ホーム
大津に至る道、山路をこえて
山路来て何やらゆかしすみれ草
芭蕉(野ざらし紀行)

 山路をたどると、ふと路傍に紫色のすみれの花が咲いている。ひっそりと春を告げるその姿がどことなく慕わしい、という意。貞享二年(1685)の成立と思われる再稿本『野ざらし紀行』の素堂序文は「山路来ての菫、道ばたの木槿こそ、この吟行の秀逸なるべけれ」と高く評価する。初案は熱田の白鳥山法持寺で詠んだ「何とはなしになにやら床し菫草」(『皺筥物語』ほか)であった。
 『去来抄』の同門評に次のような応酬がある。
   湖春曰く「菫は山によまず。芭蕉翁、俳諧に巧みなりといへども、歌学なきの過ちなり」。
   去来曰く「山路に菫をよみたる証歌多し。湖春は地下の歌道者なり。いかでかくは難じられけん、
   おぼつかなし」。
 北村季吟の長子湖春がいうように、「春の野に菫摘みにと来し我ぞ野をなつかしみ一夜寝にける」(赤人・万葉・巻八)以後、、すみれは野において詠むものとされる。これに対し、去来が(証歌多し)と反論し、支考も元禄五年(1692)の『葛の松原』で同じ主張をするが、証歌の数は必ずしも多くはないようで、諸注は大江匡房の「箱根山薄紫のつぼすみれ二しほ三しほたれか染めけん」(堀河百首)をあげる程度である。この句の新鮮さはそうした和歌伝統を離れて、すみれを山路に発見した点にあるのではなかろうか。

 早春の一日、箱根路を訪ねた。箱根旧街道の正眼寺に「山路きて」の句碑がある。明和四年(1767)の建立。資料によれば全国に約四十六基あるとされる「山路来て」の句碑の中で最も古いものである。解説に、明治元年(1868)の戊辰の役の際の箱根山崎の合戦でこの寺が全焼した時、碑面が剥落したとあるとおり、句は判読がむずかしい。しかしこの句碑の傍らに立つと、大津と箱根の違いはあるものの、なぜか山路ですみれを見つけた芭蕉の喜びが伝わってくるような気がする。和歌伝統の本意から解放されて、身のうちにわきたつ感動、山路のすみれの、健気でひたむきな生命力が芭蕉の心をとらえたのではないだろうか。谷地先生が『俳句教養講座 第一巻』(角川書店)の「俳句的ということ」に述べている。
 俳句を成り立たせている多くが俳句独自の規則でも心得でもないことを確かめて、さて新たに
  俳句的とは何かと問うとき、残る選択肢は心である。読み込まれている主題である。心という
  ものの存在を誰も疑わない。だが、それは目で見ることも、耳で聞くことも、手でさわることも
  できず、常に断片的で、非論理で、風船のように膨らんだり縮んだりして、生まれては消え、
  消えては生まれ続けている。詩はその心を規範的な言葉ですくい取るところに芽生える。

間もなく箱根路にも、すみれ、たちつぼ菫などがいたるところに咲き出すころである。
(文) 根本文子
「先人の句に学ぶ」トップへ戻る