三.嗜好
二人とも共通して酒はほとんど飲まなかった。たとえば秋櫻子は
軽部烏頭子は、(中略)一升ぐらい飲んでも少しも乱れない豪酒なのである。
だから会でもあると、烏頭子の周囲にはすぐ波郷、桂郎、友二などが集まった。
酒を飲めぬ私の傍にいるより、烏頭子の前に坐っている方が楽しいらしいのである
(『水原秋櫻子全集月報5』)
と酒好きが仲良くしているのをちょっと羨ましげに書いている。
登四郎も句会のあとは喫茶店でコーヒーを飲んで帰るのが定番となっていた。だから酒を飲みたい弟子も、とりあえず喫茶店で一時間ぐらい少し離れた席で先生の話を聞いていた。次に居酒屋へと場所を変え今度は林翔副主宰(当時)を囲んで飲むという流れが出来ていた。
ほとんど酒の席にでなかった登四郎だが、カラオケが好きになった晩年は二次会にも顔を出すようになった。
四.性格
雑誌『俳句』の水原秋櫻子追悼特集の対談で、秋櫻子のことを、山本健吉は「茶目っ気がある」といっており、堀口星眠は「ひょうきんな人」と言っている。山口誓子も「東京音頭をいくらか、モディファイして、歌をつくって、舞台にのせたことがあるんだ。私とか草田男とか風生だとか一同が歌い、鈴木花蓑が幕を引いて、拍子木を打つ。あれはみんな秋櫻子の筋書き。自分がやりたいんだ。(笑)」と『ホトトギス』四百号のお祝い会の裏話を披露して、秋櫻子の楽しい性格の一部分を語っている。
反面秋櫻子の人の好き嫌いは激しかったようで、登四郎がその一端を書いている。「その一つは好き嫌いの面が実にはっきりしていて、好きな人間とは喜んでつき合うが、嫌いな人間には極めて冷たかった。嫌な奴だけど一応のつき合いをするーという我慢や妥協は一切されない」
また秋櫻子の癖として「私は長くつき合っていながら一度も俳論をうかがったことがない。俳論風なものを持ちかける人がいても、ふいと顔をそらしてしまわれる」とも記している。(『沖』昭和五十六年九月号)
登四郎も一見照れ屋ではあるが、お茶目なところがあった。句会の講評でけちょんけちょんの評価をして、にやっといたずらっぽい笑いを浮かべていたし、カラオケが大好きで「釜山港へ帰れ」や「柳ヶ瀬ブルース」を嬉々として歌っている姿が何度も見られた。
身近で心酔している人には立ち居振る舞いも似てくるというが、登四郎も秋櫻子の「ふいと横を向いてしまう」癖が身についてしまったらしい。句会後のコーヒーの時、歌舞伎の話などには目を輝かせていたのに、誰かがその日の句会の句について話すとぷいと横を向いてしまったことがたびたびあった。また、地方に俳人協会の講師か何かで出かけたとき、地元の有力俳人が話しかけてきたのに、何も応えず横を向いてしまい、不評を買ったことを聞いたこともある。やはり秋櫻子と同じで、人間や話題についての好き嫌いははっきりしていたようだ。
五.芝居のこと
秋櫻子も登四郎も芝居が大好きであった。
秋櫻子の書いた「能村君素描」という文章にこんな一節がある。
能村君が来ると、私は少なくとも一時間半位は話している。二時間以上も話しつづける
ことさえ稀れではない。
たいていは芝居の話をしているのである。それも殆んど旧劇に限られているといっても
よいのだが、能村君は実に詳しく丁寧に見ていて、何年前の舞台でもはっきり記憶して
いる。私もこういうことにかけては、人に劣らぬ記憶力を持っているし、第一、観劇の期
間が長いから、決してひけはとらないのである。いまの俳壇で、旧劇を語り合って楽しい
相手は、富安さん(富安風生・・筆者注)と能村君だけである
ここで旧劇というのは、歌舞伎と考えていいのであろう。
秋櫻子は歌舞伎の筋書(パンフレット)に毎月俳句を載せていた時期もあった。
登四郎も主宰誌の「沖」では記念号のたびに歌舞伎の専門家を呼んで対談していたし、宴席で興が乗ると歌舞伎役者の声色を必ずというほど披露していた。歌舞伎を殆ど知らない私たちには、誰の声色かもわからなかったが、「いやさーお富久しぶりだなあ」という時の登四郎の陶酔した顔に拍手喝采したものだった。
六.嫌いな言葉
秋櫻子も登四郎も俳句に使うのに嫌いな言葉があった。弟子としては嫌いというだけで句を落とされても困るのだが、そうかと言って主宰の意向も無視できない。悩んだものである。
秋櫻子の場合は、自身の美意識に合わない言葉は駄目なようであった。信楽の狸は下品だと言ってこれを俳句に詠んだ弟子を叱ったとか、太宰治の生家が旅館となった「斜陽館」を詠んだ弟子に、心中した太宰治に関係したようなものは駄目と電話をかけてきたなどのエピソードを残している。他では「立ち小便」や「糞船」や「婆」は取らなかったというが、この辺は他の主宰でも好まないだろう。とにかく醜いもの、汚いものなどは生理的に嫌っていたらしい。
登四郎は句会ではっきり自分の嫌いな言葉を言うので熱心な女性はノートしておいて使わないよう気をつけていた。登四郎の嫌いな言葉は「ネクタイ・無人駅・追伸・聞き役・少年・少女・博多人形・こけし・はにわ・孤高・孤独・図鑑・辞書・友・響き・風鈴・立ち話・長電話・忌日」などなど。
それぞれ「うんざりするくらい詠まれた」「 イメージが固まっている」「評論用語で俳句に使うと安っぽい」「あいまい」などと、それなりの理由もいろいろ話してくれたのだが、私の目からみると野暮ったい言葉が嫌いなようであった。これも江戸っ子気質からきたもので、秋櫻子と同じく独特の美意識があったのであろう。
おわりに
これらいくつかの共通点は秋櫻子から登四郎へ受け継がれたものと言える。中でも短歌経験は「しらべ」や「叙情性」として句にあらわれ、江戸っ子の歌舞伎好みという点では句に「艶」や「粋」をもたらした。この二点は二人に共通の美意識をかたちづくる上で大きな要素になったはずである。
二人の六十歳以降の句集から、共通の美意識の感じられる句を選んでみた。
滝落ちて群青世界とゞろけり 秋櫻子(『帰心』)
羽子板や子はまぼろしのすみだ川 秋櫻子(『余生』)
余生なほなすことあらむ冬苺 秋櫻子(『余生』)
削るほど紅さす板や十二月 登四郎(『天上華』)
初あかりそのまま命あかりかな 登四郎(『寒九』)
紐すこし貰ひに来たり雛納め 登四郎(『菊塵』)
「登四郎が秋櫻子から受け継がなかったもの」や「森岡主宰と登四郎の共通点は何か」など興味ある話題は尽きないが、それは次の機会のテーマとしたい。
参考文献
『高濱虚子―並に周囲の作者達』水原秋櫻子著 昭和二十七年十二月 文藝春秋新社
『NHK俳句入門 能村登四郎俳句の楽しみ』能村登四郎著 昭和六十三年十一月 日本放送出版協会
『能村君素描』水原秋櫻子『俳句』昭和四十三年三月号
「信楽狸」能村登四郎 『沖』昭和五十六年九月号
「秋櫻子先生の思い出」植松靖 『沖』昭和五十六年九月号
「素材より表現」能村登四郎 『俳句研究』昭和六十一年十一月号
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