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論文を読む会議事録 |
このシンポジウムの本題である「不易流行とは何か」について、夏石先生は、川本先生が、俳句に関する基本的な問題として不易流行論を提示しているが、もう一つの問題意識として、今、俳句の置かれている状況に対する処方箋みたいなものとして、不易流行論を提示したのではないかと受け取っている。そして、自らの体験を通じて、(現在、大学で俳句を教えている)学生達の詠む句の言葉が非常に古臭いことを指摘し、これは俳句的な情緒なるものを想定して臨む結果ではないかと言う。つまり不易流行の不易の方、普遍の方、伝統性の方に偏りすぎて、俳句が現在の文学であることが考えにくくなっているのではないかと主張する。テレビ、新聞等の俳句に関する論調も、古臭くする方向を維持しようとする言説が多いと考えておられる。
そして、芭蕉を僧侶みたいな格好の、年老いた旅人のようにイメージする人が多いが、彼は「古池や蛙飛びこむ水の音」は和歌以来の鳴く蛙という伝統を、「飛びこむ」という通俗的で現実的な様子でとらえ直した、きわめて大胆、前衛的な詩人であるという。水豊かな自然に育った蛙が、この句において飛躍力・生命力あるものとして描かれたのは、この前衛的な意識によるのである、とも言う。
また、夏石先生は、日本語で詠む俳句が江戸時代の日本語で書かれていることを、非常に古臭く思うと感想を述べられ、英訳するとそれが実感されるとも言われる。俳句は今およそ五〇ケ国以上で愛好されているのに、本家である日本が後ろ向きで古臭く、自閉症的で、マンネリズムに陥っているのは寂しいとも言う。
さらに、あれほど大きな理想を掲げていた正岡子規であるのに、子規が亡くなった後の俳句史が、写生とか有季定型とか、非常に部分的なことしか言及して来なかったのは間違いで、子規の理想の実現にむけて、まだやらねばならないことがたくさんあると考えておいでのようであった。
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