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おくられつおくりつはては木曾の秋
芭蕉(曠野)

 貞享五年(一六八八)、芭蕉は越人を伴って名古屋を発ち、木曾路に入った。句はその旅立ちに際し名古屋の門人達に与えた留別吟である。だが『更科紀行』では「送られつ別れツ果ハ木曾の秋」として木曾山中の旅中吟の位置に配列されている。長い旅を続けて何度も人に送られ、また自分も人を送るという、出会いと別れを繰り返してきた。そして、いまは木曾の秋を旅することになったという意で、いずれにしろ句意に大きな相違はない。句は単に旅懐だけではなく「果は」という言葉に、過ぎてきた人生の時間、ふれ合った人々への惜別の思いも感じられる。
  先日この芭蕉の旅を追体験したくなって木曾路をたずねた。馬籠宿の南端、新茶屋集落にこの句碑があった。付近には「一里塚古跡」、藤村の字で「是より北木曾路」の碑もある。興味深く思われたのは少し離れて子規の句碑もあったことである。
   桑の実の木曾路出づれば穂麦かな    子規
  子規はまだ帝大生であった明治二十四年(一八九一)の帰郷に際して木曾路を通り
「かけはしの記」を残している。このとき「五月雨に菅の笠ぬぐ別れ哉」の留別吟を詠み、伽羅生、古白、碧梧桐がはなむけの句や文を送っている。「木曾の桟跡」には二人の句碑が並んでいた。
   桟や命をからむ蔦かづら            芭蕉
   かけはしやあぶない處に山つゝじ       子規
   桟や水へも落ちず五月雨            子規
  解説板を読むと、歌枕でもあり、木曾路の難所として知られた桟は、慶安元年(一六四八)尾張藩が石垣を積み、中央に八間(14,5メートル)の木橋をかけた。この石垣が、現在国道十九号線の下に、ほゞその全ぼうが完全な姿で残されている、とある。したがって芭蕉が通った時にはこの石垣と木橋が出来ていたことになる。しかし句碑のある所から目を上げると、国道に垂直に迫る高い絶壁に往時の旅人の困難がしのばれる。直下を流れる雨の木曽川は、両側の岩に激しくぶつかりながら白波を上げて蛇行している。
  しばらく句碑を見つめていると、送り送られるのは、俳句の革新に命をかけた芭蕉と子規の後ろ姿のように思えた。

(文) 根本文子
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