はじめに
能村登四郎には俳句の師が二人いる。一人は『馬酔木』主宰だった水原秋桜子、もう一人は登四郎が俳句を始めるきっかけを作った山本安三郎である。
登四郎の俳句の始まりは、本人がいろんな本に書いているのでご存知の方も多いであろう。「中学時代に伯父さんから手ほどきを受けたが、それは旧派の俳句で古臭いものであった」という内容である。しかしその伯父山本安三郎について関心をもたれた方は少ないと思う。
実は安三郎は能村登四郎の俳句の師というばかりでなく、俳諧研究の上でも大きな業績を残している。芭蕉の『奥の細道』研究には欠かせない「曽良随行日記」の発見者で、さらに翻刻本『曽良 奥の細道随行日記 附元禄四年日記』を発行して存在を世間に知らしめている。
そんな人物であるが現代では殆ど忘れられていると言ってよい。もう一度能村登四郎に関わるこの人物にささやかではあるが光を当ててみたい。
一、 山本安三郎の略歴
本名山本安三郎。俳号は六丁子(ろくちょうじ)・掃雲(そううん)・菟丈(とじょう)・一艸亭(いつそうてい)などと称す。
明治三年 三河国田原(現在の愛知県田原市・渥美半島)の生れ
一時文筆を志したが父親の急な死去により医学に志しを変え、東京の谷中清水町で小児科の医者となる。
明治四十二年二月まで俳諧で、其角堂永機の弟子である文合菴菟好に師事。
大正十一年一月 所有していた破笠翁作の芭蕉像の模像三十六体をつくり全国の芭蕉庵に頒布。(此のころは滝野川の中里の家に「蓑むし舎」と名付け居住)
昭和二年頃 中学時代の能村登四郎に俳句を指導。
昭和四〜五年 伊東に一艸亭という邸を建て移住。(登四郎の父が建築)
昭和七年頃 俳句や連句の会「伊東笹鳴会」を主宰。
昭和七年 急性肺炎で喀血した能村登四郎に伊東での転地療養を勧める。登四郎がいた
頃、一艸亭には彫刻家の平櫛田中やチベット探検家河口慧海など著名人の来訪があった。
昭和十年八月 医者の佐藤清一(十雨)が「伊東笹鳴会」に入会し安三郎の弟子になる。
昭和十三年夏 佐藤清一(十雨)の紹介で実業家斎藤幾太と会い所有していた「曽良随行日記」を見せてもらう。
昭和十三年秋 斎藤幾太が急死したため、息子の斎藤浩介(当時日立精機社長)から「曽良随行日記」出版の許可を得る。その後「曽良随行日記」の研究に没頭。
昭和十六〜十七年 熱海来の宮へ移住。(伊東の軍の療養所で俳句指導)
昭和十八年七月十三日 小川書房より翻刻本『曽良 奥の細道随行日記 附元禄四年日記』出版。序文は文学博士志田義秀。
昭和十八年秋 伊東笹鳴会同人たちにより安三郎の「世に生れ日本に生れ月と花」の句碑が伊東市の松月院に建立。
昭和二十二年十月二十四日死去(七十九歳)辞世句「閼伽は是れ月澄む松の下雫」
墓は豊島区駒込の染井墓地(現染井霊園)にある。
(略歴は、安三郎について書かれた文書から抜粋して作成した。内容に違いがある場合には一番身近にいたと思われる俳諧の弟子佐藤清一〈俳号十雨〉の記述を優先した)
二、 能村登四郎の師としての山本安三郎
安三郎を登四郎は伯父さんと呼んでいたが、実際には遠い親戚といった方が正しい。ただ近所に住んでいたことや能村家のかかりつけの医者として親交は深かった。
登四郎はこれについてエッセイ「笠翁の芭蕉像」(『沖』昭和四十六年一月号)で次のように述べている。
「掃雲(これも安三郎の俳号・筆者注)という人は私の母方の伯父で、山本安三郎といって谷中清水町に医師をしていた。私の家とのゆかりは祖母同士が姉妹であったという、所謂遠縁関係にあたったが、父はこの伯父の人柄を尊敬して兄事していたので、山本家と能村家とはまるで肉親のような関係にあった。私の名もそうであるが、子供の名は皆この伯父がつけた。また父は家族の一身上の相談はすべてこの伯父にしていたようである」
このように親しくしていた安三郎は医者のかたわら、俳諧の宗匠をしていた。病弱な登四郎に何か好きなことをやらせた方がいいと考えた安三郎は、中学生の頃から俳句のてほどきをはじめる。登四郎の一番上の兄も俳句に興味を持っていたので、月に一度程度句稿を見て朱で添削をしたりした。登四郎はその後俳句会にも出ると、点数を稼いだり、老人達から筋がいいとほめられたりしたことから俳句に夢中になる。改造社の五冊本の歳時記を買ってもらって暇さえあれば季語を覚えたという。ただ後に登四郎は、安三郎に習った頃の俳句は「馬酔木」の俳句と全く質の違ったもので月並という種類の俳句であったと言っている。その後どの程度の期間俳句の指導を受けたのかは定かではないが、そう長くはなさそうである。
登四郎は国学院大学に入学すると短歌に転向するが、大学二年の夏、急性肺結核で吐血。主治医とも言える安三郎がその時住んでいた伊東に転地療養することになった。そこで半年ほどのんびり療養に努めるのであるが、その合間に安三郎の別荘で、俳諧の古書を見せてもらったり、文学に関わる話相手になったりして過ごしたという。また別荘を訪れた平櫛田中や河口慧海などの有名人と会う機会もあったようである。伊東では俳句を詠むことはなかったが、文学への造詣を深める機会となった。
そして安三郎について「私の心の中に俳句という文芸の種を蒔いていった伯父掃雲という人の存在は、私はいつまでも忘れることはできない」(『沖』昭和四十六年一月号「笠翁の芭蕉像」)と述懐している。
登四郎がまた俳句を始めるのは、昭和十四年のこととなる。
若い時期の短い期間指導を受けただけの山本安三郎を能村登四郎の師と決めつけていいのかとの疑問をもたれる方もあるのではないかと思う。それについては『沖』昭和六十年七月号の能村登四郎の「秋櫻子墓畔」を上げておきたい。
「思いがけなく蛇笏賞を受けることになったので、何はともあれ秋櫻子先生に報告しようと染井墓地に出かけた。(中略)染井墓地にはもう一人私の俳句の師の墓がある。私の中学時代に俳句の手ほどきをしてくれた母方の伯父・山本安三郎という人で、一艸亭・六丁子と号した古俳諧の宗匠であった。(中略)この二人の師がいなかったら、私の俳句もなかったに違いない。」
三、「曽良随行日記」の第一発見者山本安三郎
安三郎の主宰する「伊東笹鳴会」のメンバーの中に佐藤清一(十雨)と言う人物がいた。この人は肝臓を専門とする医者であった。肝臓先生という名前で有名で坂口安吾の小説『肝臓先生』のモデルになり、今村昌平監督の「カンゾー先生」という映画にもなった。この佐藤清一が安三郎に「曽良随行日記」の所有者を紹介したのである。
清一の文章から「曽良随行日記」の発見から出版までの経緯について書いたものを要約する。
清一が昭和十三年に患者で往診先でもあった実業家斉藤幾太から見せられた俳諧の書物の中に芭蕉自筆の奥の細道と曽良の随行日記があった。すぐに俳句の師である安三郎に伝え、再度二人でそれを見せてもらった。その場で安三郎は「奥の細道」の方はあやしいが、「曽良随行日記」は本物であると判断した。随行日記を一ヶ月半程借りた安三郎は、これを出版したいと考える。ところが運悪く斉藤幾太が急に亡くなったため、息子の斉藤浩介に懇請したところ、条件付きで許しが出た。条件とは1.営利的にしないこと、2.所有者の名を明かさない事であった。その後五年狂ったように精魂傾け、昭和十八年に翻刻本『曽良 奥の細道随行日記 附元禄四年日記』(日記本体・奥の細道俳諧書留・奥の細道名勝備忘録・曽良元禄四年近畿巡遊日記・延喜式神名帳・加えて奥の細道随行日記異同比較考・奥の細道天候と旅宿一覧表)の自費出版にこぎつけた。紙のなかった戦時中に六千部その後再販も六千部発行し売り切れとなった。
安三郎はこの本の「はしがき」で「この二百五十年来、世に出たことの無い日記を眼前に見せられた私は、この日記が永年災害等にもかゝわらず散佚もせず同家に完全に保存されてあった事を深く深く感謝せずにはいられないと共に、芭蕉研究上の至宝とも云うべきこの日記を研究資料として世に公にさるる事ともならば、芭蕉研究は申す迄もなく江戸文学研究の上にも一層の精華を発揮し得らるべきを信じ、切に公刊せられんことを願望せしに、同家にても私の強いての希望を快く容れられん、公に刊行し以て斯道学界の為めに提供せらるる事となったのである」
安三郎の発見の昂りと世に出す使命感の感じられる文章である。そして私利私欲ではなく、ただ後世の芭蕉研究や江戸文学研究に資するためにこの刊行を考えていることに深く感銘をうけるのである。
これほどまでに情熱を傾けた出版であったのだが、その後の研究で残念なことに内容に誤読や誤植が多数あることがわかってしまう。その原因は所有者から出された二つの条件を厳しく守ろうとしたためすべて一人で作業を行ったこと、安三郎は七十歳を超えていて自身の体力に衰えがきていたこと、また肝臓病の持病があったりして出版を急いだことなどが考えられる。所有者の条件を守るため序文を依頼した志田義秀に対してさえ原本を見せないという徹底ぶりであった。その後原本は真筆と判断されたものの、岩波書店から出版される時には安三郎の翻刻は採用されなかった。もう一つ安三郎が不運だったのは、当初「曽良随行日記」と一緒にあった芭蕉の「奥の細道」を疑わしいと判断し手をつけなかったのだが、後に正本と判断され『曽良本おくの細道』となったことである。
四、 山本安三郎のその他業績と活動
幅広い安三郎の活動にも簡単に触れておきたい。
(1)「伊東笹鳴会」の主宰。
佐藤清一の記録によると開始は昭和七年ごろで連句と俳句を指導していた。安三郎は特に連句の指導に熱心で、衰退一途であった連句を何とか存続・繁栄させたいとの強い願いを持っていたようである。四十人位のメンバーがいたようだ。
参考に安三郎(六丁子)の句を十句あげておきたい。
若鮎やその香も花の吉野川
春の夜や鼓打ち出す下屋敷
相手なき酒や隣の夕ざくら
竹屋呼ふ声の若さよ朧月
梅雨十日山籠して山を見ず
火取虫硯の海に溺れけり
秋暑し埃おさへの通り雨
笹舟の夫れにも露の載せてあり
隣から火種を貰う夜寒かな
古猫の炬燵の欠伸うつりけり
(『句集肝臓先生』六丁子翁遺稿抜萃句より)
(2)芭蕉研究
安三郎は芭蕉研究にも熱心であった。『芭蕉の連俳と月花定座(芭蕉連俳と後世の連俳)』や『芭蕉俳諧の變遷(附正風に付て)』などの論文を残している。内容で特筆すべきは安三郎の連句に対する考え方である。芭蕉以後の連句は徐々に作法を厳密に守るという雁字搦めの方向に進み連句衰退へと進んだと安三郎は考えた。その式目順守は芭蕉の考え方によるものと世間ではされていたが、芭蕉の連句を詳細に解析し、芭蕉は式目にそれほど拘泥せずもっと自在に連句を考えていたことを検証してみせたのである。これも連句を何とか後世に残したいという安三郎の強い願いからでたものと考えられる。
(3)古書画・墨跡・焼物等の鑑定・収集。
安三郎は殊に渡辺崋山の書画鑑定に掛けては日本一と言われ、収集面では古書画殊に古俳人関係でいいものを所蔵していた。芭蕉真筆の鹿島詣、其角・許六の幅、越人消息、嵐雪・蓼太・不角の批点帳などがあったが、それらの所蔵品は肝臓先生と呼ばれていた佐藤清一に譲られ伊東の「肝臓先生記念館」で一般公開されていたようである。ただ平成二十二年頃私が尋ねた時にはすでに記念館は閉館されていた。
(4)其角の後継
安三郎は七世其角堂永機(えいき)の弟子で菟好(第二の高弟)に俳諧を学び菟丈とも名乗っていた。師の菟好は永機によれば連俳において兄弟子の機一(きいつ)にも優っていたという。
其角堂(または晋派)という名籍は
「其角→二世〜五世湖十(こじゅう)→六世老鼠肝(ろうそかん)→七世永機→八世機一→十一世(西村)顧十」と続いたが、昭和三十二年頃で途切れたようである。
その後国文学者で連句・俳句にも造詣が深い東明雅の「連句界の為にも名蹟は絶やしてはいけない」などの助言により、平成十八年十二月十七日に土屋実郎氏が其角堂十二世を襲名した。
この土屋氏への系譜は
「其角堂七世(穂積)永機→菟好→菟丈(山本安三郎)→(浅羽)鶯曙→(土屋)実郎」とされている。しかし私が見た安三郎の著書の限りでは、系譜に名は連ねているが其角への特別の思いは感じられない。
五、 山本安三郎の性格
伊東笹鳴会の同人たちにより昭和十八年に建立された安三郎の「世に生れ日本に生れ月と花 六丁子」の句碑が伊東の松月院にあるが、碑の裏に人柄に関わる記述が漢文で添えられている。安三郎の孫弟子という土屋実郎氏の読み下しによると「風格古淡にして世に求むる所は温容なり。人々の接するや皆之に親しむ。」とある。おおらかで弟子たちに非常に親しまれていたようである。
能村登四郎は次のように述べている。
「多くの文人墨客との交友があり、心ある人たちに尊敬されていたが、頑固で人を許さない一徹の風があり、唯一人の跡取り息子との間は不和であったため、身辺は常に寒々としていたようであった。(「笠翁の芭蕉像」『沖』昭和四十六年一月号)縁戚関係がある親しさからか、登四郎にはかなり辛辣な表現もある。
おわりに
今回私は能村登四郎先生と山本安三郎とのつながりについて一番書きたいと思ったのであるが、資料が少なく十分意を尽くせなかった。ただ安三郎の俳諧研究や実作への情熱は、登四郎先生にも強い影響を与えたのではないかと感じられた。
この文章には特に新しい発見があるわけでない。ただお世話になった登四郎先生に関わることを少しでも残しておきたいと思っただけである。
本稿作成にあたり『沖』能村研三主宰から資料をいただいたことをお礼申し上げたい。
参考文献
『曽良奥の細道随行日記 附元禄四年日記』山本六丁子編 小川書房 昭和十八年七月三十日
『芭蕉俳諧の変遷』山本安三郎 非売品
『肝臓先生』佐藤十雨著 春歩堂 昭和二十八年四月三十日
『増補改訂肝臓先生』佐藤十雨著 八木書店 昭和二八年四月三十日
『句集肝臓先生』〈「山本六丁子先生と連句」「芭蕉の連俳と月花定座(山本六丁子)」「山本六丁子先生と私」「六丁子翁遺稿抜粋句」〉佐藤十雨著 八木書店 昭和五十五年五月二十五日
「山本六丁子先生」土屋実郎 『連句研究』昭和五十三年
「山本六丁子先生その二」土屋実郎 『連句研究』
『曽良本「おくのほそ道」の研究』村松友次著 笠間書院 昭和六十三年二月二十九日
「曽良の『奥の細道随行日記』をめぐりて」杉浦正一郎『連歌俳諧研究』昭和二十六年第一巻第一号
「曽良日記の発見が奥の細道研究に及ぼした影響」岩田九郎『国文学解釈と鑑賞』昭和二十六年十一月号
「曽良日記の真実性」小宮豊隆『国文学解釈と鑑賞』昭和二十六年十一月号
『芭蕉研究』杉浦正一郎著 岩波書店 昭和三十三年九月二十日
「笠翁の芭蕉像」能村登四郎『沖』昭和四十六年一月号
「秋櫻子墓畔」能村登四郎『沖』昭和六十年七月号
『能村登四郎 俳句の楽しみ』能村登四郎 日本放送出版協会 昭和六十三年十一月二十日
(俳句雑誌『沖』平成28年7月号より転載) |