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庭掃きて出でばや寺に散る柳
芭蕉 (おくのほそ道)

加賀(石川県)の全昌寺での句。
句意は「本当は庭を掃いてから出立したいものです。寺の柳の葉も散っているから」
出立の芭蕉に寺の若い僧たちが、紙と硯をかかえてお堂の階段の下まで一句を求めて追いかけて来たので、とりあえず草鞋をはいたまま即興で書き与えたとする句である。
あわただしい中で詠んだというこの句に注目したのは、遊行柳の章段での「田一枚」の句と句形・句意とも非常に似ていると感じたからである。

田一枚植ゑて立去る柳かな(遊行柳)
庭掃きて出でばや寺に散る柳(全昌寺)

「田」と「庭」、「植ゑて」と「掃きて」、「立去る」と「出でばや」、「柳かな」と「散る柳」など
かなり照応するように思う。
「田一枚」の句にはいろいろな解釈がなされているが、一番の論点は「植ゑて」と「立去る」の主体が誰かということである。「芭蕉」「早乙女」「柳」の説があるが、今一番有力なのが、「植ゑて」が早乙女で、「立去る」のが芭蕉とする説だそうである。私は句の途中で主体が変わるということにかねてより違和感を覚えてきた。
芭蕉は『おくのほそ道』の前段と後段で意図的に照応させる部分を作っている。上記二句にも意図的なものがあるとするならば、「庭掃きて」の主体は芭蕉であるから、「田一枚植ゑて」の主体も芭蕉と考えていいのではないかということである。現実的に芭蕉が田植えをするとは思えないが、本文と同様、句にも虚構がまじることもありうるだろう。
こんなことを書くと「下手の考え休むに似たり」と笑われそうだが、最近は推理ゲームのように『おくのほそ道』を読んで楽しんでいる。          


(文) 安居正浩
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