■いろんな第二芸術論を捜しています
山房の海紅 2009/05/13-14:02 No.[6362]----------------------------------------
過日の論文を読む会で、第二芸術論についても話が盛り上がりました。但し、シンポシオン(酒肴のある風景)でしたので、例えば江田さん紹介の小林秀雄の第二芸術論その他を正確に頭に詰め込むことができませんでした。御教示いただければありがたし。その他、どんな人の第二芸術論でも構いませんので、ご存じの人は教えてください。共有財産にして、皆さんに還元したいと思います。
余談ですが、不勉強を棚に上げて、ことし「安吾の第二芸術論」という題で講話するよう、学内の講座に求められています。60点(最低合格点)を目指して、準備は少しも進みません。呵呵
伊藤無迅 2009/05/13-14:04 No.[6363]----------------------------------------
過日の「論文を読む会」は有難うございました。
小生が今回参考にしたもの/読んだ主なものを以下列挙いたします。
・赤城さかえ『赤城さかえ全集』「戦後俳句論争史」青磁社(1988/11)
・小田切秀雄『小田切秀雄全集第二巻戦後批評の出発』勉誠出版(2000/11)
・松岡潔『現代俳句評論史』角川書店(H17/3)
・三枝昂之『昭和短歌の精神史』本阿弥書店(H17/7)
また、いわゆる広義の「第二芸術論」での短歌攻撃は激烈なものがあったようで臼井吉見、小田切秀雄などが猛烈に短歌を攻撃したようです。今回は俳句が主でしたのであまり読みませんでしたが、釈超空、斉藤茂吉の痛ましい講演内容は読んでいて心が痛みました。
なお、一昨年アンケートを行った際に俳人瓜生鐵二さんから、
・孝橋謙二編『現代俳句の為に−第二芸術論への反撃−』
を紹介され、だいぶ探したのですが入手できませんでした。
(戦後間もなくのだいぶ紙質の悪い印刷物とのことでした。)
また、その手紙には瓜生さんが40年前、早稲田在学中に稲垣達郎先生の師事のもと「第二芸術論について」という論文をまとめており、懐かしく思いその際その論文を家捜ししたらしいのですが、残念ながら見つかりませんでしたと書いてありました。
以上取り敢えず、列挙させてもらいました。
安居 2009/05/13-14:04 No.[6364]----------------------------------------
無迅さんの探している
孝橋謙二編『現代俳句の為に−第二芸術論への反撃−』
は国会図書館にあります。
内容は
住復書簡(山口誓子) 教授病(中村草田男) 文学の一世界(中村草田男) 手近の更に手近の問題(中村草田男) 「第二芸術」論に答へる(西東三鬼) 現代俳句は第二芸術か(潁原退蔵) 現代生活と俳句(潁原退蔵) 俳句と芸(潁原退蔵) 俳句といふもの(日野草城) 俳句の命脈(山口誓子) 俳句は生き得るか(加藤楸邨) 俳句人の道(東剣三) 俳句否定論に対す(富沢赤黄男) 「第二芸術論」以後(栗林農夫) 俳句作家の立場から(三谷昭) 最短詩型の生構造(高屋窓秋) 俳句は近代詩である(孝橋謙二)
伊藤無迅 2009/05/13-14:05 No.[6366]----------------------------------------
安居さんどうも有難うございます。
赤城さかえ全集は、孝橋謙二のこの本をだいぶ取り込んでいましたのである程度は予想がついてましたが、安居さんの内容表記を見ますと、いずれもリアルタイムの匂いがぷんぷんですね。草田男のものは草田男全集で、だいたい読みましたので潁原退蔵のものを、是非読みたいです。
江田浩司 2009/05/13-14:05 No.[6367]----------------------------------------
谷地先生
ご返事が遅くなり申し訳ありません。
先日お話ししたのは次の二冊の本に関してです。
一冊目は吉本隆明の『日本語のゆくえ』で、この本の第一章 「芸術言語論の入り口」に、(「第二芸術論」をめぐって)という部分があり、桑原武夫と小林秀雄が第二芸術論」をめぐって論争をしたことが紹介されています。吉本は桑原が芸術の価値の根幹をなす「自己表出」(小林の言葉では芭蕉の魂)のことをまったく考慮しないで、「指示表出」(コミュニケーションのための言葉)だけに注目していることの欠点を指摘しています。
吉本の理論はマルクスの使用価値と交換価値を自己表出と指示表出に対応させているもので、要するに指示表出は交換可能な価値に過ぎないことを言っています。
もちろんこの二つのものは分けることはできないのですが、あくまでも自己表出こそが芸術の本質であるというものです。
この問題は吉本の主著である『言語にとって美とは何か』に詳しい分析がなされていますがこれはとても難解な本です。
その点『日本語のゆくえ』はわかりやすく解説された本なので手に取りやすいと思います。この本は東工大の講義として発表されたものを本にしたものです。
そして、もう一冊は岡井隆の『短歌この騒がしき詩型 「第二芸術論への最終駁論』です。この本は短歌から見た第二芸術論への分析と反論が書かれています。桑原の「第二芸術論」や、小野十三郎の「奴隷の韻律」などが取り上げられています。
ちなみに、小野十三郎は東洋大学出身の詩人です。
読み物としてもなかなか面白い本なのでよろしかったら読んでみてください。
また何かありましたらお知らせいたします。
江田浩司 2009/05/13-14:05 No.[6368]----------------------------------------
追記
先ほどご紹介した吉本隆明の『日本語のゆくえ』は万来舎の「短歌の庫」の48、49回で取り上げております。よろしかったらご笑覧ください。
芭蕉会議にリンクを貼って頂いておりますので、そちらから見ることができます。ただし、かなり批判的に取り上げた文章で、やや読みにくいかもしれません。
谷地元瑛子 2009/05/13-14:06 No.[6370]----------------------------------------
The Link to your work: March / April 2009 Sketchbook
世界の人と句を巻く連句人として久女を英語圏に紹介しています。
連載5回が先日on-lineとなりました。
ご批評いただければうれしく存じます。
content(目次)をスクロールするとHisajo in the light of English Haikai Movement
の項があり、クリックで記事に到達します。
本当に簡単に第二芸術論を紹介しました。
千年 2009/05/29-23:13 No.[6372]----------------------------------------
安居さんから以下の安吾の第二芸術論を論じた文章(エッセイ?批評文?)を頂戴しました。
芸術論争に「古い」ものはなく、いつも根っこの大事なところを思い出させてくれる・・・
「変革」の素材としての第二芸術論、これから海紅先生の講演も踏まえ、白山問答で深めていきたいでね・・・
第二芸術論について
坂口安吾
こちら
近ごろ青年諸君からよく質問をうけることは俳句や短歌は芸術ですかといふことだ。私は桑原武夫氏の「第二芸術論」を読んでゐないから、俳句や短歌が第二芸術だといふ意味、第二芸術とは何のことやら、一向に見当がつかない。第一芸術、第二芸術、あたりまへの考へ方から、見当のつきかねる分類で、一流の作品とか二流の芸術品とかいふ出来栄えの上のことなら分るが、芸術に第一とか第二とかいふ、便利な、いかにも有りさうな言葉のやうだが、実際そんな分類のなりたつわけが分らない言葉のやうに思はれる。・・・・・
底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「詩学 第四号」岩波書店
1947(昭和22)年12月30日発行
初出:「詩学 第四号」岩波書店
1947(昭和22)年12月30日発行
入力:tatsuki
校正:oterudon
2007年7月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(こちら)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
(注)「こちら」をクリックしてください。安吾の全文が出ます。
千年 2009/06/03-12:06 No.[6373]----------------------------------------
桑原武夫「第二芸術論」は雑誌「世界」に掲載された後、岩波文庫(絶版)、講談社学術文庫(品切れ)で流通していたようですが、昨日神保町の岩波ブックセンター「信山社」をかわきりに、明治大脇の「文庫の川村」等々2時間ほど、探してみましたが、ありませんでした。桑原氏の著作自体も見かけることができませんでした。桑原氏は俳句も詠んでいた・・といった文章をどこかで読んだような記憶も甦ってきました。副産物で栗山理一「芭蕉の俳諧美論」を獲得できました。
さて、今「寺田寅彦の連句の世界」(古川書房)の著作もある宇和川匠助・元高知大学教授の「野ざらし紀行の解釈と評論」(桜楓社)を読んでいますが、そこに桑原武夫の芭蕉の句に対する鑑賞(「芭蕉について」1947年)が批判的にとりあげられています。
「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」に対して「桑原武夫氏は茶の烟は、同じ杜牧の「酔後題僧院」の詩句、<茶烟軽(次の文字は風に場の右部分・あがると読むか。文字化けで表示できず)落花風>を引用したものとして、芭蕉の作はテ二ヲハ以外の文字はすべて漢詩と全く同じだといっているが、これは作品の場をすべて捨象した、偏向的解釈である。」と断じています。桑原氏は<俳句の取材範囲は自然現象及び自然の変化に影響される生活である>と規定しているようですが、この発言とあわせ、大昔に読んだ「第二芸術論」は、好意的に見れば、あえて偏向性を桑原氏が自覚して書いた論といえるのかなと思いました。
江田さんの書かれている「自己表出」(芭蕉の魂)を考慮しないということが偏向的解釈になっているといってもいい。
山口素堂は馬に寝ての句を<さよの中山の馬上の吟、茶の烟の朝げしき、麓に夢をおひて、葉の落る時驚きけん詩人の心をうつせるや>といっています。
なお、この句は「馬上眠からんとして残夢残月茶の煙」「馬上落ちんとして残夢残月茶の烟」が初安で「馬に寝て残夢残月茶の煙(三冊子)」と再案したのを中七の残夢残月が<句に拍子あってよからず>として芭蕉は直したようです。拍子あってよからず・・・この言葉は深いですね。
千年 2009/06/04-23:04 No.[6374]----------------------------------------
上記、桑原武夫(1904年生)の俳句の規定は、「第二芸術」にでてくる秋桜子の論でした。訂正します。この論に対し、桑原は「極めて正しい」とし、俳句の描かんとするものは「植物的生」であると言っています。「芸術」とはいってもらいたくないということのようです。
「第二芸術」が発表された同じ1946年に安吾(1906年生)の「堕落論」が「新潮」から出ていたことを今日改めて発見。(小林秀雄は1902年生)
以下引用
「桑原武夫先生の戦争中のフランス文学論と、戦後の「第二芸術」や「文学入門」とは、いくつかの点で微妙にくいちがうところがある。先生は敗戦後しばらく、意に反してとまではいわぬが、戦闘的啓蒙主義者の役割をひきうけすぎざるをえなかったのではないか」飛鳥井雅道(「桑原武夫集」第1巻(岩波書店、1980年)の月報1より)
「「第二芸術論」は坂口安吾の「堕落論」とともに、爽々とした戦後の風を今日にまで吹きこむものである」多田道太郎(「第二芸術」桑原武夫 講談社学術文庫(1976年初版 93年17刷より)の解説)
「私は先ず桑原氏の「第二芸術」論に認識の不足から来る独断がありはしないかを恐れたが、遺憾ながら私の推察は当つてゐた点が多い。然し氏のこの論は不備であり早計な論ではあつても、我々現代俳句を革新してゆこうと努力しているものには、大きな刺激となり今以上に力を尽す決心を高めさせた。これは俳句を一撃の下に抹殺しやうとした氏の企図の反対の結果を来すことになるだらう」西東三鬼(1900年生)(昭22・4「現代俳句」−第二芸術」論に答へる)
「詩人といい、また書くとき、文芸理論的にではないが、つとにそのことばを支えるものがあった。学生時代に萩原朔太郎(1886年生)を知ったおかげである」桑原武夫(「四季」1942年)
「短詩形文学の隆盛についての私の見込み違いは、大きな問題をはらんでいるにちがいない。私は「第二芸術」と呼んで批判したが、しかし、第二芸術であればこそ衰退はありえないわけである。ここでおそらく鶴見俊輔氏のいわゆる「限界芸術」(しろうとが作り、しろうと自身が享受する芸術)の見地からの考察がなされなければならないであろう。・・・」桑原武夫(「桑原武夫集」2の自跋より 1980年)
千年 2009/06/05-13:14 No.[6375]----------------------------------------
桑原氏の「人文科学委員会」での講演「文学における伝統」より(1947年)。
「・・・フランス文学の伝統の著しいものの一つであるクラルテ(clarte-明晰性)の歴史を顧みて、私の注意をひかれたことは、(1)それが近代になって生れた伝統であり、(2)合理主義ないし論理学と結びついたレトリックによって維持されており、(3)尚古思想と絶縁し、進歩的思想に支えられており、(4)否定の契機を含みつつ発展したものであり、(5)ベルグソンもいうように、デモクラチックな美徳であり、また新思想や科学と矛盾せず、これを摂取して発展しうるところのものだということである。
ところで、わが国において、日本文学の伝統といわれるとき、われわれが以上のべたフランス文学のそれと対比的に考えられることは、(1)明治以前の伝統は、個我の自覚を伴わぬ近代以前のものであり、明治に入ってからも、日本的伝統はまだ真に近代との対決をへておらず、(2)その内容とされるものは、「わび」のごときにせよ、情緒性といわれるものにせよ、合理的精神と容易に結びつかず、むしろこれを排除したところに成立するようなものが多く、(3)つねに尚古主義が強く、(4)明治まで人麿や芭蕉を否定するような立言がほとんど見られぬことをもって知れるように、否定の契機をふくまず、ただ一般に伝承されたところが強く、(5)そこには新思想や科学を受けいれ、近代生活に適合するような要素がすくないことである。・・・偏狂な国家主義におちいることはあっても、世界に連なる道とはなりえぬ危険をふくむところもものである・・」
無迅さんのいわれた否定者としての子規と桑原。子規の連句非文学論に相通ずるものがありますね。
しかし、個我の自覚を伴わない詩(和歌、連句、発句)があるのか。「合理的精神と容易に結びつかず」といいますが、連句は宇宙的合理的精神、論理学と結びついたレトリックであるといいたいですね。「否定の契機」などは蕉風に至る俳諧の変革の流れだし、ミクロなところでは連句実作の不連続の連続手法、「デモクラチックな美徳」を連句ほど持つものはないし、「新思想や科学と矛盾せず、これを摂取する」方法論は科学者・寺田寅彦がその連句批評で実践したように思っています。
千年 2009/06/13-06:47 No.[6376]----------------------------------------
昨日の海紅先生の講演「安吾と第二芸術論」(主催・東洋大学生涯学習センター「坂口安吾と現代」3回)の質問時間で、安吾の詩魂とは何かという問いに対して、先生はその答えになっていないがと断りつつ、「教祖の文学」をとりあげ、安吾の本質を突いて来る小気味よさ、また「心が五七五のなかに見えてこなきゃこまる」と対応。
講演では「西洋詩の「あゝ」を俳句では十七音に開いて表現する」といった言葉が印象的でした。
7月11日(土)に今回の話題の発端の一つでもある無迅さんの論文の講演があるそうです。
無迅 2009/07/14-01:09 No.[6377]----------------------------------------
7月11日東洋大学の学内学会で第二芸術に関連する発表をする機会がありましたので、本コーナーへの話題を喚起する意味で書き込みします。発表時間が25分と短いため、子規と桑原武夫の各々の俳句革新(桑原の場合は厳密には革新ではなく否定論ですが)の共通点と相違点を中心に話しました。共通点は@時代精神、A資質、B文学への姿勢で、各々「我が国伝統文化を否定する/しなければならない時代精神」、「近代ブルジョア的合理精神の持ち主」、「国民の精神構造を如何に変えるか」を上げました。
また相違点は@俳句に対する姿勢、A文学の近代化方法の2点で、各々「俳句を認める(子規)、認めない(桑原)」、「詩型皮袋論(子規→詩型こそギリギリの和魂)、西洋文学模倣論(桑原→模倣から始めよ)。
以上が主論点でしたが、勢い余ってその後、「和魂」に深入りし過ぎ、上記論点を曖昧にしてしまいました。
→「和魂」(というより「文学の無機質化傾向」)は、小生の今後の研究テーマにしたいと考えていたので、つい触れてしまったのですが、やはり立論に無理がありました。
→ なぜこのテーマに、こだわっているかと申しますと、一応、昭和40年代に終息した「第二芸術」論ですが、その後40年を経た今、あのときの論争は忘れ去られ、子規の憂慮していた状況に戻ってはいないか、という思いからです。
→ 桑原が描いていた西洋は、「第二芸術」発表後、実に60年を経て、俳句を抹殺しなくとも着実に日本人が欧風化(精神面)し実現されている。
→ その意味で過日の穂村さんのお話は充分刺激的でした。
→ 11日懇親会パーティーで神田先生とお話をした際に、@文学と思想は分けたほうが良い(これは立論の上からと言う意味と思いますが)、A近代化(多分明治と戦後の)の方向は正しかったという結論は出ている。という趣旨のお話を戴きました。桑原のその後の思想的な変遷を見ることで、当の桑原がこのAをどう考えていたのかを調べてゆきたいと思います。
→ またそのパーティーで村上春樹の名が出ていました。(小生は未だ数冊しか読んでいませんが、春樹の小説というか、良さがよく分らないその程度の者ですが)日本の文壇はすでに世界をリードするレベルにあるのでしょうか。この辺も知りたいところです。
千年 2009/07/29-17:12 No.[6378]----------------------------------------
高橋義孝『文学非芸術論』(昭和47 新潮社)という本があることを竹内清己他編著『概説日本文学文化』(おうふう)で知りましたが、どなたか読まれたことありますか。鶴見俊輔の『限界芸術論』(桑原が晩年第二芸術論の発展形として引用)等と同じ並びで引用(『概説日本文学文化』第13章「芸術文化の連関」の項)されていましたので気になったので。図書館で探索中です。
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