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若竹や驚きやすき鹿の耳
wakatake
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写真提供:箱崎秀夫(フリーカメラマン)

■200606_01
海紅 2006/06/01-16:47 No.[38]----------------------------------------

若竹や驚きやすき鹿の耳


大江ひさこ 2006/06/02-07:44 No.[39]----------------------------------------

さやさやと鳴る竹の若葉。その音を敏捷にとらえる鹿の小さな耳。鹿の耳って意外なほど後ろを向いていて音の聴き方の様子が臆病そうにも、落ち着きのなさそうにも見えるので「驚きやすき」が効いていてさっと緑の風が吹き抜けるような句だと感じます。鹿といえば秋の季語。鹿の声、とすればより秋の風情とされるようですが、鹿の耳なら秋の季を避けられると考えられるのか、季は重なっていてもよいと捉えるなら句づくりは工夫次第で広がっていくように思います。どなたかご感想、ご教授、をお願いします。


久保寺勇造 2006/06/02-14:31 No.[40]----------------------------------------

この時期シカの雄は10頭ほどの群れをつくります
メスと子と若いオスの群れは雄の集団とは別行動をとります。好奇心ある若いオスが作者とそう遠くないところに対峙した事でしょう。リアルです。作者の優しい眼差し観察力は爽やかに伝わって来ます。


三木喜美 2006/06/03-16:04 No.[41]----------------------------------------

大江さんのコメントも加わって、鮮やかな緑としなやかな鹿の姿と、繊細な音の世界が広がり、映画のワンシーンの様な情景が浮かびました。こんなすばらしい俳句は目にするだけで爽やかな心地になれます。


小出富子 2006/06/05-15:25 No.[42]----------------------------------------

「若竹」と「驚きやすき鹿」を対照させているように思われる。
親の庇護から離れた若き鹿が、危険から身を守る為には、耳に全神経を集中させている事で有ろう


三木喜美 2006/06/05-17:32 No.[43]----------------------------------------

追伸 鹿の存在についてですが、まっすぐに伸びた若竹と細く凛とした若い鹿とその耳は何かとても似合っていて、むしろ鹿であるからこそこの句が情景的に描かれてくるように思うのですが。季語の事は良くわかりません。生意気ですが感想を、述べさせていただきました。紅葉と鹿は去年奈良で見ましたが、若竹と鹿も素敵だなとこの句で発見しました。


渡部陽子 2006/06/12-13:38 No.[45]----------------------------------------

季語のことで参考になる文献を見つけました。
神田秀雄「太祇発句管見」
○おもはゆく鵜(秋)なくなり蚊帳(夏)の外(太祇)
秋の鵜の句だが、夏の蚊帳の句と仕立てることも可能。
○あと追うてわめきくる也橋の月(太祇)
という句は月だから秋に入れられるが、
橋落ちて人岸にあり夏の月(太祇)
掃き流す橋の埃や夏の月(〃)
寒月や我ひとりゆく橋の音(〃)
のごとく、太祇は夏も冬も「橋の月」を眺めている。

この二つのことから、考えていけそうな気がします。
私は、季語が若竹、太祇の句の橋にあたるのが鹿だと思って鑑賞しています。皆様のお考えをお聞かせください。

  



椎名美知子 2006/06/12-21:19 No.[46]----------------------------------------

私も若草山で出会った俊敏な鹿たちの思い出しました。
この句からうける鋭敏さ、危うさと脆さは青春の姿に似ているのでは。周りの情報には鋭く反応し、まだ自己を
確立することができず、折れやすい若竹(青?少年)たち。鹿の耳を持っているのは若竹たちでは・・・。
句から初夏の清々しさを感じながら、情景描写にとどまらない何か、若竹と鹿が交錯して、青春の光と影を、ちょっぴり切なく感じてしまいました。



濱田惟代 2006/06/13-11:49 No.[47]----------------------------------------

若竹と若竹に相応しい若い鹿を詠んだと思われます。この句はさわやかな日本画を見るような印象を与えてくれます。鹿を見て作者は驚かさないようにそっと気遣っていたはずなのに鹿はすばやく人の気配をえキャッチしてしまいます。動物の鋭い五感に驚き其れを詠まれたのではないでしょうか。鹿は秋の季語ということですが固い季語にとらわれず自由に俳句を詠むべきというお考えではないかと勝手に推量しております。


濱田惟代 2006/06/13-21:07 No.[48]----------------------------------------

若竹とおそらく若い鹿の取り合わせは一幅の日本画のようです。作者は鹿に気付かれないようにそっと見ていたカも知れません。しかし、敏感な鹿は耳を動かしてあたりの雰囲気をキャッチしてしまいます。人間よりも五感の鋭い鹿に驚かれ詠まれたのではないでしょうか。鹿は秋の季語だそうですが堅苦しい季語にとらわれず何時でも自由に詠もうというお考えかと推察しております。


椎名美知子 2006/06/15-19:11 No.[49]----------------------------------------

書き込みをしてから、深読みよねえ、机上の理屈よねえ、と自問自答。それから東山魁夷の絵に靄(もや)に煙る林の中にすっと立っている鹿(もしかしたら記憶違いかもしれませんが)を思い出しました。あの鹿は描かれたものだけど、物音でもしようものなら、次の瞬間消えてしまっているに違いない・・・と。
俳句を感覚でとらえることが出来ても言葉で感想を書くことで難しいですね。



小出富子 2006/06/22-16:14 No.[50]----------------------------------------

若竹は春の季語,鹿は秋の季語、作者は、「季語が重なっていてもあまり気にしなくても良い」と句会で話される。ただ、この句には、若竹には節が有り,鹿の角にも節があるので、若竹と鹿を縁語として詠まれたのでは,鹿でなくてはならないとして詠まれたのか,心の中にいる美しい姿の鹿を詠まれたのか。

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