▼記念号刊行おめでとうございます。俳句研究会では、谷地先生の講話もたのしみです。毎回、先生の言葉には肺腑をつかれますので、忘れまいと思う言葉はノートとこころに記しています。『言葉は残る』もそのひとつ、良い記念になります。お忙しい中を校正に携わってくださった方々にもお礼申しあげます。ただし、俳句は十七文字でなっているので、一文字間違えても句の姿がくずれるような気がします。残念な思いをしているのは私だけだとよいのですが……。ともあれ一段落つきました。ほんとうにお世話になりました。(水野千寿子)
▼記念誌発行の祝賀会にはお世話になり、ありがとうございました。おつかれさまでした。記念誌は心のこもった立派なものに仕上がって感激です。おめでとうございます。私なんぞまで……。びっくりするやら、ウレシイやら……、私はなんと運がいいのでしょう「いいとこ」どりで申し訳なく、ただただ感謝の気持で一杯です。(園田靖子)
▼『言葉は残る』を毎日少しづつ読んでいると、東洋大学に入った頃の事が走馬燈のようにめぐり出す。入学してから一年位たった頃、奥山さんに不得手な学科の事など相談したり、学習会を開催して頂いた。まだ彼が青年の頃だった。私の高校の先輩である人が「役員を引き受けてくれ」と言ってきた。私は心臓に持病があり、時々夜中に救急車のお世話になっていた。本当に申し訳のない事だがお断りした。その彼が卒業を目前にして死んだ。それから、私は、急がないでゆっくり勉強しようと思った。
そうしているうちに、奥の細道の会のことを知った。通信生は孤独であった。この会のお陰で卒業できたと思う。俳句の友は、私にとってもかけがえのない友人であった。その頃は、斉藤さんが資料を作ってくれた。指導者らしき人もいないまま、よく続いたものだ。一泊研修旅行は、バスの車中泊が辛くなって、失礼するようになった。
忘れもしない事に、立石寺に登った時の事がある。体力的問題から、元気あふれる仲良しと一緒に登ることは出来ないから、蒲池さんや斉藤さんと共に、ゆっくり登って行った。「静かさや岩にしみいるせみの声」、その日は小雨模様で、少し雨に濡れた。途中の屹立した岩の中程に、無数の戦死者の墓があり、それ等すべての人が二十代の青年とわかって悲しかった。
この戦争では多くの若者や若い父親が亡くなり、私の同級生の父達も人生を狂わされた。それでも、多くの子供たちは一生懸命生きて、道にそれたり、不良になったりした者は一人もいなかった。
立石寺は奇岩だらけで、岩の上にどうやって材木を運んだのか、階段を登るのにも一苦労だろうに、やはり人力なのだろうなあ。頂上付近では一畳位の程の土地に白菜が立派に育っていた。里に買物には行けないから、米と塩外は、自給自足なのかも知れない。この岩上に寺院を築いた古人は何と素晴らしい人達であろう。
かくて、山形の各地をめぐり、最上川の川下りをして、この川舟に稲束を乗せて運んだ話を聞き、広い川幅に響く船頭の良い声に送られて、山形の旅は終った。
斉藤さんには随分助けられた。このレポートが書けないなどと嘆くと、重たかっただろうに、いつも本を沢山持って来て、二冊、三冊と貸してくれた。くじけそうな弱い自分を、どれだけ支えてくれたことか、感謝の言葉もないほどです。でも彼はもうこの世の人ではない。心の届かない所にいってしまった。そのほか、多くの友人に助けられ、家族に助けられ、十数年かけてやっとの事で卒業することができました。何事も、この世の事は自分一人でなし遂げられるものではない。まわり多くの協力によるのである。友人にも、家族にも、すべて感謝である。
十七・八の頃に和歌の会「三河アララギ」で少し自己流の和歌を、七、八年位作ったことがあったが、俳句は作った事がなかった。
しかし、私は俳句では自身のひらめき以外は、誰の句も真似もしない。句会に行くと、目がさめるようないい句に出逢う事が度々ある。自分以外は師である、とは本当だと思う。
こんなに良い本が出来て本当にすばらしい。それも谷地教授、作者の皆様方や、お世話下さった奥山さん、尾崎さん、後藤さんに感謝します。(山本栄子)
▼10年という歳月の終わりの2年に間に合って、このたび『言葉は残る』に文章や作品を載せていただけた偶然を、私は谷地先生との、そしてこの冊子の中におられる多くの方々との、これからも「俳文学研究会」を通して続くであろう必然の出会いをさせていただいたのだと感じています。何度もこの冊子を手にして、文章や、作品や、歳月の中にお名前をたどっては、ページをめくりなおしています。お世話をくださっているお二人、尾崎喜美子さんは「奥の細道研究会あれこれ」に尾崎さんどおりのさりげなさで、軽妙で明るい文章をさらっと書かれ、また奥山美規夫さんは、万全の心遣いをその寡黙な内に秘めた日頃の雰囲気そのままの文章「俳文学研究会への架橋」を書かれています。ずっと変わることのない、お二人の優しいお人柄と、十年の歳月の重みを語って余りある文章を残されていると拝見しています。『言葉は残る』の出版記念会の日に、奥山さんが「五年後にもう一度」本を作ろうと言われるのを伺って、私は「俳文」の「句会」を本当に楽しみにしている一人として、五年後に貯まるであろう自作の数を、今から数えたりしています。この冊子を作るのにもお世話になった後藤由貴子さんは、句会でもその手持ちの語彙の多さを発揮され、魅力的な句を作られる方で、お会いするのが楽しみです。こうして出会うことになった、本の中の諸先輩のことを、全部ここに書くことができませんが、どうかこれからも谷地先生の御許でご縁が続きますようにと願っています。(大江ひさこ)
▼『言葉は残る』を読んで、自分にとって一番印象に残った文は、谷地先生の序文である。
先生は序文で、ご自分が「鬼か蛇か」といわれていることを紹介しながら、学問の厳しさについて説かれている。その序文の中で特に感銘した部分を次に抜粋する。
言うまでもなく、通信教育課程はラジオ・テレビ、そして郵便などを媒介として課題をこなすのだが、教員との面接機会が週に一度以上ある通学生にくらべると、単位の修得は容易ではない。与えられた課題の意味を理解し、その達成にふさわしい書物を用意し、読書と思索を繰り返す。そのいずれの段階においても身近な助言者がいないからである。それで一科目の修得に数年を要する場合がある。私はそれを異常なこととは思わないが、効率を重んじる人からの評判は芳しくない。不合格のレポートを何度も突き返されているうちに嫌気がさす気持ちはわかるが、そこが剣が峰であるのは今も昔も変わりあるまい。ことほどさように、通信教育とは学問の正道を体験させてくれる世界でもあるのだ。
ここに通信教育の在り方が如実に言い表されている。そして、私自身が身にしみて体験していることがずばり述べられている。現在ある科目に取り組んでいるが、二度レポートを返されて三度目でやっと合格した。
今までこういう経験をしたことがなかったので、非常にとまどったのである。最初のレポートが二度不合格で返されて来た時は、この科目を放棄して科目変更をするか、このまま継続して学習するか迷い、先輩に聞いてみた。すると、ほとんどの先輩はその先生はとても厳しい先生なので、科目変更をしたほうがよいとのアドバイスをしてくれた。その中で一人の先輩は「私はその科目をAで合格したので、続けてみたら」と言ってくれた。
こうした時に、谷地先生の『言葉は残る』の序文を読んだのである。この序文を読んで私ははっと思った。今取り組んでいる科目の担当の先生は「鬼でも蛇」でもなく、学問を真剣に指導してくれているのではないかと。
それから、気を取り直して、改めてレポートに入れられた朱筆に従って勉強し直して、三度目にしてやっと合格で返って来た。谷地先生の言われる通り、学問の正道を教えられていたことに気付かなかった自分がとても恥ずかしく思えたのである。(梅田ひろし)
▼先の出版記念パーティに出席できず、大変申し訳ありませんでした。本日立派な冊子が届き感激しております。校正や編集、本当にごくろうさまでした。カバーも私の大好きな紫で素敵です。驚いたことは私のエッセイが二番目に載っていることでした。奥の細道研究会の踏査に関する重い文章よりも前にすえていただき恐縮しております。今までの句会吟行の記録を、全て書き出し、大変な作業でした。自分の句を拾ってみますと、忘れている句もあって、こんな句を作っていたのかと驚き、記録の大切さを思い知りました。会報を出すようにといわれた谷地先生のお言葉が、ここにも生きていると感謝の念で一杯です。改めて、長い間この会におかけくださった献身的なご尽力、お心遣いに心よりお礼申し上げます。
俳文学研究会十周年、おめでとうございます。りっぱにできあがった記念誌『言葉は残る』には、今までの足跡が克明に記されていて、編集に携わった方々のご苦労が偲ばれます。
私が今ここに席をおいているのは「奥の細道研究会」の最後の旅に参加したことに始まります。
それまではレポートに追われ続けていて、精神的にも時間的にも余裕が無く、旅行する気持ちになれなかったのですが、ようやく卒論を残すのみになったという時に、この最終の旅があったのです。
その旅行を最後に「奥の細道研究会」は解散するとの事でした。せっかくこれから出かけられると思っていた矢先で、残念に思いましたが、引き続き「俳文学研究会」を発足させるとの事でしたので、すぐに入会しました。あれから十年、忙しい中を谷地先生は時間を割かれて、必ず参加してくださいました。そればかりではありません、数年前から「鳩の会」の会報も出してくださっていました。この会が十年も何事も無く綿々として続いてこられましたのは、ひとえに谷地先生の、この会と会員への愛情のおかげで、感謝してもし尽くせません。又陰になり日向になって、会員の面倒を献身的にみてくださった奥山さん、尾崎さんにも心よりお礼申し上げます。
「俳文額研究会」の十年の間に、私の身辺にも色々ありました。娘の結婚と出産、平成十年三月の卒業、その後の私の入院、主人の脳梗塞発病、そして著書の出版と、つぎからつぎに、良いこと、困ったことがおこり、その間は会の旅行や吟行、句会には出られませんでしたが、会を辞めることは考えられませんでした。いつか行けるようになったら、又出かけたい、それまで辛抱強く待つことだと自分に言い聞かせておりました。
退院し柚湯に深く身を沈め
という句は、私の退院した夜を詠んだ句で、「ご本人だろうか、祈復調」と先生の温かいコメントが会報に記されいたのを読んだときの感動は忘れることが出来ません。
春雷や夫に言葉を返さんか
という句は、主人の大病で、言葉を失ったときのやりきれなさを、春雷にぶつけました。雷の激しい音の刺激で、言葉が戻るのではないかとさえ思ったものでした。こうしたそのときだけの思いは、俳句という短い言葉の形で、正直に、しかも永遠に残るのです。『言葉は残る』とは素晴しいタイトルです。どなたの命名か、会報でお知らせいただければうれしいです。
十年間いつも、この会の会報、句会、旅行は楽しみにしていました。今年五年ぶりで、初めて一泊旅行が出来ました。ようやく主人を子供に任せて、家を開けることが出来たのでした。湯西川、平家の里で、雪の深く積もる中で、幻想的な雪洞祭りを見ることが出来ました。
この春、皆さんと十周年をお祝いし、記念誌を頂き、つくづく続けて来てよかったと思いました。会は「芭蕉会議」という、日本中に開かれた新しいフィールドを加えて、大きな夢と希望を載せて動いています。御世話くださるカルテモ社さんとともに、これからさらに発展していくことを、心より願っています。(浜田惟代)
▼学友は句友となりて花蘇芳 根本文子
この句のとおり、尾崎さん、根本さんに誘われ、卒業と同時に、三木さんと一緒に俳文学研究会に入会して一年余、10周年を迎え『言葉は残る』という素敵な題名の記念誌を発行することになり、私の稚拙な句も、載せて頂けることになりました。ラッキーだったと思います。
句会というと気の重くなる私ですが、やはりこうして活字になると嬉しく、何回も手にとって見ています。しかし、『言葉は残る』のとおり、嬉しい反面、自分の句の下手なことがよく分かります。恥ずかしい限りです。これを機に、少しでも永く句を創っていきたいと思うようになりました。 (織田 嘉子)
▼十年間を続けることは大変なことでしょう。じっくり拝読しました。小生のほうは雑用に追われて毎日を過ごしています。(鈴木太郎)
▼十年一昔というが、その間には知人・近親者との別離、環境の変化等、さまざまな事が起こりうる。『言葉は残る』の中には、その時その場所で、自分の心情を吐露するに相応しい言葉で、俳句を詠んだ人間の歳月が凝縮されている。歳月は過ぎ、言葉は残る。だがその言葉の何と重いことか。
入会して一年目の私は、先輩方の俳句を拝見し、言葉の背景や状況を推察する。詠まれている句が、すべて立派に思われる。俳句はセンス(感覚)であると誰かが言った。本当にそうなのか。感覚を磨けば俳句はできるのか、皆様教えて下さい。
『奥の細道』探訪の歴史があるのを知りました。参加したかった。今度『野ざらし紀行』の地に行きませんか。芭蕉が作句した場所を訪れて、『言葉は続く』を歩き始めたい。(中村美智子)
▼御出版おめでとうございます。「俳文学研究会」は私が通信教育部へ入学した年の四月に発足しています。友人ほしさに入会。谷地先生の序文を読み返して、四十一名の出席者の熱気に圧倒されたこと、印象に残っています。
奥の細道研究会から続く歴史ある会の、和やかな雰囲気にふれたくて、やっと投句している私ですのに、載せていただき恐縮です。皆様の俳句と吟行文を楽しく読みました。皆さんの俳句は、時にはノートに記してみたりして、お名前も覚えています。皆様の上達におどろいています。やはり多くつくらなければと、励みになりました。随想はお人柄がでていて、よいお話に癒されました。(中村みどり)
▼『言葉は残る―東洋大学俳文学研究会10年の足跡―』を送ってもらった。何度読んでも面白い。
10年の作品の記録は一気には読めないほど分厚い。毎回の会報には目を通していたはずなのに、記憶にないものが多くあった。紙上で、再度句会が開かれているような臨場感があり、どきどきわくわくさせられる。私自身は例会や吟行に熱心に参加したほうではない。それでも、「俳文学研究会」が私の暮らしと非日常に架かる橋のような存在であったことは確かである。
きらきらとしてなくなりぬ朝ちどり鵆 月居
どうしたら、このようないい句ができるのだろう。これは谷地先生が文中で紹介されている一句である。
『言葉は残る』は蝉時雨に似ている。せみ時雨に打たれていると、川の流れを感じる。流れには緩急があり、底は深い。
行く川の記憶にそそぐ蝉しぐれ
「会の足跡は残り、羅針盤が見えてきた」(あとがき)という、奥山氏の言葉が心に沁みる。(吉田久子)
▼私達の素敵な記念誌『言葉は残る』を手にすることができ、谷地先生・奥山さん・尾崎さん・後藤さんに厚く御礼申し上げます。
エッセイは、芭蕉・俳句・俳諧の学識的なものから、お人柄がしのばれる話題と多彩であり、句会記録は、個性や才能を十年間切磋琢磨させた足跡となって意義深いと思われました。句会への参加が数回足らずの万年初心者の私にとって、この一冊は心にずしりと重く、自分の無力さを痛感致します。 先生の講話を一度でも多く拝聴し、会員の方々に触れて俳句を学びたく、勇気を出して出席したいと気持を新たにしています。
なお、お詫びと御願いがあります。喜連川吟行句会の中の「岩間より湧出る水や岩タバコ」(百二十頁後から四行目)の句は、光栄なこと乍ら、私の句ではありません。「会報」を読んだ時点で気付くべきでした。私の不注意を深くお詫び申し上げると共に、実の作者からお知らせ頂けるとことを願っております。(堀眞智子)
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