句意は「池の面に蓮の浮葉がのんびり浮いている。それを見ていると浮葉はもう池の深さのことなどすっかり忘れてしまっているようだ」
作者の荷兮は名古屋の医者。貞享元年に芭蕉の弟子となり『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集を編纂し尾張蕉門の重鎮になったが、その後芭蕉の「軽み」についていけず、離反する。
掲出句の解釈はほとんど見当たらないが、山梨県立大学のサイト(『芭蕉DB』伊藤洋氏制作)では、「蓮田の蓮の葉が水面に浮いている。それらを見ていると、その下に深い水が湛えられていることを忘れてしまう」と忘れる主体を作者としている。
しかし私は忘れたのは浮葉ではないかと思う。かなが切れ字であるから一気に読み下す句だろう。
この句の面白さは、池の底から苦労して伸びてきた浮葉がいったん浮いてしまうと、もうのどかに空を見上げる能天気な浮葉になってしまっているところにある。
もしこの解釈が妥当なら荷兮は十分芭蕉の「軽み」に対応できたように思うのだが。 |
(文) 安居正浩 |