はじめに
昨日東京新聞の夕刊に「新奥の細道」という題で、私の一連の短歌作品が掲載されました。東日本大震災の時、津波が遡る画面を見て瞬間的に『奥の細道』「深川出庵」段の「江上の破屋」を思い出しました。その後、原発事故などの報道に接して、ふたたび『奥の細道』の「平泉」の段、「国敗れて山河あり」(もともとは杜甫の詩)の一節を思い出し「国が敗れる」とは、こういうものなのかという思いに駆られました。このような事態に直面した私は『奥の細道』に触発され、三十年ちかく短歌を作って来た者として現代俳句でこれを表わせば、どうなるかと思い、その思いを作品にしました。
さていま「江上の破屋」という言葉を使いましたが、この言葉がすぐ口を告いで出たのは、芭蕉の『奥の細道』に出てくる由緒正しい詩の言葉だからです。詩の言葉は散文の言葉とは違い特別の衝撃力(エネルギー)をもっています。そういうエネルギーをもった詩の言葉が、どこから始まったかといいますと、藤原俊成(定家の父)からです。俊成の「源氏を見ざる歌詠みは遺恨のことなり」、つまり『源氏物語』を読んだこともない歌人は取るに足らないつまらない歌人だという宣言から始まったわけです。
よく源氏物語を研究している人に、紫式部という人は何を考えて『源氏物語』を書いたのですかと聞かれるのですが、それは分りません紫式部に聞いてください、というしかないわけです。私が研究している事は紫式部がどういう考えで『源氏物語』を書いたかではなく、『源氏物語』があったが故に、日本の文化がどう興隆し、あるいは下降したかということで、『源氏物語』で日本文化がどう変わったかを知りたいということです。そうしますと『源氏物語』の文化というのは、俊成・定家から始まるわけです。そしていまだに続いています。この源氏文化の源流に位置するのは俊成の言葉で、それ以降の歌人は『源氏物語』を読みその言葉を用いて和歌を詠み続けることになりました。
というわけで、文学を志す中世・近世の人は『源氏物語』を読んでいなくてはならない、読んでいなくても粗筋は知っておかないといけない。作中人物はダイジェストで知っておかなければならない。『伊勢物語』は短いですから直ぐ読めます。『源氏物語』の言葉は「源氏詞」、『伊勢物語』の言葉は「伊勢詞」、この「源氏詞」、「伊勢詞」を用いて中世の日本文学は詠まれ続けてきました。
そういう伝統の中で松尾芭蕉も文学に目覚め文学活動を行ってゆくわけです。さきの芭蕉の言葉「江上の破屋」とか「国敗れて山河あり」や『奥の細道』に出てくる感動的な言葉は、言わば「芭蕉詞」と呼ばれるわけです。この芭蕉の言葉に力を与えたのは「源氏文化」です。そしてその源流は、藤原俊成から始まっています。そういうものが、今なお現代にも流れているのでしょうか。
そういう問題意識で、芭蕉を「源氏文化」の中に位置づけてみたらどうなるか、ということを、これからお話したいと思います。
今日の話は大きく二つに分かれ、最初に「源氏文化の影響力の実態」と題を付けましたが、源氏文化そのものを、後半は源氏文化が芭蕉と、どのように繋がるかということを、具体的にお話をさせて戴きます。
1 源氏文化の影響力の実態
@ 「源氏文化」の定義(島内景二の場合)
まず源氏文化の定義をしておきます。「源氏文化」と『源氏物語』は違うものです。いやしくも私は『源氏物語』の研究者ですから、生涯の最後の目標は『源氏物語』の注釈本を出したいと思っています。注釈が出来なければ現代語訳を出したいと思っています。しかしこの作業は『源氏物語』そのものの研究です。それとは別に『源氏物語』という作品が、重要な意味をもっていて、日本の文化を裏で動かし続けて来たという事実があります。それを私はどうしても知りたいわけです。「源氏文化」は、中世の俊成・定家によってどういうふうに位置づけられたのかと言うことを申しますと、『古今和歌集』(905年ごろ成立)、『伊勢物語』(913年ごろ)、『源氏物語』(1011年ごろ)の三つの作品が三位一体となり一つに融合します。つまり『古今和歌集』の言葉が、『伊勢物語』『源氏物語』に使われるわけで、この三つは一括りとなります。そしてこの三つに流れ込んだ漢詩文(『白氏文集』とか)、法華経などの仏教語、あるいは『史記』とか日本の歴史書などが『源氏物語』に流れ込み、その文化が、さらに『源氏物語』から流れ出してゆくわけです。ということは『源氏物語』以前、『源氏物語』以後のほとんどすべての作品が「源氏文化」の中に位置づけられることになります。そうでないものがあるのだろうか、ということですが、例えば『今昔物語』という説話集がありますが、『源氏物語』との関係は非常に希薄です。希薄ですが無関係ということではなく、「無関係」の関係があると私は思っています。「無関係」であろうとしたということが大切で、『源氏物語』との濃淡があるわけです。『源氏物語』とべったりの関係すなわち、『源氏物語』の文体で『源氏物語』の詞を使い『源氏物語』と同じようなキャラクターを使って物語を展開させるというパクリのようなものから、一見関係ないようであるが『源氏物語』に対抗し、「源氏文化」に反抗しているという点では「源氏文化」の中に位置づけられます。それらの作品ごとの濃淡を測定するというのが、今私がやっていることです。
近代文学が始まって「言文一致運動」が起こります。この運動によって所謂文語が死滅してしまいます。このときに「源氏詞」、「伊勢詞」が滅びるわけです。散文の世界で「源氏詞」、「伊勢詞」がほとんど使われなくなります。つまり源氏文化とまったく無縁の芸術作品が現れるのは大正時代以降になります。ただし和歌の世界、俳句の世界つまり韻文の世界では「源氏文化」が生き続けて今に至っています。
その中で芭蕉がどう関わったかをお話します。
A 芭蕉『笈の小文』冒頭の芸術家たち
芭蕉の言葉で、私がとくにすきなものが『笈の小文』にあります。冒頭近くに芭蕉が憧れた人物が列挙されています。
「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、
利休が茶における、その貫道するものは一なり。」
ここに出てきている人物は、芭蕉と同じで、全て貴族ではありませんが、一流の傑作を作り上げた人物です。この中で雪舟だけは私は分からないのですが、あとの人物はすべて源氏文化に関わった人達です。天皇とか貴族だけではなく、こういう人たちも源氏文化の担い手であったわけです。そういう人達に芭蕉は憧れたわけです。西行は武士の出身ですが、有名な、
仏には桜の花を奉れわが後の世を人とぶらはば 西行
という歌は、『源氏物語』御法巻(みのりのまき)にある、紫の上の遺言の言葉の本歌取りであろうというのが定説です。そもそも西行が和歌を詠むということが源氏文化に繋がっているということになるわけです。
宗祇は、源氏文化の中核に位置しています。出自不明の賤しい身分であったと思われる宗祇が、源氏物語の第一人者となるきっかけに「古今伝授」があります。宗祇は東常縁(とうのつねより)から「古今伝授」を受けます。東常縁という人は武家ですが、定家の子孫であり、二条家の教えを受けております。この東常縁が、宗祇に「古今伝授」をしました。「古今伝授」というのは、単に古今集の言葉の解釈を受けたということだけではありません。『古今和歌集』に始まり『伊勢物語』、『源氏物語』を含む源氏文化の核心をも伝えます。宗祇はこの伝授のあと『源氏物語』の注釈書を残しています。特に「帚木巻」に関しては、大変重要な注釈を残しています。このことは後で説明します。宗祇を師とする連歌師は、各地を旅しますが、単に連歌の教授・指導だけではなく、同時に各地に源氏文化も伝えます。この連歌から俳諧は分かれたわけですから、芭蕉は連歌・俳諧の道に繋がっているわけです。つまり「古今伝授」の流れの中に繋がるわけです。
雪舟については、未だに源氏文化との関りは、これだという確信となるものは得ておりません。一般的に絵の世界では『源氏物語』を描く「源氏絵」、『伊勢物語』を描く「伊勢絵」、三十六歌仙を描く「歌仙絵」というものがあり、和歌と源氏文化とが強く結びついた美術界の伝統がありました。雪舟は禅僧でありました。禅の思想と『源氏物語』の「須磨・明石巻」は深く関連しています。禅僧の間で謡われた道歌(どうか)というものがありますが、これは源氏が須磨・明石でうら寂しく過ごした状況に大変よく似ています。この辺を突破口にして禅との関りをこれから研究してゆこうと思っています。
利休は茶道になりますが、茶道で使われる名器と呼ばれる茶碗などに付与される名前には、『古今和歌集』とか、『伊勢物語』や『源氏物語』に由来するものが多くあります。また茶室に掛けるものは源氏文化と関連していますし、「わび・さび」という思想も須磨・明石に関連しています。
以上、多いに、こじつけかも知れませんが、芭蕉が憧れた人物は源氏文化と関係があり、その中でも宗祇はその中核にいた人物でありました。
B 芭蕉に流れ込んだ「連歌師・俳諧師」の源氏文化
次に宗祇から流れ出た源氏文化が、どのようにして芭蕉に辿り着いたかを説明します。連歌師、俳諧師の動きが、どのようにして芭蕉のDNAになっていったのでしょうか。その出発点は宗祇です。
『源氏物語』は五十四帖ありますが、特に大切な巻を選べと言われたら、皆さんどれを選びますか。宗祇が重視したのは「帚木巻」です。これが『源氏物語』の出発点であると考えました。「桐壺巻」というのは後から加筆したといわれ、これが現代の一般的な成立論になっています。それを抜きにしても宗祇は「帚木巻」を『源氏物語』の実質的な出発点と考えていました。それは帚木というものは、遠くからは見えるけれども、近くからは見えなくなる、それが真実といえば虚構、在ると思えば無い、というこの世の真実に繋がっていると見たわけです。そして次に大切な巻は、源氏が退場する「幻」だと宗祇は考えます。人生は幻であると考えるわけです。そして宗祇は三つ目の大事な巻として、最後の夢の「浮橋巻」を上げています。宗祇は「帚木巻」、「幻巻」「夢浮橋巻」の三巻は、『源氏物語』全巻を通して覆っているものだとしています。宗祇は『源氏物語』を、真実といえば虚構、虚構といえば真実という人生の真実を伝える物語である、という見方を打ち立てて、これを伝え継承してゆきます。
なお「古今伝授」では、『古今和歌集』の中にある「誹諧歌」(巻十九)も伝授されます。この誹諧歌の誹が、言偏から人偏となり俳諧歌となり俳諧に繋がるわけです。そのとき滑稽さだけでなく、源氏文化も同時に繋がってゆきます。宗祇の弟子の中で特に有名な人は、肖柏(しょうはく)と宗長です。肖柏は例外的に貴族の出身です。中院(なかのいん)家の出身で大阪池田の辺りに住んでいたといわれています。肖柏の最大の功績は宗祇の言葉を伝えたことです。肖柏は『源氏物語』については『弄花抄(ろうかしょう)』、『伊勢物語』については『伊勢物語肖聞抄』という大変重要な注釈書を著しています。『弄花抄』は三条西実隆(さねたか)に伝わり三条西家の源氏学の出発点になります。
宗長は島田の鍛冶師だったといわれていますが、宗祇から聞いた『伊勢物語』をもとに『伊勢物語宗長聞書』という注釈書を残しました。
この宗祇、肖柏、宗長の三人は源氏文化に、どっぷりと浸った人達です。またこの三人は、連歌の最高傑作といわれる『水無瀬三吟百韻』を巻いています。これが室町時代における連歌師たちの源氏文化の始まりです。
このような源氏文化の流れから、次にいきなり江戸時代に入りますが、江戸初期における源氏文化の最大の担い手は俳諧師の総帥、松永貞徳です。貞徳はただの俳諧師ではなく、和学者として古典学者として当時最高の権威をもった人でした。貞徳はその身分故に「古今伝授」というような正式な伝授は受けていませんが、細川幽斎たちから源氏文化のスピリットはしっかり受け継ぎました。そして貞徳は、宗祇から始まる源氏文化を江戸時代初期に集大成した人物でもあります。また連歌師、能登永閑が著した『源氏物語』の膨大な注釈書『万水一露』を編纂し出版しています。自らは『徒然草』を分かりやすくするため有名な挿絵入り注釈書『なぐさみ草』を著し『徒然草』を、古典の名著入りさせるのに貢献した人です。また今で言う、公開講座を行い古典そのもの大衆化にも努めています。さらに名は不明ですが貞徳の周辺には『源氏物語』を大衆化するために挿絵入りの『首書源氏物語』や『絵入源氏物語』を発行する人もいました。
俳諧道を志すといいますと、やはり和歌の志が必要になり、和歌を知るためには『伊勢物語』、『源氏物語』を知らなければなりません。このため俳諧師たちの教養というものは、まさに源氏文化にどっぷりと嵌まってゆきました。貞徳門下には貞門七俳仙と呼ばれる七人の有名な俳諧師がいました。その中に野々口(雛屋)立圃(りゅうほ)というユーモラスな絵の名人がいました。この人の描いた絵は俳画の源流ともいわれています。この野々口立圃の最大の功績は、得意の絵を駆使して『十帖源氏』という『源氏物語』の五十四帖を、十帖に縮めたダイジェスト版を発行したことです。さらにそれを判り易くした『おさな源氏』も発行しました。俳諧師が『源氏物語』の権威であったわけです。
貞徳のもうひとりの弟子に、北村季吟がいます。 私はこの季吟に心惹かれています。何故かと言いますと『源氏物語』を読むのに、北村季吟の書いた『湖月抄』があれば読める、『湖月抄』がなければ読めない。まさに『源氏物語』注釈書の決定版とも呼べるもの(『湖月抄』)を季吟は書いています。『湖月抄』があれば、大学院の学生に、博士課程はともかくとして修士課程の学生であれば充分教えられます。それだけのものを季吟は纏めました。季吟は俳諧師ですが歌人でもあり、主だった古典の注釈書を多く刊行しています。『枕草子』については、『枕草子春曙抄(しゅんしょしょう)』を、『伊勢物語』に関しては『伊勢物語拾穂抄(しゅうすいしょう)』、『徒然草』に関しては『徒然草文段抄(もんだんしょう)』などの注釈書などです。それぞれが注釈書の決定版というものを次々に刊行しています。与謝野晶子が、明治時代に『恋衣』という三人で詠んだ歌集のなかで、
春曙抄に伊勢をかさねてかさたらぬ枕はやがてくづれけるかな(『恋衣』)
という歌を詠んでいますが、これは『枕草子春曙抄』と、『伊勢物語拾穂抄』とを重ねて枕にしたことを詠ったものです。余談ですが、私はためしにこの二つを重ねて寸法を測ってみたことがあります。かなりの嵩ですが、それでも足りないということは昔の女性の髪は相当な嵩であったと感心しました・・つまらない話をしました。(会場爆笑)つまり与謝野晶子たちは季吟で、源氏物語などを読んでいたわけです。
北村季吟は、近江の国の野洲に生まれ、京都で活躍していたのですが、晩年の元禄二年に柳沢吉保に招かれ江戸に下り、江戸幕府の歌学方に任命されます。最終的には知行取り五百石の扱いをうけます。こうして「古今伝授」の伝統から始まった源氏文化は宗祇から貞徳を経て、季吟に集積し京都から江戸に根付き、江戸は日本文化の中心になってゆきます。そして同時に源氏物語が、政治社会に活用されてゆきます。この近くにある駒込の六義園は、柳沢吉保の下屋敷です。そこに和歌文化、つまり源氏文化を空間化した六義園という建物が建てられます。この六義園の思想が、すなわち古今伝授の思想であり、時間芸術を空間芸術に変えた画期的な建築である、・・・・という説を、私はあちらこちらで話をしています。
さて、北村季吟の弟子に伊賀上野の侍大将、藤堂良忠がいました。俳号を蝉吟(せんぎん)と称し、この蝉吟に仕えていた下級武士が若き日の芭蕉です。季吟と蝉吟の間には、確実に師弟関係が成立っています。このため蝉吟の使い走りなどで、芭蕉が季吟に会ったであろうという事は予想できます。しかし季吟が江戸に出てきた後に芭蕉と、どう繋がったかは、私は未だ定かではありません。季吟の二人の息子たちは、芭蕉と大変親しく接しているので、この線から季吟と芭蕉を繋げないかと現在考えています。もし繋がれば源氏文化が、そのまま芭蕉に入ります。これまでにも季吟と芭蕉をつなぐ説がいくつかあり賛否両論渦巻いています。一つは『俳諧埋木(うもれぎ)』という俳諧の秘伝書があるのですが、これを季吟が芭蕉に与えたという説です。私は伊賀上野の芭蕉記念館のなかで、ガラス・ケースの中の『俳諧埋木』を見たことがあります。しかし真偽のほどは私には分かりません。また「桃青」・「芭蕉」という俳号を名乗ったらどうだという季吟が芭蕉に書いたといわれる手紙が残っています。これが本物か否かは専門家の間でも喧々諤々と議論されており、定説までには至っておりません。
実は、私は五メートルぐらいの季吟の巻物をひとつ持っています。時々眺めては『俳諧埋木』の最後のところに思いを馳せています。
季吟が江戸に下るのは、元禄二年の十二月です、この年の春に芭蕉は奥の細道に旅立っています。先ほどの谷地先生のお話にも御座いましたが、芭蕉の作風が元禄三年ごろから変わっていくわけです。不思議なことにその年は、季吟が江戸に出てきた翌年に当たっているわけです。『奥の細道』には素龍本という有名な写本があります。私は高校のとき、この本は芭蕉が字の上手い素龍に、これを清書させたと教わりました。しかし、どうも「清書させた」というのではなく、「清書してもらった」というのが正しいのではないかと思います。素龍という人は本名が柏木儀左衛門といい、季吟の高弟です。季吟は、すでに高齢ですので、自分の息のかかった弟子を、柳沢吉保などの奥方や側室に和歌の先生として推挙しています。柏木儀左衛門も季吟の推挙で柳沢吉保に仕えた、れっきとした武士でした。五代将軍綱吉は生涯のうちに吉保邸を何十回も訪れていますが、そのときに柏木儀左衛門が、綱吉に『源氏物語』を進講したほどですので、『源氏物語』についても相当の知見をもっていた人物と思われます。この素龍と芭蕉の関係を突破口に研究すれば何か出てくるのではないかと思っています。多くの研究者が挑戦し、未だ成果がありませんので難しいかもしれませんが、自分なりに研究をして行きたいと思っています。
北村季吟が『湖月抄』を引っさげて江戸に出て、源氏文化は貞徳の時代よりもさらに早いスピードで全国化、大衆化してゆきます。また同じ時期に芭蕉は江戸で俳諧における自分の道を確立し、その俳風を全国に広めていったわけです。何か不思議な暗号といいうか連動があるわけです。季吟の俳諧書に有名な『増山井(ぞうやまのい)』というものがあります。現在の歳時記の源流の一つだと思います。子規が季題・季語に高い関心を示したといわれていますが、この『増山井』も近代の子規に大きな影響を与えたものと思います。芭蕉が唱えた「不易流行」ですが、この解釈はいろいろあると思います。「不易」はおおまかに言えば、『源氏物語』(あるいは「古今伝授」 )を継承するのが「不易」、それを時代に合わせて組み替えてゆくというのが「流行」といえます。
芭蕉が仕え、同時に俳諧の師であった蝉吟のその上の師は季吟でした。したがって季吟は芭蕉に取り神様のような存在ではなかったかと思います。その季吟は古今伝授を通して源氏文化を体現していました。したがって芭蕉と源氏文化が無関係ということは無いのではないかと思います。
「古今伝授」は「和」を重要視します。『古今和歌集』の「和」、日本は「和」国です。日本の文化は、つまり「和」国の文化は「和歌」が代表します。和歌の「和」とは何か、『古今和歌集』の「仮名序」にも書いてあるように、「力をも入れずして天地をうごかし・・・」とあり、男と女の仲を和らげる、人間関係を作り上げてゆく、人と人の結びつきを作り、それを発展させ・和らげるというものが和歌の思想であり、それが「古今伝授」の大切な思想でもあるわけです。そのような人間関係を発展させるという根源的な思想が、連歌や俳諧の連衆が集る、所謂「座の文学」というものを生み出したのではないか、という考えと当然関連する筈です。このため、もう一度この「座」というものを『古今和歌集』の「仮名序」あたりから、線を引き直す必要があるのではないかと考えています。
C 源氏文化が、近代の扉を開いた
近代を開いたと少し大袈裟なタイトルにしましたが、源氏文化のその後の話になります。別の言い方をしますと、和歌、つまり古典和歌が近代の扉を開いたということです。つまり「和」の思想が、近代を乗り切ったということです。別の言い方をすれば、日本人が近代を乗り切るきっかけは「和」の思想にあったということです。
『湖月抄』が唱えたことは、ひと言で言いますと「和」の思想にあったわけですが、その『湖月抄』の後に、大変困った事に一人の天才が現れます。本居宣長です。昨年ある本を読みましたら、宣長は独創性のない人と書かれており、仰天しました。宣長の本を読みますと私は常に、この人にだけは勝てないと思っていたからです。北村季吟であれば、勉強さえすれば何とか季吟と同じぐらいになるかもしれない。季吟には、そう思わせる懐の深いところがあります。しかし本居宣長は「寄らば斬る」という感じで、足元にも及ばない人であります。
この宣長が出現して『源氏物語』の注釈書『玉の小櫛』が、「もののあはれ」を唱えたとき、実は源氏文化は一番の危機を迎えます。何故かといいますと、宣長のやろうとした事は、『源氏物語』を紫式部に戻そうとしたからです。つまり古代文学として『源氏物語』を読み込もうとしたのです。季吟たちがやって来て、芭蕉に流れ込んだ源氏文化というものは、俊成・定家から始まり、中世の激動の戦乱の時代に、平和な日本が復活したら『源氏物語』や和歌を通して人間関係を発展させたいという祈りを持っていました。「源氏文化」と『源氏物語』は別のものですが、宣長は『源氏物語』を古代文学として紫式部に戻そうとしました。つまり季吟までの流れを切るものでした。宣長は学者として非常に立派で、誰も真似のできない独創的な学説が次々と出しました。宣長の学説の特徴は「個」・「孤」にありました。個人の「個」、孤独の「孤」であり、非常に近代的な学風でした。このような学説(国学)は、外国思想に対して非常に排他的です。「唐心(からごころ)を排す」といい、儒教・仏教を激しく攻撃します。ましてやオランダ文化などについては許せないわけです。国学者は外来思想に対して大変狭い了見をもっていました。このまま進めば、つまり宣長風の『源氏物語』の理解・日本文化の理解で進めば、日本文化は近代を前に転覆したと思われます。しかし、そこが面白いところで、もう一回季吟たちが復活します。宣長流の『源氏物語』の理解、「もののあはれ」は大変独創的でありましたが、これが季吟の『湖月抄』に足され(私はこれをUpdate;アップデートといっています)、(『増註湖月抄』という注釈書となって←筆者注)何の矛盾も無く同居したのです。つまり、季吟が天才・宣長の学説を飲み込んだわけです。「源氏文化」出発点である「和」の思想、つまり中国文化・仏教文化を、すべて受け入れ「和」の精神を発揮し協調・共和してゆくという思想が、しっかりと残ったわけです。
この『増註湖月抄』を書いた人は、名も無い文化人です。季吟の思想・やり方が分かっていれば、後から出てくるどんな学説でも取り入れられたし、また誰にでも出来たわけです。もし現代人の私が、明治以降出てきた人の学説を盛り込めと言われれば、『増註湖月抄』をアップデートすれば良いわけで、大変面白い読み物が出来ると思います。
この『増註湖月抄』が出来た事が源氏文化の凄さで、「和」を否定する先鋭な、また破壊的な学説も取り込み調和させることに成功してゆきます。
吉保の六義園に行きますと、和歌に因む名所の名前、中国の漢詩文に由来する地名、インドで起こり中国に移った禅宗に由来する地名が、ひとつの秩序の中に収まっています。吉保は「古今伝授」 を受けたことで、それまで勉強してきた儒教、座禅を組み修行してきた禅の教とまったく矛盾しない「和」の思想を備えた、日本、中国、天竺の三階建ての文化構造を六義園で確立しました。(→三位一体の世界観を構築)
やがて、幕末になると蘭学(洋学)が怒涛のように入ります。この蘭学を担った人たちは漢文・漢学の知識だけでなく『源氏物語』に関しても優れた教養の持主で、全国津々浦々から続々と現れます。この人たちが近代化を担ってゆきます。
来年出版予定のある本で、私はあることを主張する予定です。それは『源氏物語』が江戸後期に「文化統合システム」として重要な機能を果たしたということです。「文化統合システム」とは何かといいますと、外来文化を受け入れるということです。
「和」の思想とは、調和・和解・和合・和楽・平和の「和」で、これを実現するのが和歌というジャンルであり、その和歌の思想を持っているのが和国です。そして、その「和」の文化を代表するのが『源氏物語』であり、『伊勢物語』であり、『古今和歌集』であるわけです。
こういう外来文化を背景にしないで、和・漢(中国+天竺) ・洋の三階建の大きな精神構造を作るというのが、鴎外・漱石という明治の文豪たちに受け継がれてゆき、時代に批判的な人が近代を作り上げて行くわけです。つまり源氏文化が近代文化を招いたのである。・・・・・というような大風呂敷を広げたいと思っています。(つまり、「和魂洋才」ではなく、「和漢洋」の三位一体で近代を築いた←筆者注)
その時に実例が必要になりますので、盛岡(東日本の代表)と長崎(西日本の代表)の具体例をあげ、このような人たちがこのように源氏文化を担っていた、その水準は大変高いものがあった、他の都市でも起こっていた。というようなことを書くつもりです。
和・漢・洋を矛盾無く一体化させ調和させるというのが、源氏文化の良いところです。これを外国人ながらやってくれたのが、アーサー・ウェリーです。ウェリーは最初、中国文学の研究から出発し、日本文学の研究に転じ『源氏物語』の美しい英訳を作りました。そしてそれを、ヨーロッパに紹介し、『源氏物語』の国際化を成功させました。日本・中国・西洋の三階建てが、ウェリーの源氏訳に繋がった。まさに源氏文化を英国に移し変えてくれた人だと思います。
また、俳句がこれだけ国際化したのも、源氏文化の成功例だと思います。しかし外国の俳句を見ると、季語が入っていないので気になります。季語のない俳句が国際化していいのか、あるいは悪いのか、私は俳句の専門家では無いので詳しくは判りませんが、あるいは、これは国際化の宿命かとも思います。
以上、大変大まかなことを、話してきました。
次に、芭蕉の表現から源氏文化の痕跡をさがしてゆきたいと思います。
(その1)おわり
以下(その2)につづきます。 |