元日に猿回しがやってきて、猿に猿の面を付けて芸をさせている。自分もまた猿と同じように、進歩もなく、旧年同様の愚をくり返すのだろうか、という意。
元禄六年の歳旦である。元旦と前書きがあり、猿回しの情景が想像されて、新年の季感が十分に伝わる句であるが、去来が『旅寝論』で、この歳旦の季題について芭蕉に尋ねた事が伝わる。
一とせ先師歳旦に、
年々や猿にきせたるさるの面
ト侍ルを、季はいかゞ侍(はべる)べきと伺けるに、「年々(としどし)」はいかに、との給ふ。いしくも承(うけたまわ)るもの哉、と退(しりぞき)ぬ。年々は季の詞にあらず。かく、の給ふ所しらるべし。表に季見へずして季になる句、近年付句等も粗(ほぼ)見ゑ侍る也。
『去来抄・故実』にも同じような記載がある。
無季といふに二つあり。一つは、前後、表裏、季と見るべき物なし。落馬の即興に、
歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬哉 芭蕉
何となく柴吹く風も哀れなり 杉風
また、詞に季なしといへども、一句に季と見るところありて、あるいは歳旦とも、明月とも定まるあり。
年々や猿に着せたる猿の面 芭蕉
かくのごときなり。
現在では新年の季語(『図説俳句大歳時記』)として立項される「猿回し」も、江戸時代には日常的であったのであろう。すでに最晩年にあった芭蕉が「年々はいかに」と答えた感慨に深いものを感じる。
また句意については『三冊子・赤雙紙』に下記のように記される。
この歳旦、師の曰く「人同じ所に止りて、同じ所に年々落ち入る事を悔て、いひ捨てたる」となり。
許六の『俳諧問答』では、
ふと歳旦ニ猿の面よかるべしと思ふ心一ツにして、取合(とりあわせ)たれバ、仕損(しそんじ)
の句也。
とあり、芭蕉が失敗作と考えたことを窺わせる。
この記事を踏まえて、雲英末雄・佐藤勝明訳注『芭蕉全句集』(平22・角川学芸出版)は、(「猿に着せたる猿の面」は想像の産物と知られる。が、できた句からは猿の面で舞う猿が浮かび上がることになり、ここに文芸のおもしろさがある)と説く。
ここでいう「文芸のおもしろさ」とは、想像で詠まれた失敗作であっても、言葉は自立して一人歩きすることを指摘したのであろう。冒頭の拙解では「人同じ所に止まりて、同じ所に年々落ち入る事を悔て、いひ捨てたる」という芭蕉の感懐を重んじて解釈を試みた。
『諸国翁墳記』にも見えるこの句碑を、厚木市猿ヶ島の本立寺に尋ねた。昔話に出てきそうな地名であるが島のようには見えない。平坦な畑地のあちこちに木守りの柿が空高く美しい。句碑は参道入り口左側にある。比較的新しい二段の台石の上に、先端の丸い円柱状の石が立っている。高さは80センチほど、傍らに「芭蕉の句碑」という立て札がある。
これは郷土の俳人五柏園丈水が、天明八戊申に猿が島と、申(さる)年にちなんで建立した俳聖松尾芭蕉の句碑である。丈水は本名を大塚六左衛門武喜と稱し申(ママ)州武田の家臣で猿が島に土着して名主を勤めるなど郷土の開発に貢献。
句碑の刻字は全く見えないが、飯田九一『神奈川県下芭蕉句碑』(昭27)によると、「年々や猿耳きせた類さ流の面ン」と刻まれていて、建立の時この句を発句として『猿墳集』が編まれたということである。
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