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かげろふや柴胡の糸の薄曇
芭蕉(猿蓑)

 春、野原を旅していると行く手にゆらゆらと陽炎が立つ。地には糸のように伸び出した繊細な柴胡の芽があわあわと頼りなげにゆれている。美しい春ではあるがふと柴胡の糸のようなひそかな哀しみが芽生えてこころがゆらぐ、となろうか。ところでこの句、文政十二刊の空然著『猿みのさがし』(笠間選書・村松友次・谷地快一編)に「小刻本の七部集にハ糸を原に誤れり」とあり「陽炎や柴胡の原のうす曇」(伝土芳筆全伝・芭蕉句選)という句形も伝えられていることがわかる。空然の解釈をみると「柴胡ハ薬艸にして和名のだけと云、関東の俗ハおほざましなと云也。よく熱をさますの名也。初春芽を出す時ハ芝と同しく細く糸のやうに萌出てあるかなきかにみゆるに懸合わせての作にして、薄曇といへる所魂の場也。薄曇にてものゝさだかに見へわかぬさまを形容したる手づまにして、糸と云ハ見立たる言葉也」とある。また(小学館・『松尾芭蕉集・全発句』)には「この句は柴胡という名を出すことによって、本草学の一端にも触れ、さらに<糸の薄曇>という表現によって<ほそみ>を出そうとしたものか」 ともある。
  先日この句の句碑を見に相模原市に出かけた。場所は県立相模原公園前のバス停の横で「柴胡が原陸橋命名碑」として建てられている。見慣れた古色蒼然たる芭蕉句碑とは全く異なりモダンなものである。縦220糎×横234糎の四角い大きなもので、白地に黒くデザイン化された碑面の右半分に「かげろふや柴胡の糸のうす曇・芭蕉」、左半分には柴胡の花の素敵な線描画が描かれている。解説によると「相模野はかつて柴胡を多く産し、朝廷へも献上したので一名柴胡が原とよばれたという。(中略)近世末期、横山下の下溝村などでは冬期にこの野に出て柴胡を堀り生活の資に供した」とある。隣接する市立麻溝公園の管理事務所で美しいミシマサイコの花の写真を見せてもらいながら、現在では絶滅危惧種であることを知る。ここでは保存のために栽培しており夏には美しい黄色のカスミソウのような花が咲くという。句碑の周りにも植えるとのことなのでぜひ芭蕉の見た柴胡を見に行きたいと思っている。

(文) 根本文子
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