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納 涼
酔うて寝ん撫子咲ける石の上
芭蕉(真蹟短冊・夏・貞享四)
 庭に出て酒を呑もう。そして酔えばそのまま、撫子の咲き添う石の上に身を横たえて涼むのもよいではないか、の意。真蹟短冊に「納涼」と前書がある。すなわち納涼(「涼み」に同じ)を詠んだ句であり、撫子が涼しげな季感としてあしらわれている。
  撫子は「萩の花尾花葛花なでしこの花女郎花また藤袴朝顔の花」(憶良・万葉・秋雑)により秋の七草として知られ、大伴家持がその可憐さを愛でたが、この二人が目にしたものは山野に自生する「カワラナデシコ」で、実際には夏のころから咲いている。なお中国の石竹(ナデシコ)が入って来た平安時代以降は「ヤマトナデシコ」と呼んで両者を区別し、「撫でし子(可愛いい女)」の意味を含ませて和歌に用いられた。芭蕉の句もこうした言葉の伝統と無関係ではない。
  だが、芭蕉は本歌取りによって句をなしたわけではないから、特定の古歌を踏まえたと説くのは誤りである。よく引かれる「岩の上に旅寝をすればいと寒し苔の衣を我れにかさなむ 小町/世を背く苔のころもは唯一重貸さねば疎しいざ二人ねむ 遍昭」(後撰集・雑三、大和物語)という贈答歌は、句作に〈想を借りた〉(新編日本古典文学全集70『松尾芭蕉集@』)にすぎまい。
  この句の新しみは、「納涼」に隠逸酔態の自画像を描いた点である。涼を求めるといえば木陰・橋・海岸・舟・茶屋などがお決まりの舞台だが、掲出の芭蕉句はそのどれにも収まらない、ありふれてはいるが新鮮な現実の美的想化である。それは芭蕉が先導した「やすらか」で「優美」な貞享の句風(今栄蔵『芭蕉年譜大成』)のひとつとみて誤らないのではなかろうか。ことしは暑い夏であった。
文: 根本・谷地
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