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堅田にて
病鳫の夜さむに落て旅ね哉
芭蕉(猿蓑)

 晩秋のころ、遠い旅の空を列を組んで鳴きながら渡って来た雁は、夕暮れ、塒の湖沼の上に来ると、急に一羽ずつ回転しながらばらばらと垂直に落下する。これが落雁で、その疲れ切ったようなドラマチックな動きには、これが自然の生態とわかっていても、見るたび何か切ない思いに駆られる。無論その中には、病む雁、老いた雁、懸命に頑張った幼鳥もいるであろう。
  句は、そうした旅寝の雁、中でも仲間を離れ、夜寒の水に落ちる病む雁の哀れを表現し、読む者に水の感触まで伝わるような孤独感を与える。
  元禄三年九月二十六日付、昌房宛芭蕉書簡によれば「昨夜堅田より帰帆致し候(中略)拙者散々風引候而、蜑のとま屋に旅寝を侘びて風流さまざまの事共御座候。 病雁の夜寒に落て旅寝哉 と申し候。(下略)木曾塚 蕉」(今榮藏『芭蕉書簡大成』)とある。
凡兆宛書簡によれば、芭蕉は九月十三日から二十五日にかけて堅田に滞在していたが、その間風邪を引いて体調が悪かったことがわかる。よって病む雁は芭蕉自身でもあろう。
そこには「夜寒」を身にまとって、生きる、病む、ということでは、雁も人間も同じなのだという深い共感があるだろう。
  この句にはその解釈、『猿蓑』入集の経緯など、様々な事が論じられている。その中で、
病雁の読みは「ビョウガン」が主流であるが、私は其角の『枯尾花』(『日本俳書大系・第二巻』)に、
   病鴈のかた田におりて旅ね哉
と訓読していることを重んじ、「ヤムカリ」とする説に加担する。そのやわらかな響きが句意のあわれにふさわしいと思うからである。
  しかし、下五の「夜寒」と「旅寝」の違い、また「夜寒に落て」と「かた田におりて」の句形の異同については心が決まらない。
  義仲寺発行の『諸国翁墳記』には次のように、中七が「堅田におりて」、下五が「夜寒哉」となっている。
        夜寒塚 江州堅田本福寺ニ在  角上建
   病雁の堅田におりて夜寒哉   芭蕉
  これは書簡にもある通り、十日以上も堅田に滞在していて出来た句なので、はじめは「堅田におりて」という挨拶をこめた句であったことを意味するのかも知れない。それを義仲寺に戻った後で推敲して、昌房こと茶屋与次兵衛宛書簡に記した。その後、『猿蓑』入集のとき、「堅田の落雁」に思いを寄せた句であることを特定するために「堅田にて」の前書きを添えたのかも知れない。
  『諸国翁墳記』は「芭蕉の墓碑・句碑ごとに名称・所在地・建立者・芭蕉の句を記し、ほぼ年代順に配列したもの。(略)各地で芭蕉塚の建立があると義仲寺に申告して「本廟墓碑録」への登載を求め、義仲寺はこれを諸俳壇に披露する〈八戸市立図書館本書入〉という方式が成ったわけで、芭蕉の神格化を進める一方で、新たな芭蕉塚の建立を促して俳壇を活性化し、蕉風俳壇の普及に貢献した」(『俳文学大辞典』)。

 先日、この句碑を探して、近江の本福寺を訪ねた。といっても何処にあるのかまったく見当が付かず、タクシーに乗る。堅田の集落に入ると、本福寺は意外にも「浮御堂」のすぐ近くにあった。境内には芭蕉の古い弟子で僧籍にあった千那を初め沢山の句碑があるが、芭蕉句碑はなかなか見つからない。散歩している人に尋ねると裏庭に案内してくれた。そこには墓石型の縦長の自然石があり、千那、芭蕉、角上と読める。見るからに古い碑で、句は刻んでいないようである。傍らに半楕円形のきれいな石に、掲出句の刻まれた新しい句碑があった。古い碑が多分、寛保三年(1743)「病雁」の句の短冊を埋めて建立したと伝える「夜寒塚」ではないかと思われた。

(文) 根本文子
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