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論文を読む会議事録
このシンポジウムの論点
―堀切実先生の発言に沿って―
安居正浩

 論点を私なりに整理してみると、概ね次の三点である。
1.現在の俳句をどう考えているか
2.今後俳句はどうあればいいのか
3.不易流行とはなにか
  観念的な実作論や不易流行に正面から向き合っていないパネラーのいる中で、堀切実先生の意見が具体的で、私には一番納得できた。上記の論点にしたがって、以下に堀切実先生の意見を順にまとめてみた。

1.現在の俳句をどう考えているかについての発言
  日本の詩歌の歴史は、題詠と実感・実情とのせめぎ合いの中で続いて来た。芭蕉の作品にもそのせめぎ合いがあった。ところが、近代においては子規以後、写生一辺倒になり現代俳人は歳時記はあまり使わない。歳時記の題の本意よりも、つまり伝統的な詩情よりも、自分の実感・写生を優先させている。

2.今後俳句はどうあればいいのかについての発言
  題と実感・実情、その両者のせめぎ合いの復活が、現代俳句を刺激すると思う。季語、あるいは題のことばというものは長い伝統の重みをもっていて、深い意味の膨らみを持っているわけで、その膨らみを活かさない法はない。短詩型においては写生と伝統的詩情と、その両方が必要であろう。

3.不易流行とはについての発言
  題を不易、実感・実情を流行とみることができる。不易は伝統的詩情、流行は写生である。芭蕉は、不易と流行は本質的に表裏一体のものと考えていた。自然も人生も、変わらないものとしての永遠の相と、どんどん変わっていく流転の相とを持っている。不易流行観というのは一種の世界観として発想されているのだ。不易流行は芭蕉の発明したものではなく、考え方としては伝統的なものである。世界観としての不易流行、文学表現の方法論としての不易流行を、芭蕉は統合して「風雅の誠」という。そうすると、不易も流行も究極的には一つとなる。芭蕉の「高悟帰俗」は、俗が流行で、「心を悟る」の心は不易である。

4.まとめ
  シンポジウムでの堀切氏の意見に対する私の理解は以下の通り。
  今回、芭蕉会議のおける議論の中で、堀切氏の論への賛成は少なかった。
  その理由の一つは堀切氏が、「題」は「不易」であると説いたためである。これは、堀切氏が今回のシンポジウムで、意見を単純化するために「題」=「不易」と強調しすぎたことに原因があるのではないだろうか。しかし、ここで言われる「題」とは、その中に伝統的に存在する、ある変わらない「本意」の部分であり、これを不易の一つと考えることには無理がないのではなかろうか。堀切論の全体を読めば、氏は「題」は「不易」であるとは言っているが、「不易」が「題」であるとは言っていないはずだ。
  二つ目の理由は、堀切氏が不易も流行も一つと言いながら、一方で題が「不易」、実感・実情が「流行」と区分けしているという判断による。これについては、まず変わらないものとしての「不易」、流れゆくものとしての「流行」が存在する。「変わらないもの」を具体的に何かというと「題の本意」「伝統的詩情」「心」(以上堀切発言)、「五七五」「季語」(以上川本発言)、「流れゆくもの」を具体的に言うと「実感・実情」「写生」「俗」(以上堀切発言)、「字余り」「自由律」「本情」(以上川本発言)である。だから言葉や内容面では不易と流行は基本的には独立して存在する。しかし堀切氏が芭蕉の「風雅の誠」「高悟帰俗」で説明したように、世界観・文学論としては表裏一体のものとして考えるという理解でいいのではないかと私は考えた。
  以上述べたように、堀切氏の見解は具体的でわかりやすく、特に「題」と「実感・実情」のせめぎあいの中で実作する、という考え方に大いに共感した。