俳人は勉強をする人種でなく、創作する人々であるという話を聞きます。たしかにそうかもしれません。とすれば、俳文学者は研究者なのだから、創作などできなくてもよいという理屈も成立するでしょう。しかし私は、創作と研究は本来ひとつのものという姿勢で暮らしてきました。その視点で見るとふしぎなことがいくつもあるのです。「俳句は明治時代に成立した」とか「芭蕉や蕪村の時代の俳諧と俳句は別物である」という思い込みもそれです。
最近、俳句教養講座第一巻『俳句を作る方法・読む方法』(角川学芸出版、平21・11)で「俳句的ということ」という課題を与えられ、この問題を考える機会がありました。詳細は書物にあたっていただくことにしますが、導入として、そこにどのようなことを書いたかについて、お話させてください。
俳句は今も発句(ほつく)、つまり連句の第一句と変わりないということを書きました。次の発句・脇の付合を読んで、発句が俳句同様に一句で完結していることを確認してください。すぐれた句は本来脇句を伴う余情を持っているものなのです。
灰汁桶(あくをけ)の雫(しづく)やみけりきりぎりす 凡 兆
あぶらかすりて宵寝(よひね)する秋 芭 蕉 (『猿蓑』「灰汁桶の」歌仙)
右は連句の例ですから、連句が連歌から派生していることを確認してもらうために、次のような男女の応答を示す連歌を出しました。季題(季語)はありませんが、定型が守られていること、切字に等しい言い切りがなされていること、即興的な機知がはたらいて、滑稽な味わいや挨拶の心が込められている。つまり、俳句的な要素と言われるものの多くが連歌的であるという歴史的な事実を知ってほしかったのです。
内に侍ふ人を契りて侍りける夜、遅く詣で来ける程に、
うしみつと時を申しけるを聞きて、女の言ひ遣はしける
人心うしみつ今は頼まじよ
夢に見ゆやとねぞ過ぎにける 良岑宗貞(『拾遺集』)
良岑宗貞(よしみねのむねさだ)は平安時代の六歌仙の一人である僧正遍昭の俗名です。禁裏に忍び逢う女がいて、ある夜逢う約束をするのですが、約束の時刻を大幅に遅れて、夜中の二時過ぎ(丑三つ)になってしまう。それで、女は彼をなじって〈約束の時刻に来ない不誠実な男め、あんたなんか、もう頼みにしない〉という意味の「人心うしみつ今は頼まじよ」という上の句を届けます。男はそれを受けて、〈じつは、約束の時刻を待ちきれず、ひとまず夢で逢おうと思ってひと眠り、それで寝過ごしたのだから許して〉と弁解します。「夢に見ゆやとねぞ過ぎにける」という下の句がそれです。女が〈丑三つ〉に〈憂し見つ〉を掛け、男はその〈丑三つ〉を〈子の刻〉と受けて、〈寝過ごしてしまった〉という機知の応酬であります。
時間の関係で詳細は省きますが、このように俳句の歴史を辿り直すことにより、どのようなことがわかるか。日本の詩歌は五音と七音の組み合わせであり、異なる歌の形式がいくつも生まれていることがわかる。時に破調を試みたり、自由律(非定型)などという挑戦があるけれど、それは突きつめれば定型という枠内の試行錯誤であることがわかる。切字よりも、主題を明らかにする文章力のほうが大切であることがわかる。つまり、切字論を難しくするより、言い切るという日本語表現能力のほうが大切であることがわかる。いまだに議論が絶えない挨拶・即興・滑稽という俳句の側面は、連句のとりわけ発句と脇句の当座性から求められたものであって、当座性を離れた俳句にとって、ほとんど形骸化していることがわかります。
角川さんの講座では以上のようなことを説いて、発句が独自に、つまり俳句として鑑賞される歴史は連歌の世界までさかのぼることができることを指摘しました。俳句は正岡子規以降にはじまった近代詩歌のひとつではありません。どうぞ俳句教養講座を読んでいただいて、みなさんが師事する指導者の発言の何が正しくて、何が間違っているのかを考える自律的な俳人になってください。 |