第二節 蘇東坡と蕪村
ここでは、蕪村の中で蘇東坡という人物がどんな存在であったのかについて、成島行雄氏の『蕪村と漢詩』を引用しながら探っていくことにする。まず、蘇東坡の詩を、次にその詩に関連した蕪村の俳諧等を挙げていくことにする。
春夜
春宵一刻 値千金
花に清香有り 月に影有り
歌管 楼台 声細細
鞦韆 院落 夜沈沈
「春の宵一刻 値千金」春の宵は約十五分で一千金の値打ちがあるほど素晴らしい。
花の香り、月のおぼろげな姿。そして賑やかな楼台が静まる。鞦韆(秋千とも書く。ブランコのことで専ら女子の遊具。)が院の中庭でただよい夜は深深と更けていく。
蘇東坡といってまず浮かぶのは、この詩ではなかろうか。と言われるくらい日本においても有名な詩である。特に第一句はあらゆる文献に引用され、歌舞伎の『桜門五三桐』では石川五右衛門のセリフにまで登場している。ことほど然様に我が国の文芸に多くの影響を及ぼしている。
春の夜や宵あかつきのその中に
春の夜の素晴らしさは宵や暁にあるのではなく、その中間にあるのだと主張している。この句には、次のようないくつかの前書が残されている。
「唐土の詩客は千金の宵をゝしみ、我朝のうた人はむらさきのあけぼのをうらめり」短冊
「もろこしの詩客は千金の宵をゝしみ、日のもとのうたびとはむらさきのあけぼのをあはれむ」『風交帖』
「もろこしの詩客は一刻の宵をおしみ、我朝の哥人はむらさきのあけぼのを賞せり」『明烏』
「もろこしの詩客は千金の宵をゝしみ、我朝の哥人はむらさきの曙を賞す」『句集』
これらの中で「もろこし(唐土)の詩客」と言っているのは、当然蘇東坡のことであり、「千金の宵ををし」んだというのは『春夜』を指していること、いうまでもない。そして「日のもとのうたびと」或いは「我朝の哥人」と言っているのは『枕草子』の作者清少納言のことであり、「曙を賞す」というのは、その著『枕草子』の第一段「春はあけぼの」を指していること、これも自明のことであろう。
春の夜の最も見事な詩情あふれる時間帯は、宵や曙にあるのではなくその間にあると和漢の詩人歌人が見逃してきた春夜の情緒を指摘したのである。
ところで、蕪村は果たして春の夜は宵や曙の間にこそ情緒があると認識していたのであろうか。どうもそうとは受け取れない。蕪村には春を詠んだ句が極めて多い。勿論、夜を詠んだ句も多い。しかし、それら春の夜を詠んだ句の中で、宵・曙を除いた句がどれほどあるか。決して多くはない。よって、蕪村は「春宵優劣論」を述べたかったのではなく、蘇東坡や清少納言の見落としたところに目を注いだに過ぎない、との論が言えよう。もっと端的にいうならば、そうした先人と糟糖を嘗めるような句作に走るのではなく、自らの目で美の所在を発見すべきことを実証したのであろう。あるいはそれが正鵠を射ているのかもしれない。
能き値うらめや宿の梅の宵
「春の宵は一刻千金」だという。まして我が家では梅が満開で芳香を放っている。ぜひ「よい値段」で売りたいものだが……。それが果たせないのは悔しいことだ。
これも俳味十分の句である。「能き値うらめや」という世俗味たっぷりの上の句と「梅の宵」という風雅にあふれた下の句との、見事な落差にこの句の身の上がある。
千金の宵を綴りて襲
「襲」とは衵や袿の上にかける表衣である。ここではその字を借りて、天子が着る衣、すなわち龍衣(「襲」を二字に分解するとこうなる)を利かせている。つまりあなたが見たという金の竜は、その鱗を「一刻千金という春の宵」を綴り合わせたものなのでしょう。
これは門人の我則に贈った句。我則が北方の空に金の竜が昇る夢を見たということについての祝いの句である。蕪村が総野流寓の頃、奥州を遍歴したことがある。その折、出羽や津軽で見聞したことを挙げて祝ったのである。
陳季常が蓄える所の朱陳村嫁娶図 二首
我は是れ、朱陳の旧使君
農を勧めて 嘗て入る 杏花村
而今 風物 那ぞ画がくに堪えん
県吏 銭を催して 夜門を打つ
私はかつてこの朱陳村の使君でした。農業を勧めて、隣村の杏花村へも赴いたことがあります。けれども今では、この村の風物は描く気がいたしません。県の役人が税金の催促に、夜中まで民家の門を叩いて回るんだから。
陳季常というのは蘇東坡の友人であった陳希亮の子で、蘇東坡とも交流があった。その男が所有していた『朱陳村嫁娶図』という画を見ての偶感である。
朱陳村というのは白楽天(居易)の「朱陳村詩」に描かれている村で、江蘇省の豊県を去る百余里の山奥にあって世間と絶ち、風俗純朴で、村中は朱と陳の二姓だけで、代々互いに婚姻し、その土地に安住して生活を楽しみ、みな長命であると謳われている。いわば一つの桃源郷のような村である。蘇東坡はかつてその村の使君(知事)であった。苛斂誅求というか苛政は虎よりも猛しというか、ともあれ微税の過酷さは古来変わらないようで温雅純朴な朱陳村もそのために風物が一変したと蘇東坡は嘆くのである。
宿老の紙子の肩や朱陳村
宿老(宿場の長老ということで、ここでは村を治める村長)でさえも貧しさのため、紙子を着ている。その紙子の肩が貧苦にうちひしがれて敗れ果てている。蘇東坡が苛斂誅求のために風物までもが一変したと詠った朱陳村ではないが、わが国の農村も同様な憂き目に遭っている。
蕪村とは「荒蕪の村」の謂である。とすると、この句にも一種の感慨があるか。まして父親がかつて毛馬の村長であった(門人几董の「夜半翁終焉記」草稿)とするなら、なおさらである。
以上のように、蕪村は蘇東坡の作品に対し、たくさんの句を読んでいることがわかる。そして、それは蘇東坡に関してよく知っていたということでもある。蕪村は他にも、後に説明する「後赤壁の賦」に関しては四句、詠んでいる。
「春の夜や」の句からは、世間から注目をされないものにも目を向ける、蕪村の優しさを窺うことが出来る。その優しさが蕪村の残した俳諧や画、その他の作品に対する基本的な姿勢の一つであると私は考える。その世間から注目されないものや、嫌われるものを受け入れるということは、生活、また過去の出来事や風習、学問、理念、などの様々なことを知り、尚且つ多角的にみる力が必要なはずである。瀬木慎一氏は『蕪村 画俳二道』の中で〈俳諧、画、どちらの道においても大成した蕪村であるが、一人の人格の中でその両面が融合的に営まれた秘密はなにか。(中略)両面にあった絆は、学問であり、知性であった。芭蕉も大雅もそうであったように蕪村の芸術(という言葉をあえて用いれば)の根底にあるものは、学問である。〉といっている。私はそれに加えて、蕪村の深い学問的知識は、蕪村が表現したいもの(ここでは世間から注目をされないもの)を表すにあたって、必要不可欠なものであると考える。つまり、どんなものも受け入れようとする蕪村の優しい一面は、学問あるいは知性によって際立っていると私は考える。そして、その学問的知識の中に、中国古典、蘇東坡に関するものがあることは間違いないだろう。蘇東坡は前述の通り、詩・書・茶道・禅と様々な道において活躍した人で、沢山の顔を持つ人である。俳諧と画の二道を極めんとする蕪村が、そんな蘇東坡に興味、親しみを持つのも頷ける。また蘇東坡の家族の絆や、吏民との絆は、故郷のない蕪村にとって憧れの対象でもあったのかもしれない。
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