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論文を読む会議事録
第四回芭蕉会議の集い 「俳句と短歌」発表の概略及び報告記 江田浩司
 兄弟あるいは姉妹と言ってもいい短歌と俳句は、日本の伝統的な定型詩として似ているところと異なるところの二面性を持っています。その点を念頭に置きながら「俳句と短歌」についてお話ししたのが今回の発表でした。この文章はその発表の概略をまとめたものです。


 詩人で評論家の吉本隆明さんは『源実朝』という著書の中で次のように言っています。


  ひとりの詩人が、以前に俳句の創作体験をもっていたとする。するとこの体験はかならず現代詩の創作に結びつけることができるにちがいない。(中略)

  ところで、ひとりの詩人が、以前に短歌の創作体験をもっていた。そして、ある時期から、現代詩あるいは小説の創造に転じた。かれのかつての短歌体験は、詩または小説の創造に結びつけることができるだろうか?かれの短歌の創作体験は、たぶんどこにもむすびつく契機をもたないはずである。短歌はただ短歌的表現の迷路と深みにだけゆきつくようにみえる。                      『源実朝』1971年刊


 吉本さんがこのように書かれているのはとても象徴的です。私がお話しをした何人かの詩人の方で俳句と詩の親和性を言われた方は多くいらっしゃいます。しかし、短歌と詩についてそこに共通性を見いだすと言われた詩人はそれほど多くはありません。いや、私は短歌的な詩人ですと仰っていたのは藤井貞和さん一人しか私は存じ上げません。

 しかしそうではあっても、吉本さんのこのような考えは果たして正しいのだろうか、というのが私の第一の疑問でした。また、吉本さんがこのように考えた時点の短歌と現在の短歌を同じ評価軸で語ることができるのだろうか、という疑問もありました。

 この度の発表はそのような疑問を抱えながらの発表でした。時間の余裕があればその点について会場のみなさんといっしょに考えたかったのです。

 また、講師として穂村弘さんに来て頂いていますので、穂村さんともその点を話し合えればと思っておりました。穂村さんは歌集の他に詩集や多くのエッセイ集を刊行されています。さらに、会場にはすぐれた短歌と同時に小説も書かれている東直子さんがいらっしゃいました。穂村さんや東さんのように、歌人でありながら詩人、小説家、エッセイストとしても活躍されている方が、現在たくさんいらっしゃいます。それらのことも考慮しながら短歌と俳句について考えてみるのも興味深いと思いました。

 短歌と俳句の違いについて折口信夫は次のように指摘しています。短歌は単純性、無内容性に特徴があり、「七七」を持つことで内容があわあわと澄明(ちょうめい)なものになる、そこに鎮魂の作用がはたらくというのです。また、俳句は複雑性、思想性が内在され、ある点近代詩に近いと言っています。折口の指摘する短歌の特徴は折口の短歌の性格と重なっていることに注意しなければなりません。

 折口は大正の末年に「歌の円寂する時」で短歌が滅亡する運命にあることを三つの点から論じましたが、そのうちの一つである短歌の宿命を先のような短歌の性格に基づいて説明していることを考える必要があるでしょう。今はその是非については言及しませんが、折口の考える短歌と俳句の違いは、このように対極的であったことだけは押さえておく必要があると思います。

 短歌と俳句の違いについて現在論じられている代表的な一つの例は、次のようなものです。

 多くの短歌は上句と下句で、心情的な意味と具体的な像の対応がなされています。これを「短歌的喩」という言葉で最初に説明したのが吉本隆明さんです。

 また、それに倣って言えば多くの俳句は一句の中で、像と像の対応がなされていると言えます。これを「俳句的喩」という言葉で表します。

 歌人の三枝ミ之さんはその点をまとめて次のように説明しています。


  街はいま四月の雨にけぶりおり ガーベラの火を選る繊き指   三枝浩樹

  むきあえば半ば翳れる汝が頬よ 告げざりしわがかなしみの蝕  永田和宏


    放蕩やビルに前世の落花生                摂津幸彦

    死火山の裏側凄き没日かな                藤原月彦


  「切れ字」とはそれを使うことによって定型空間の遮断力を強めて、空間の濃密さをより高めるためのものだと考えてよいと思う。(中略)

  このように考えると最短定型詩型俳句が生んだ必然的方法として、切れ字の意義は明瞭になってくると思われる。はじめに引用した現代歌人の作品の中で、三枝浩樹を除く三人の作品はいずれも、心情的意味の表現と具体的像を対応させるという形で対応が行 われており、それが短歌における普遍的な対応の形だとのべたが、いままでみてきたところ、俳句にはそういう対応は起こりにくく、像と像の対応が行われるのが普通である。

 (中略)

  俳句が、徹頭徹尾「形象性」の文学だというその詩型に内在している制約を問いつめて、像的叙述で一句が終わった瞬間、それら全部が意味的な叙述に反転するという構造、それがこれら抄出した俳句の構造なのである。こうした構造への意識化がなくて俳句における「切れ字」という制度的方法の排除の志向は詩的定着を遂げられるはずもない。

      (『現代俳句』七六年十一月号)『現代定型論 気象の帯、夢の地核』所収、1979年刊


 また、三枝さんの説を踏まえながら、俳人の仁平勝さんは俳句の特徴を次のように説明しています。


  さきに〈短歌の上句〉ということを、五・七・五=十七音の〃定型〃の発生的な本質として考えようとした。それは言葉をかえれば、その〃定型〃自体のうちに、発生的に切り捨てられた「七七」の〈下句〉が、いわば幻肢として、構造的に抱え込まれているといってみてもよい。この〈幻肢としての下句〉は、ことさら俳諧の脇句のなごりと考 える必要はない。五・七・五という音数律そのものの本質的な不安定さなのだ。そして 「切れ」とは、すなわちこの〈幻肢としての下句〉から切れる方法意識にほかならない。  (中略)

  思いきったいいかたをすれば、さきにすこしふれた五・七・五=十七音そのものの韻律的な不安定さこそが、俳句的喩の本質的な契機にちがいない。五・七・五・七・七=三十一音という短歌の〃定型〃において、その韻律的な安定をつくりだしている七 ・七 を切り捨てることが、なによりも〈発句〉の本質であり、それはいわば古代的あるいは中世的な詩的共同性に対する、近世の詩的共同性の批評であった。俳句は短歌にくらべて相対的にみじかいのではなく、絶対的に不安定なのだ。私が〈幻肢としての下句〉とよんだものは、この不安定さの意識(の喩)であり、〈俳句的なるもの〉とは、この安定さにこだわろうとする詩的な方法意識であるといってよいであろう。川柳や交通標 語の五・七・五には、はじめからこういう方法意識が存在していない。

                「虚構としての定型」『詩的ナショナリズム』より。1986年刊


 三枝さんや仁平さんの説は短歌と俳句を詩型の構造に即してその特徴を説明したものです。このような説はすべての短歌と俳句に当てはまるものではないと思われますが、二つの詩型が持つ基本的な構造原理として今なお重要な指摘である思います。

 また、宗教哲学、民俗学の鎌田東二さんは、短歌と比較しつつ俳句の主体について独自の視点から興味深い指摘をしています。


  俳諧における多極化された自我、あるいは非人称性とは、季題が、というよりも自然がつねに主語となり、いったんの途切れ/差異ののちに、また熟語と転じるメビウス状の半自然連合がもたらすものではないだろうか。いうなれば、俳諧には短歌にみられる ような一元的統覚者はいないのである。五七五七七の「七七」によって、短歌にはまとわりつき、ゆるやかに流れるような情調が生まれ、その情調の統覚者が姿を現す。   (中略)

  俳諧の主語はつねに自己ではなく他者である。俳句の中でも短歌的情念を彷彿とさせるといわれる橋本多佳子の「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」という俳句でさえ、主語は「雪」であり、「こと」それ自体なのである。(中略)

  短歌の言葉が人の心理に向かうベクトルを持っているとすれば――俳句は自然の物理に向かうベクトルをもっている。

  「自我の他在――あるいは非―私の文学としての俳諧」一九八八年七月増刊「アサヒグラフ 俳句入門」より。


 少し難しい表現ですが「俳諧の主語はつねに自己ではなく他者である。」という鎌田さんの言葉に注目して頂けばいいと思います。つまり一言でいえば、「俳諧は他者の文学である」と鎌田さんは言っているのです。橋本多佳子の句を見るかぎりこれはかなり大胆な説であると思います。俄には首肯しかねるところもありますが、注意すべき説であると思います。

 鎌田さんとは対照的に寺山修司さんは俳句を「私」性の文学であると主張しています。ただし、寺山さんの「私」性という言葉には私小説のような「私」ではなく、虚構化された「私」が内在されています。その点に注意を要しますが、寺山さんの俳句は確かに「私」性の文学であると言ってもいいような表現で作られています。

 その寺山さんが晩年に短歌と俳句の違いについて柄谷行人さんとの対話で次のような発言をしています。


  寺山短歌は、七七っていうあの反復のなかで完全に円環的に閉じられるようなところがある。同じことを二回くり返すときに、必ず二度目は複製化されている。マルクスの『ブリュメール十八日』でいうと、一度目は悲劇だったものが二度目にはもう笑いに変わる。だから、短歌ってどうやっても自己複製化して、対象を肯定するから、カオスにならない。風穴の吹き抜け場所がなくなってしまう。ところが俳句の場合、五七五の短詩型の自衛手段として、どこかでいっぺん切れる切れ字を設ける。そこがちょうどの ぞき穴になって、後ろ側に系統樹があるかもしれないと思わせるものがあるんじゃないかな。俳句は刺激的な文芸様式だと思うけど、短歌ってのは回帰的な自己肯定性が鼻についてくる。

                  柄谷行人の『ダイアローグU』(一九八七年 第三文明社刊)


 寺山さんのこの発言を初めて読んだときに私はたいへん驚かされました。短歌に革新的な新風を吹き込んだ寺山さんがこのような発言をすることが不思議に思われました。現在も寺山さんの短歌は世代を超えて影響を与え続けています。寺山さんの短歌を読んで短歌を作り始めたという若者も後を絶ちません。しかし、「私」性の文学としての短歌を極めた寺山さんだからこそ、このような発言をしたのだと思われます。

 寺山さんの短歌と俳句を比較したとき、私には寺山さんの俳句が短歌に到る過渡的な表現であったとしか思われません。やはり、完成度では短歌の方が数段すぐれているでしょう。その寺山さんをして、晩年に短歌よりも俳句を肯定的に語っていることにはとても意味深いものがあります。

 また、寺山さんが最晩年にこっそりノートに短歌を書きためていたことが最近パートナーが編集した本によって発表されました。その点を含めて寺山さんの発言は再検討される余地があると思います。

 私自身は寺山さんが指摘した短歌のネガティブな側面をむしろ短歌の属性として、それを生かすことこそがすぐれた短歌への道だとも考えます。いずれにしても、鎌田さん、寺山さん両氏の説はユニークであると共に示唆に富むものだと思われます。


 それではここで、俳句創作の経験を持つ前衛歌人の短歌と俳句を比較したいと思います。寺山さんは申すまでもなく、塚本邦雄さん、岡井隆さん、また、同じく前衛歌人の周辺にいた山中智恵子さんも俳句を創作しています。

 では初めに寺山さんの作品を見てみましょう。どちらの作も1957年以前の作、高校時代の作品です。


  父と呼びたき番人が棲む林檎園

  わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む

 

  ラグビーの頬傷ほてる海見ては

  ラグビーの頬傷は野で癒ゆるべし自由をすでに怖じぬわれらに


  夏井戸や故郷の少女は海知らず

  海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり


 このように比較するとはっきりと分かるように、寺山さんの俳句と短歌にはよく似た作品があります。ここに例に挙げた三組の作品は、俳句が先に作られその俳句のモチーフをそのまま短歌に引き延ばしたものだと思われます。完成度はいずれも短歌の方が上でしょう。それは素材の選択とその素材の生かし方が短歌の方がすぐれているからです。

 また、「私」性という観点から考えた場合、やはり短歌という詩型の方が自己の心情を表現するには向いていることも作用していると思います。それは私が寺山さんの俳句が短歌に到る過渡的な表現であると考える一つの根拠になっているものです。

 そして寺山さんの俳句と短歌を比較して見る限り、寺山さんの俳句創作が直接短歌創作につながっていることに注意しなければなりません。

 では塚本邦雄さんの場合はどうでしょうか。恂{さんは独自の短歌の文体、「しらべ」を完成させるのに俳句からの影響や示唆を受けている歌人です。まかり間違えば自分は俳人に成っていたと公言する恂{さんは、多くの俳句を作り句集をいく冊も刊行しています。その中から初期の短歌と俳句を比較してみます。


  凍雪に雪ふりつもる夜の娶り       『断絃のための七十句』1973年刊

  館いま華燭のうたげ凍雪に雪やはらかくふりつもりつつ 

                               『水葬物語』1951年刊


  火口湖の底なる貝の死の螺旋

  アルカリの湖底に生(あ)れて貝類はきりきりと死の螺旋に巻かれ


  静雄忌の靴の尖(さを)まで指満たず       『断絃のための七十句』

  父となる夜やさかのぼる春の潮          同


 恂{さんの俳句には二つの傾向があります。短歌との類似した世界を表現する場合と、俳句的な世界を追求した場合です。例示した先の二つの例が前者にあたり、後の二句が後者にあたります。初めの二つが同じ素材を短歌と俳句で作り分けているのに注意して下さい。これは先の寺山さんの場合と似ていますが作り方は逆です。恂{さんは以前に短歌で表現した世界を、俳句の世界に置き換えて表現しています。ただし、恂{さんがどこまで意識的であったかは定かではありません。作為的な行為ではなく自然にそうなってしまったという可能性もあります。その場合は、二十年以上立っても恂{さんは同じ素材とモチーフを持ち続けていたということで、却って興味深いと思います。

 しかし、実際には以前に作った短歌を意識し、本歌取りのように作ったものではないでしょうか。

 また、後の二句は恂{さんの作った俳句として私が感心したものです。いずれにしても、恂{さんの好み、恂{美学に貫かれた短歌と俳句であると思います。

 前衛歌人のもう一人の代表である岡井隆さんは先の二人と違い、短歌と俳句をはっきりと区別して作っています。まったく別の詩型であるという意識が強かったのだと思われます。

 同じ時期に作られた短歌と俳句を並べてみます。


  絵の家に寒燈二ついや三つ

  寒靄(かんあい)といふべきか谿を深うする

  隣室に海荒るるべき寒さかな

           1994年1月御岳「風花句会」岩波新書『俳句という愉しみ』所収


  あのね、アーサー昔東北で摘んだだろ鬼の脳(なづき)のやうな桑の実

  冬螢飼ふ沼までは(俺たちだ)ほそいあぶない橋をわたつて

  叱つ叱つしゆつしゆつしゆわはらむまでしゆわはろむ失語の人よしゆわひるなゆめ                                             『神の仕事場』1994年刊


 岡井さんの俳句は一流の俳人たちと御岳に参集して作られたものです。私はこれらの句を俳句として完成されたものであると思います。しかし出席者の1人である藤田湘子さんは二句目の句の分裂を指摘し、岡井さんの句だとわかった時点で、改めて短歌的であると発言しています。また、藤田さんの発言を受けて、岡井さんは次のように答えています。「そうなんです。ふたつに分裂していると言われて、なるほどと思いましたね。短歌ならふたつを歌うことから始まる」

 最終的に2句目の句が短歌的であるのかどうかは保留しますが、少なくとも岡井さんの当時作っていた短歌とはまったく異質な世界です。短歌と俳句の間には類似したところが見いだせません。当時の岡井さんは短歌で先鋭的な実験を試みていました。引用した短歌は同じ年の1月に創作されたものです。歌の詳しい解釈はしませんが、吉本隆明さんによって短歌的な喩が解体をしていると指摘された歌も含まれています。つまり短歌の構造的な特徴が解体しているというのです。そうでありながら新たなすぐれた短歌として吉本さんは当時の岡井さんの詩的実験に目を見張っています。

 また三首目の歌は当時失語症を患っていた皇后を詠ったものではないかということで話題になりました。内容もそうですが高度なオノマトペの使用に多くの歌人が驚愕したものです。

 三人の前衛系歌人に対してその周辺にいた山中智恵子さんには、没後に刊行された『玉すだれ』という句集があります。生前に句集の形に編まれていたものですが、没後三周年目に刊行されました。俳句はすべて晩年になってから作られたものです。中期から後期にかけて連歌を作っていたことが山中さんの俳句に直接影響を与えていると思われます。しかし、短歌と俳句の世界を比較するとかなり異質です。

 ただし、素材やモチーフの点で共通するものがまったく見出されないわけではありません。

 山中さんの初期の代表歌と私の目にとまった句の中から四句引用します。


  思ひ出は双尾の蛇となりゆけり

  海の墓われをとどめよ冬鶲

  秋ふかし男を箱に入れ運ぶ

  さだ・まさし歌ふを聞けば国滅ぶ           句集『玉すだれ』2008年刊


  声しぼる蝉は背後に陰りつつ鎮石(しづし)のごとく手紙もちゆく     『紡錘』1963年刊

  行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ 

  さくらばな陽に泡立つを目守りゐるこの冥き遊星に人と生まれて

  その問ひを負へよ夕日は降ちゆき幻日のごと青旗なびく

                                          『みづかありなむ』1968年刊


 ここに引用した短歌と俳句では素材もモチーフもかけ離れています。山中さんは自分の作歌方法について「抽象という名の直接法」という言葉を使っていますが、俳句も抽象的な句を多く作っています。表現されたものだけを見ていますと短歌と俳句の違いが目に付きます。しかし、方法意識には共通したものがあるように思われます。山中さんの短歌は一般的に反写生的であると言われています。俳句も写生的な句ではありません。ただし、短歌とは表現に対する意識の置き方が違うのでしょう。短歌よりも自由に作っているように見受けられます。

 最後になりましたが私の少し上の世代で、初め短歌と俳句の両方を創作していて、後に表現主体を短歌に移した藤原龍一郎さんを紹介します。藤原さんは俳句を藤原月彦というペンネームで作っていました。月彦の俳句は「狂言綺語派」あるいは「言葉派」と言われることがあります。俳句のニューウェーブ世代として当時の「アサヒグラフ 俳句入門」にも紹介されています。そのときの文章に月彦は次のように書いています。月彦36歳のときです。


  言葉の黄金郷をめざす――私の俳句の目的はこの一言につきる。言葉に興奮し、言葉に戦慄をおぼえ、言葉に精神を鼓舞される――あるいはまた、言葉によって、魂にえもいえぬやすらぎを与えられる――そんな言葉に出逢いたいから、そして、一人でも多くの人に、私が味わったのと同じ、興奮や戦慄や鼓舞ややすらぎを感じてほしいからこそ、今も俳句をつくり続けているのだ。

                      一九八八年七月増刊「アサヒグラフ 俳句入門」より。


 この言葉には月彦の俳句に対する思い入れと、俳句表現に対する力強い決意が感受されます。

 月彦の代表句としては次のような作品があります。

 

  致死量の月光兄の蒼全裸(あおはだか)     第一句集『王権神授説』

  夏は闇母よりわれに正露丸             第二句集『貴腐』

  モハヤナニモタノマヌ雪の夢ツキテ        『魔都 第壱巻』魔界創世記篇

  紫陽花の雨の山口百恵頌              『魔都 第貳巻』魔性絢爛篇

  冬の没陽(いりひ)は大団円か転生か                同


 月彦の俳句が「狂言綺語派」あるいは「言葉派」と言われる所以が感受されるでしょうか。また句集の後書きには自己の俳句作品に対する力強い思いを語っています。


  夢と夢とのあわいのかそかな覚醒の刹那、狂気のように襲ってくる言葉の奔流。ぼくは、俳句形式というフレイの剣をとってたちむかい斬りむすんだ。その時飛び散った悪夢の破片こそがぼくの俳句作品なのである。

                        一九七五年十二月刊『王権神授説』「後記」より。


   俳壇的常識からいえば、全100巻の句集などとは、想像の埒外だろうが、この『魔都』はそんな矮小な固定観念に毒された読者を相手にする気はない。

  現在、書き継がれている大河ロマンとしては、栗本薫氏のグイン・サーガ・シリーズや半村良氏の『太陽の世界』がすぐに思い浮かぶが、『魔都』もまた、小説と俳句という形式こそちがうが、同じ志を持って書き継いで行くことを宣言する。      

                   一九八七年三月刊『魔都 第壱巻』「あとがき」より。


 しかし、藤原さんは一九八九年に第一歌集『夢みる頃を過ぎても』を刊行して以降、表現の主体を短歌に移し、表立っては藤原月彦として俳句を作っていません。

 『夢みる頃を過ぎても』から引用した短歌が次の五首です。


  言の葉をもてあそびたる罰なるや夢見る頃を過ぎてまた夢

  散華(ざんげ)とはついにかえらぬあの春の岡田有希子のことなのだろう

  原稿用紙の反古(ほご)もてつくる紙飛行機アデン・アラビアまでとどかざる

  詩にやせて思想にやせて生きたしと真赤な嘘の花ひらく宵

  とりあえず「つらき日暮」と書きてのち言葉さがせどさがせどあらず

                      一九八九年刊 第一歌集『夢みる頃を過ぎても』より。


 月彦の句と龍一郎の短歌の間に通底するものがあるとすると、それは素材の好みと語彙ではないかと思います。しかし、同じ作者が作っているわけですから、そこに共通項があったとしても別に不思議なことではありません。

 その意味では寺山さんや恂{さんの作品に見られたような、短歌と俳句の共通性は見いだせません。しかしそうかと言って岡井さんように、二つの詩型が完全にかけ離れているとも言いがたいものです。

 では山中さんの短歌と俳句の関係に近いのでしょうか。いや、そんなことはありません。山中さんにとって俳句は余技以上のものではなかったと思います。しかし藤原さんには俳句革新に対する熱意と、俳人としての自負心が強烈にありました。山中さんと藤原さんを比較することにはあまり意味がないでしょう。

 以上見てきたように、短歌と俳句は詩型の持つ機能の違いは明らかです。しかし個々の作者によってその違いに対する距離の取り方はさまざまです。

 吉本さんは「短歌の創作体験は、たぶんどこにもむすびつく契機をもたないはずである」と言われましたが、現在若い歌人たちは短歌を作りつつ、詩や俳句、小説に越境して自在に作品を作っています。そのこと自体を肯定的に捉えるか、否定的に捉えるかは個人の価値観、文学観に委ねられると思います。私はその点を肯定的に捉えますが、自分も含めて、彼らの短歌創作がどのように他ジャンルに影響を与えているのかは、これから精査していく必要があると思います。

 また、その中でも特に兄弟詩型である短歌と俳句の関係性は詳細な分析が希求されるでしょう。これからの課題はまだまだたくさんあると思います。


 芭蕉会議の集いでは時間の制約がある中で、一度に多くのことをお話ししようとして、少し難しい話題になったかもしれません。ここに書いたのはお話しした内容をまとめつつ必要最低限の言葉を補ったものです。この文章をお読みになって何か疑問な点、ご質問がございましたら「白山問答」にお書き下さい。お答え致します。ご一緒に短歌と俳句について考えていきましょう。