日時 平成19年3月18日(日)
吟行 上野・池之端・本郷・千駄木
場所 甫水会館
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句会の記録 安居正浩
十時三十分に上野の東京文化会館の前に集合し吟行スタート。まず不忍池へ。鴨や鳩に混じり一番元気なのが都鳥でした。次は横山大観記念館、大観が九十歳まで絵を書いていた住居です。作品も多くはありませんが展示されています。旧岩崎邸では、あまりの立派さにみんな時間を忘れて見とれてしまい、幹事さんをいらいらさせました。あとは三四郎池、樋口一葉桜木の宿などを回り、元気な人は徒歩で、疲れた人はタクシーで甫水会館へ。
永年お世話になった菴谷さんの「やすらぎ」閉店の慰労会も兼ねた会のため参加人員も多く、にぎやかな句会となりました。 |
谷地海紅選
三四郎池の柳も芽吹き初め |
佳子 |
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春陰や質屋の裏のコニャック瓶 |
無迅 |
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寒きものと子規も詠みたり入彼岸 |
ちちろ |
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春灯す洋館にゐて落ち着かず |
ひろし |
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一陣の風が芽柳梳る |
正浩 |
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春寒や庖丁塚の先尖り |
ひろし |
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大観の愛せし上野柳萌え |
富子 |
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互選結果
春寒や庖丁塚の先尖り |
ひろし |
11 |
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春灯す洋館にゐて落ち着かず |
ひろし |
6 |
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春寒し一葉館の古時計 |
惟代 |
6 |
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背の低き江戸の庫裏ゆく春の風 |
文子 |
5 |
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「三四郎」と呼びかけている青柳 |
美知子 |
5 |
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春陰や質屋の裏のコニャック瓶 |
無迅 |
4 |
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寒きものと子規も詠みたり入彼岸 |
ちちろ |
4 |
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青柳の三四郎池に影ゆれる |
喜美子 |
4 |
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赤門の春風ならば通しけり |
正浩 |
4 |
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奥庭に春の日差しを集めけり |
久子 |
4 |
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石抱いて眠れる亀やあたたかし |
海紅 |
4 |
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春の風恋の痕跡あるベンチ |
巧 |
3 |
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春の土踏んで心をきらめかす |
正浩 |
3 |
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一陣の風が芽柳梳る |
正浩 |
3 |
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桜冷え都鳥とはアアと啼く |
海紅 |
3 |
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春寒しレンガの苔や無縁坂 |
光江 |
3 |
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諸葛菜華族の如く風に揺れ |
ちちろ |
2 |
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ダヴィンチのポスター上野を春めかし |
月子 |
2 |
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盛衰は桜のごとし無縁坂 |
美規夫 |
2 |
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団子坂明治の春を憶ひけり |
実 |
2 |
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吟行は坂多き町花疲れ |
巧 |
2 |
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子規の碑にとつぜん吹くや春ほこり |
月子 |
2 |
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啄木の「そ」は何処にや春の山 |
宏通 |
2 |
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春浅し二十四年の略年譜 |
久子 |
2 |
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芽柳の風吹く籠の中の鳥 |
文子 |
2 |
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人住まぬ洋館一つ桜冷え |
海紅 |
2 |
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大観の愛せし上野柳萌え |
富子 |
2 |
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唐破風の赤門の屋根寒椿 |
惟代 |
2 |
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「三四郎それから門」に辛夷咲く |
宏通 |
2 |
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ショカツサイ恥らふ如く風にゆれ |
喜美 |
2 |
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春疾風とぶ砂に耐へ弓をひく |
由美 |
2 |
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雁帰る古里離れ半世紀 |
宏通 |
2 |
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料峭や安全靴の底光る |
無迅 |
1 |
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三四郎池の柳も芽吹き初め |
佳子 |
1 |
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吟行の列の乱れて春の道 |
美規夫 |
1 |
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ベランダの足裏にやさし春日影 |
実 |
1 |
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春の湖ナポレオンハットの鴨漂ふ |
美智子 |
1 |
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風のまま芽柳うつる池の波 |
光江 |
1 |
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岩崎邸白い列柱春陽受け |
佳子 |
1 |
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開花とか空(くう)を捜して歩きけり |
喜美子 |
1 |
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梅散るや大観邸の庭狭し |
林書 |
1 |
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鴎外を再読したし辛夷咲く |
巧 |
1 |
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風波に流るゝまゝの春の鴨 |
ちちろ |
1 |
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慰労会もあるので、句会の時間は余りとれませんでしたが、平岡佳子さんの「三四郎池の柳も芽吹き初め」について先生から作為のない素直さが貴重との評があり、自分の句を見直すアドバイスとなりました。 |
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参加者:
海紅、奥山美規夫、竹内林書、根本文子、尾崎喜美子、尾崎弘三、吉田久子、平岡佳子、伊藤無迅、千葉ちちろ、大江月子、梅田ひろし、小出富子、三木喜美、中村美智子、松村実、浜田惟代、市川浩司、椎名美知子、金井巧、西野由美、青柳光江、菅原宏通、安居正浩
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春の怒濤 奥山酔朴
千駄木の団子坂から一つの灯が消えた。「やすらぎ」というお店の灯である。夫婦手を携え歩んだ二〇年だったが、去年ご主人が倒れて介護が必要となり、閉店を決意したという。はじめてこの店に行ったのはいつだったろうか。この日の集合場所である上野公園口を流れる人波を目で追いながら考えるが、飲んで騒いだ興奮は遠い記憶となって、詳しくは思い出せない。店じまいすると聞いた時、十年以上になるであろうこの店との付き合いについて、壊れゆくものを惜しむような思いに襲われ、どうしても記念句会を設定したくなった。白山会、学友会活動の折々、都合よく御世話になってきたからだ。それは、崩れては消え、生まれては崩れる大海の波のように、絶えることなく刻まれた歴史である。そこばくの感傷があるのはむしろ自然と言ってよいだろう。
さて吟行は、動物園、博物館、美術館へゆく人の流れをそれて、正岡子規記念球場傍に最近建てられた子規句碑を見る。子規がまだ病床とは無縁な健康体の頃、野球を楽しんだ所である。かれは「野球」という訳語を考えた功労者として、最近野球界殿堂入りを果たしている。
子規の碑にとつぜん吹くや春ほこり 月子
子規が地下の永遠の眠りから覚めたかのような、悪戯っぽい風が一陣吹きすぎた。
咲き初めた桜を仰ぎつつ、ゆっくりと不忍池へ降りていく。茶店かなりや亭の傍らに西条八十の「かなりや」の碑がある。「うたをわすれたかなりや」とは、失いかけた詩心を八十みずから問うものであるという。裕福な家庭で育ったものの、放蕩な兄が財産を使い尽くしたために生活難を余儀なくされ、翻訳の仕事場にしていたアパート、上野倶楽部がこの辺だったという。「かなりや」は西条の生涯を方向付る記念すべきつぶやきだったのである。
弁天堂を抜けていく。風雨に晒されて読めない芭蕉の句碑、芸術の神で弁天を頼みとする検校塚、そして包丁塚、ときに風景を乱すとも思える石碑が、狭い境内に乱立している。梅田氏はそれを見逃さずに、
春寒や庖丁塚の先尖り ひろし
と詠んだ。かつて、ここは万博博覧会が開催され、競馬場があり、はじめての駅伝のゴール地点でもあった。東京の賑やかさの中心地であった面影があちこちに残っている。
春の風恋の痕跡あるベンチ 巧
隣を歩くKさんが「昔はアオカンが若者の特権だった」といえば、さらに若いご婦人「アオカン」って何ですかと問い返す。戦後のがむしゃらで、逞しい生命力を思わせる風物詩も死語である。
池を渡れば横山大観記念館。大観が明治四十二年から住み始め、知名度が高まるにつれ増築して現在の姿になった。彼は一時岡倉天心と共に、美術界に反旗を翻し、水戸っぽらしい一面をのぞかせた。無類の風呂好きで、一番風呂を何よりも楽しみとし、銭湯で既に待ち客がいると、入らずに帰ってきたという偏屈な一面も持ち合わせていた。こうしたこだわりも芸術家らしい一面であろうか。
一方、時の運に恵まれ、政府の要人との繋がりを持ち、一代で江戸時代からの豪商を凌ぐ富を築いた三菱財閥岩崎弥太郎。彼は三井系との商戦の重ねる半ばで病死した。
盛衰は桜のごとし無縁坂 美規夫
天下をきわめた人生も、下る時は早い。富にも芸にも縁がないが、せめて一歩一歩を確かに歩もうなどと思いながら、無縁坂を上る。江戸時代は榊原康政、明治となり桐野利秋が住み、西郷と共に下野して、その後に岩崎が住んだ。森鴎外の「雁」の舞台である。彼らは限りある命の中で、限りのない欲望をどれだけ充たすことができたのであろうか。
三四郎池は武家屋敷らしい池である。そこをめぐって、桜木の宿といわれた樋口一葉の住居を訪う。彼女がまだ恵まれていた時代の住居跡である。目の前の寺が小さな資料館となっている。本来予約制であるが、厚意によって見学させていただく。
かつて一葉の終焉までの転居先を訪ね歩いたことがある。彼女の背負った宿命がひしひしと伝わってきた。何かをしたい為に何かが犠牲になる。あたかも南極と北極が引っ張り合いするような緊張感。一葉が志を捨てて、生活を第一にしたならば、また違った人生があったのであろうが、それが良いやら悪いやら、人生は神秘である。
ところで菴谷さんの店「やすらぎ」は閉店後はすぐに取り壊し、家主に明け渡さなければならないという。契約更新までには一年の時間が残っていたらしいが、情況からこれが限界と考えたのであろろう。すでにたくさんの歴史ができている。
句会後の慰労会では、まず彼女から挨拶があった。その胸にこみ上げるものがある。用意してきた言葉は詰まって涙となった。店の周囲の壁は四日後にはむき出しのコンクリートとなってしまう。店を始めたのは三十七歳だった。若さ、健康にも自信があった。すべての客に笑顔で接しても、天候次第で浮き沈みする苦労を何度も味わった。やがて、近隣の知人がこの地下室への急な階段を降りて、上客になり、通りすがりの客も増えた。ここは風の溜り場。噂、恋、歌も生まれては消えた。客が帰った後に片付けるコップがふれあう音の寂しさ。子供も大きくなって、なにかと余裕ができた頃、あたらしい可能性を探して、一番近くの大学へ進んだ。長年の接客で善人、悪人の見極めはつくが、それでもわからないのは自分自身である。「我思うゆえに我あり」というように、人は自分という存在の重たさを計らないではいられない。しかし仕事との両立はむずかしかった。結果ではなく過程にこそ意味があると言い聞かせて卒業を断念した。
だが、この人をともがら輩と信じ、多く仲間が最後の日に集まった。そして数日後には取り壊される壁に思い出を書き記した。言葉を選ぶもどかしさも、酔うほどに大胆となっていった。我らが帰った後に、貴方はどんな思いで、この壁に書かれた文字をなぞるのだろうか。
やすらぎといふ地下室に春の逝く 海紅
やすらぎという店の名は菴谷早苗さん、貴方そのものがやすらぎだったと信じたい。地下室の太陽だった。お疲れさまでした。そして長い間ありがとうございました。
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