蕉の文章の中で、高梨野也という人が「かゝなへて曰く」と書いてありますが、どういう意味か不明です。すぐ思いだされるのは、ヤマトタケルと火焚きの翁の贈答「かがなべて」を思い出しますが、それでは意味が合いません。この「かゝなへて」は、「考えて」の意味でなければなりません、そうであれば『源氏物語』などの王朝物語によく出てくる「かうがへて」を、芭蕉が書き間違えたか、あるいは書写した者が誤写したのであろうと思われます。
D 「夏はあれど」詞書
卯月の中頃、須磨の浦、一見す。うしろの山は、青葉うるはしく、月はいまだおぼろにて、春の名残もあはれながら、ただこの浦のまことは秋を旨とするにや、心にものの足らぬけしきあれば、 ばせを 夏はあれど留守のやうなり須磨の月
Dは須磨巻で、「うしろの山」は、須磨巻に出てくる言葉で「源氏詞」です。
E 「鵜舟」
岐阜の庄長良の川の鵜飼とて、世にことごとしう言い罵る。まことや、その興の人語り伝ふるに違わず。(以下略)
Eは再び、帚木巻になります。「おもしろうてやがてかなしき鵜飼哉」の有名なヶ所です。世間では仰々しく長良の鵜飼は素晴らしいと評判しているが、実際、評判どおりの素晴らしさである、と書いています。この文章の「世間でことごとしう評判を立てている」と言うのは、宗祇が重視した『源氏物語』の帚木巻にある冒頭の一節、
「光る源氏、名のみことごとしう、言い消(け)たれ給ふ咎(とが)多かなるに、いとど、かかる好き事どもを末の世に聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍び給ひける隠ろへ事さへ語り伝へけむ人の物言ひさがなさよ」
を踏まえています。この一節は、光源氏は世間の噂では、ことごとしく言われているが、実際はそれほどではない、真面目な人だったのだよ、という意味です。
芭蕉の「鵜舟」の文章は、評判と実際とが一致しているという内容ですが、帚木巻の冒頭の方は、一致していないという文章です。「ことごとしう」が文脈上は反転しているわけです。
「ことごとしう」という言葉は、芭蕉でなくとも誰でも使うでしょう、と言うかも知れませんが、芭蕉の「鵜舟」の文章は、帚木巻の冒頭の一節を踏まえていると思います。
F 「幻住庵記」
(定稿)ある時は仕官懸命の地を羨み、一度は仏蘺祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身を責め、花鳥に情を労して、暫く生涯のはかりごととさへなれば、終に無能無才にして、この一筋につながる。(前後、略)
(初稿)およそ西行・宗祇の風雅における、雪舟の絵における、利休が茶における、賢愚等しからざれども、その貫道するものは一ならむと、背を押し、腹をさすり、顔しかむるうちに、覚えず初秋半ばに過ぎぬ。一生の終わりもこれに同じく、夢のごとくにして、またまた幻住なるべし。
「幻住庵記」は私も大好きな文章です。『徒然草』を研究している私の家内に言わせると「幻住庵記」 は『徒然草』の影響が濃厚であると言っておりますが、私に言わせれば「源氏文化」の影響もあると言います。では、どちらの影響が強いかということで、夫婦で喧嘩をしているわけです。(会場、笑い)
「幻住庵記」 では、「源氏文化」が、はっきりとは表れていませんが、伏流していると思います。最初の、最終稿といわれる「定稿」の方ですが、ここでは「 花鳥」と「はかりごと」 が並べて使われています。このように並べられると『古今和歌集』の真名序にある一節が連想されます。『古今和歌集』は、紀貫之が書いた「仮名序」が有名ですが、紀淑望(きのよしもち)が書いた「真名序」 も名文です。その中に和歌を詠む人が絶えなかったという次のような件があります。
「和歌を業とする者、綿々として絶えず。・・・・・好色の家にはこれをもちて花鳥の使となし、乞食の客(きつしょくのかく)はこれをもちて活計の謀(かっけいのはかりごと)となすことあるに至る」
ここで書かれている「花鳥の使」ですが、これが重要となります。「花鳥の使い」は、そもそも中国の玄宗皇帝が、ハーレムに入れる美女を集めるために、全国に人を遣わしました。その遣わされた人、すなわち男女の仲立ちをする人を指しました。
実はこの「花鳥」という言葉が「源氏文化」とも関連します。
『源氏物語』の注釈書に一条兼良(かねら)の書いた『花鳥余情』という有名な注釈書があります。この中で『源氏物語』は、男と女の仲立ち、つまり男と女の人間関係の調和を通して、人と人との結び付けを明らかにしようとした、と述べています。つまり一条兼良が、『花鳥余情』で説いた学説になるわけです。そこで述べられている「活計の謀」を、「生涯のはかりごと(謀)」と書き直せば、「幻住庵記」の表現になります。
また、「幻住庵記」の初稿の方ですが、「夢」と「幻」という言葉が使われています。宗祇の『源氏物語』の理解においては、帚木巻・幻巻・夢浮橋巻の三巻が重視されました。何故かと言えば、前にも言いましたが、帚木は遠くから見れば見えるが、近づくと消えてしまう。何が真実で何が真実でないか分からない。幻も夢も同じようなものです。
芭蕉が宗祇の学説を踏まえた上で、この初稿の四行を書いたとは思いません。しかし西行の次に宗祇を出したというのは、単に旅をした人物だからと言う事ではなく、宗祇が引きずっている源氏文化、『源氏物語』の理解、「和」の思想が、皆流れ込み、無意識のうちに夢とか幻とか、そういう言葉になったのではないかと思うわけです。
「幻住庵記」には、季吟に流れ込んだ宗祇以来の「源氏文化」が、伏流・底流している可能性があります。しかし可能性があるというだけで証拠はありません。
GとHは伊勢物語との関連です。『伊勢物語』は誰でも読んでいますから、芭蕉も当然読んでいて、似たような表現をしたものと思います。
G 伊賀新大仏之記
旧友、宗七・宗無、一人二人、誘ひものして、かの地に至る。
これは『伊勢物語』第八段の、
「住み所求むとて、友とする人、一人二人して行きけり」
及び、第九段の、
「もとより友とする人、一人二人して行きけり」
を踏まえた表現と思われます。
H 「竹の奥」
まこと、その人は、世の常にあらず。心は高きに遊んで、(中略)家は貧しきを悦びて、まどしきに似たり。
これも、『伊勢物語』第十六段の、
「昔、紀有常といふ人ありけり。(中略)世の常の人のごともあらず。人柄は、心うつくしく、あてはかなることを好みて、異人(ことひと)にも似ず。貧しく経ても、なほ昔よかりし時の心ながら、世の常のことも知らず」
を踏まえた表現と思われます。
I 芭蕉と源氏文化の関連はこれからの研究課題。
以上、いろいろと話をしてきましたが、芭蕉と源氏文化との関係は、これからの研究課題です。これからも研究をしてゆきたいと思っています。その際のキーパーソンは、北村季吟・柳沢吉保だと思っています。元禄文化を推進した季吟・吉保の二人に芭蕉が直接会って話をしたということはないと思います。しかし季吟の息子達などを通して、季吟と芭蕉の間で、何らかの接触があり、その物証が見つけられないか、と考えています。芭蕉が『源氏物語』を、原文で最後まで読んでいたかは分かりません。しかし源氏文化の中に芭蕉が位置づけられないかと考えています。
源氏文化が外国文化を受け入れる際に文化統合システムとして大変重要な役割を果してきたわけですが、その流れの中で芭蕉や俳句の国際化が位置づけられないか、そのような大風呂敷を広げられないかと考えています。
3 おわりに
源氏文化のブームは何度も起きるのですが、現在は「源氏詞」が死んでしまっているわけです。最近、村上春樹の小説を読みました、その中に、もしかしたら源氏文化が生きているかもしれない、という希望を抱きました。
今残っているとしたら、短歌や俳句をやっている人の一部の人にしか残っていません。けれども、源氏文化に、つながっていけるのは私達だけであります。
源氏文化の特徴と言うものは、本居宣長のところで話したように、叩けば叩くほど、息を吹き返します。俊成・定家から始まった源氏文化は、作品としてではなく、文化システムとして生き延びてゆくわけです。
芭蕉俳諧への現代人の関心の高まりは、今なお源氏文化が生きていることの証拠かとも思います。
拙著『塚本邦雄』(笠間書院)の中で、私は塚本邦雄になり代わり、二つのことをアジテーションしております。
「日本人なら『源氏物語』くらい読め!」
「『伊勢物語』も忘れるな!」
の二つです。
現在、私は理科系の大学で教えていますが、これを言うと学生は「読んでいないと馬鹿だと言うのですか」と食ってかかられることがあります。(会場、笑い)
その時は、そうではなく、『源氏物語』から流れ出した源氏文化というものが、君たちを生かしているのだと答えています。
今日は、芭蕉の専門家に対して大変失礼なことを申し上げたかも知れません。
私は、これからも自分のオリジナリティーとして「源氏文化」を標榜し、生きてゆくつもりです。
長いことご清聴有難う御座いました。( 会場、大きな拍手 )
< 質疑応答 >
1、芭蕉以外の江戸時代の文学者、例えば近松門在門なども源氏文化の影響を受けていたのか?
→ 源氏文化と無関係な人は、江戸時代には居なかったと思っています。『徒然草』が一番判り易いのですが、そうでなくとも『源氏物語』『伊勢物語』と無関係な表現は無いわけです。一般にもの(小説や歌)を書く場合、言葉で表現するしかない。その言葉はすべて辞書にある、ある意味で手垢のついた言葉を使って書くわけです。ただし、少しでも読者の心を打ちたいと思う言葉、また美しい言葉やエネルギーのある言葉で表現をしたいときがあります。その場合、多くの人々の心を動かしてきた言葉を使いたいと思うわけです。その場合は『源氏物語』の「源氏詞」や、『伊勢物語』の「伊勢詞」、あるいは漢文であれば『白氏文集』の詞を使って書くわけです。つまり言葉の典拠が限定されてくるわけです。これは言葉だけではなく、そのような表現を生み出す「心」も入ります。その「心」というのは、個人の心だけではなく、その人が生きている社会全体の文化もあり、その中で原稿活動をしてゆくわけです。そうなると『源氏物語』の「源氏詞」を用いて、殆どの作品は書かれていたわけです。勿論個人差・濃淡はあります。例えば、井原西鶴を読む上で『源氏物語』『伊勢物語』を読んでなければ面白くないですね。読んでおくと、「ここをこう、あそこをこう変えたのだな」ということが分かり、同時にそういう詞が残っているので、西鶴はこの巻のここに感動していた、ということが分かるわけです。近松の場合は、結構ずらすわけです。私はこう言った事を最初注釈書として世に出そうとしたのですが、注釈書は残念ながら研究者しか読んでもらえない。もっと世の中の人に読んでもらいたいと思い、今のような評論書スタイルで、源氏文化を発掘するということを始めました。
2、質問というよりも感想になるかと思いますが、芭蕉の言葉に「俳諧はなくてあるべし」という言葉があります。最近わたしはこの言葉を折にふれ噛みしめているのですが、本日の先生のお話を聞いていて、これはまさしく本日の話「和の精神」ではないかと思い当たっています。先生から見てどう思われるでしょうか。
→むずかし問題ですが、「源氏文化」が重要で、『源氏物語』はなくてもよいわけです。「源氏文化」とは何かといいますと、人と人の和を重視し平和を重視することです。平和を重視する考えが一番力を持つのは戦乱の世が一番強いわけです。『源氏物語』の研究が一番進んだのは戦国時代です。紫式部のころは、ただ読んで面白い、で終わります。平和な時代になって北村季吟が集大成し、宣長がもう一回荒立てて幕末の動乱期を迎えます。この動乱期に再び『源氏物語』が読まれます。明治に入り再び戦争の時代に入り『源氏物語』は攻撃にさらされます。つまり「殖産興業」「富国強兵」 に何の役にも立たない『源氏物語』など捨ててしまえ、という状況になります。さらに昭和に入り戦後の高度成長時代にも、同様に文学などは何の役にも立たない、文学・国文は大学に要らないと、『源氏物語』は一方的な攻撃を受けました。しかし攻撃されればされるほど底力を発揮し突然変異を起こすのが「源氏文化」です。そういう意味では現在は「源氏文化」にとって良い時期を迎えているわけです。それは『源氏物語』のブームがきているということではなく、「源氏文化」の進退が揺らいでいる、「源氏文化」の可能性・本意を知っている人が衰退していると言う事が、実は「源氏文化」 にとり一番有難いことであるわけです。つまり「それではいけない」という人が出てきて「源氏文化」をアップデートしてくれて、新種が出来て新時代に対応してゆくわけです。私は、そういう研究者になりたいと五十歳ぐらいから思い始めて現在に至っております。研究者仲間からは「ミイラ取りがミイラになる前に、早く『源氏物語』に帰ってこい」 と言われておりますが、「源氏文化」と『源氏物語』は別物です。私たちは千年前の『源氏物語』の世界には入ってゆけないわけです。一方「源氏文化」は生きていますから、しっかりと「源氏文化」を追い、六十歳ぐらいから『源氏物語』の注釈に入りたいと思っています。
3、資料に、源氏文化が明治の文明開化の基盤だったとして、その東日本の代表に盛岡を上げていますが、その盛岡で誰がそれを担いでいたのか、人物名を教えてください。
→盛岡には実は何人もいるのです。特に「那珂通世(なかみちよ)」(1851〜1908)の兄であった人がいます。医者でしたが、若くして亡くなりました。この人は『源氏物語』の五十四帖から漢詩を二首ずつ選び、同様に盛岡で国学を勉強していた人がいて和歌を二首選び、あるお寺で交互に詠み上げた記録が残っています。漢詩一〇八首、和歌一〇八首で『源氏物語』五十四帖全体を満遍なく、たった二、三時間の間に表現しています。この記録が岩手県立図書館にあります。閲覧カードの最後の方に池田亀鑑の名がありましたので、池田先生もこれを見ていたようです。
盛岡にかぎらず、地方に行ってみるとこのような注釈書が一つ見つかると、『源氏物語』以外のものも芋弦式に出てきます。そしてその内容は決して粗雑なものではなく確かなものです。そういう名も無い人材が地方には沢山いました。そういう人たちが、参勤交代か何かで江戸に来た折などに、季吟の『湖月抄』版本が手に入りさえすれば、「源氏文化」が日本各地に広がり根付くという時代環境が江戸末期にはあったと思われます。そういうものが地方の名も無い若者に影響を与え、そういう人が幕末・明治にかけて活躍する下地になったと考えています。
4、私達は今迄、本歌・本説ということでいろいろ勉強してきました。先生が話されている「源氏詞」 や、近世の「源氏文化」というものを吸収する際に、区別しておくこと、注意しておくことは何かありますか。
→本歌取りというのは、定家が『新古今和歌集』で確立した和歌の手法です。この本歌取りの文化圏から「源氏文化」が始まりました。よく研究者が陥りやすいのは、単に言葉だけ見てゆくことです。今日の話の中でも「ことごとしう」のところで、これは芭蕉でなくとも誰でも使うでしょう、と話しましたが、文脈を読み、背景を読めば、単なる「ことごとしう」ではなく、そこには底流があるのだと分かるわけです。
インターネットとかCD−ROMを検索し、言葉だけで引っ掛ける(洗い出す)と、単なる言葉のヒットになるので注意が必要です。文学は質の問題ですから、その言葉の裏にあるものを探るのは重要となり、それ自体は難しいものがあります。私はそのとき最後に認定するのは、変な言い方になりますが「勘」だと思います。その「勘」というのが学力です、その「勘」が、いちばん鋭かったのは本居宣長です。宣長の「勘」は学力だったと思います。言葉が似ていても違うとか、写本を見てこれは誤記だと瞬時に見抜くのも「勘」、すなわち学力であると思います。
若い研究者の論文を見ていると、表面だけを比較しているものが多く見受けられますが、そうではない。『源氏物語』『伊勢物語』を読んで感動したという自分の体験が、その書を読み、その作者がやはり感動して書いたのではないかと思うこと、つまり感動を見抜く、感動を共有するという体験が、読書であり、研究であると思います。
< 所感 >
聴き応えのある講演でした。
私は、お話の中で「文学などは何の役にも立たない」と言われていた高度成長時代に、人生の大半を送った世代です。息の詰まるような現役社会の中で、偶然に俳句を知り、以来その対極(に見えた)の俳句世界に魅了され、現役世界と俳句世界とを往復しながら現役生活を終えました。今は、その俳句世界に、どっぷりと浸っています。すると不思議なことに現実社会の異常さや・滑稽さがよく見えます。
本来このように世界を二分することはあり得ないのですが、悲しいことにリタイア後も意識の中に依然として二つの世界が居座っています。現役時代にストレス解消の手段として、右脳と左脳(つまり精神)のバランス(調和)を保つために始めた俳句ですが、団塊世代特有の生真面目な性格から、調和ではなく、「逃避」という意識が強かったからでしょうか。つまり私にとり、俳句に浸る時間は、束の間の結界だったかもしれません。
かつてベトナム戦争時代、米国の若者達が社会的閉塞感から自国文化に絶望し、日本文化(禅・俳句)をカウンター・カルチャーとして必死に追い求めた時代がありました。また俳句初学の頃、日本を西洋にするため子規が日本文学を「薄ッぺらな城壁」と悲観し、西洋精神を本気で文学に移入しようとした事を知りました。そのとき文化とは、一体何だろうと漠然と考えたことがあります。
3.11以降、ネットを見ると、日本を変えようという声が満ち溢れています。そしてその論調は、どうも今まで我々が抱えていた価値観・発想とすこし違うようです。特に子を持つ女性の声は、理屈を越えて胸に迫るものがあり、何か根源的な力を感じます。それが今回の「和」の思想と、どう絡むのかは分かりません。
リタイア後の私が、二つの世界を引きずり、なかなか一つにならないのも、双方の価値観が、明治以降乖離し続け、今や相容れないほどの対極的世界を形成していることが、根源的な問題ではないか、とさえ思います。私個人の考えとしては、これを無理に融合せず、まず往復可能な環境を整えることが重要ではないかと思っています。
島内先生の「源氏文化」が、俳句の世界に残っているなら、それはとても嬉しいことです。「源氏文化」が俳句の心であるならば、私の言う相互世界を往復する環境作りには最適な文芸であり、やがては一つになると思います。そのようになるように、これからも仲間と一緒に俳句を愛し、俳句を作って行ければと思います。
いま哲学の世界では、西洋思想の行詰り感から「汝(他者)の思想」の重要性が、世界規模で叫ばれていると聞きました。今回のお話を聞き、「汝の思想」と和の思想、つまり「源氏文化」は同根のものを持っているのではないかと直感的に思いました。その意味で「源氏文化」の必要性は高く、日本を、そして世界を覆う日が、早く来ることを祈りたいと思います。
おわり |