1.はじめに
「八百屋お七」のお話はご存知の方も多いでしょう。井原西鶴の『好色五人女』の題材にもなって有名になりました。この話の元になった実話は次のようなものです。八百屋の娘であるお七は天和二年(一六八二年)一二月二八日、大火で焼け出され、親とともに正仙院というお寺に避難します。お七は寺で一人の若い僧と恋仲になります。家が再建され自宅に戻ったお七でしたが、若い僧のことが忘れられません。もう一度家が燃えれば、また寺に行けると考え自宅に火をつけてしまいます。小火(ぼや)で終わるのですが、お七は放火の罪でつかまり鈴ヶ森刑場で火あぶりになります。
天和の大火で実はお七と同じように芭蕉も焼け出されているのです。困った芭蕉は山梨にいた高山伝右衛門の世話になることになりますが、お七のような色恋の話は出て来ません。
「高山伝右衛門とは」
俳諧作者。俳号麋塒(びじ)。慶安二(一六四九)〜享保三(一七一八)、七〇歳〈墓碑銘〉。本名高山伝右衛門繁文。初号、柳梢。別号、幻世。甲斐国谷村、武蔵国川越と転封した秋元但馬守喬朝の城代家老(一二〇〇石)。芭蕉初期の門人。天和二年(一六八二)冬、江戸大火で被災した芭蕉は、翌年一時期麋塒を頼った。作品は『東日記』以降に散見。(俳文学大辞典抜粋)
今回は火事が起こる少し前の時期に書かれた、その高山伝右衛門に宛てた芭蕉の手紙をご紹介したいと思います。この書簡は伝わっている芭蕉の手紙の中で一番古いものです。
2.延宝・天和期の芭蕉
書簡に入る前にこの時期の芭蕉の動静について、一応見ておきましょう。
当時三〇代後半の芭蕉は、江戸で俳諧宗匠としての地位を固めたものの、急に深川での隠遁生活に入ります。原因についてはいろんな説がありますが、江戸ではやっていた点取り俳諧がいやになり、距離を置きたかったのではないかと言われています。新しい俳諧を模索し、漢詩文調の中に自分らしさを見つけようとしていた時期でもありました。
3.高山伝右衛門宛の手紙(読みくだし文)
延宝九年五月十五日付 高山伝右衛門宛書簡(芭蕉三十九歳)
@ 書簡前半
五月十五日 松尾桃青
高山伝右衛門様
貴墨かたじけなく拝見致し、まづもつて御無為(に)御座なされ、珍重(に)存じ奉り候。私、異義無くまかり有り候。よつて御巻拝吟致し候。もつとも感心少なからず候へども、古風のいきやう多く御座候て、一句の風流おくれ候様に覚え申し候。その段、ちかごろ御もつとも。まづは久々ここもと俳諧をも御聞きなされず、その上、京・大坂・江戸ともに俳諧殊の外古くなり候て、皆同じ事のみになり候折ふし、所々思ひ入れ替はり候を、宗匠たる者もいまだ三、四年以前の俳諧になづみ、大かたは古めきたるやうに御座候へば、学者なほ俳諧に迷ひ、ここもとにても多くは風情あしき作者ども見え申し候。しかる所に遠方御へだて候て、この段御のみこみ御座無き、御もつとも至極に存じ奉り候。玉句の内、三、四句も加筆仕り候。
(現代訳)
あなたのお手紙ありがたく拝見いたしました。まずお元気だということ、めでたいことです。私の方も無事過ごしております。お送りいただいた作品拝見しました。感心するところも少なからずありましたが、古風な付け方が多くあり、一句が俗っぽくなっているように感じました。でもそのことはもっともなことなのです。まずはしばらくの間こちら江戸の新しい俳諧の動きもお聞きになっていないことでしょう。その上京都、大坂、江戸でも俳諧はことのほか古くなっていて、みんなが同じ様な状況で停滞しています。時々にこだわることは変わるはずなのに、宗匠でもいまだに三・四年前の俳諧に馴染み、大かたは古めいている状況です。宗匠に学んでいるものもなお俳諧に迷い、江戸においても多くの味わいのない作者達がいます。甲斐のような遠く離れているところですから、このようなこと、ご存知ないのももっともなことだと思います。いただいた句の内、三・四句は添削させていただきました。
A 前半部分の注目点
芭蕉は言葉を出来るだけソフトにはしていますが、「あなたの句は古くて駄目だ」とはっきり指摘しています。俳諧の宗匠であるとはいえ市井人の芭蕉が、大名の家老にこれだけのことが言えるのは凄いことです。芭蕉の自信もさることながら、才能ある人間には立場を超えて素直に教えを乞う家老もえらいと思います。厳しい階級社会にありながらも、江戸時代人の柔軟性が感じられて微笑ましくなります。
B 書簡後半
句作のいきやう、あらましかくのごとくに御座候。
一、一句、前句に全体はまる事、古風・中興とも申すべきや。
一、俗語の遣ひやう風流なくては、また古風にまぎれ候事。
一、一句細工に仕立て候事、不用(に)候事。
一、古人の名を取り出でて、何々のしら雲などと言ひ捨つる事、第一古風にて候事。
一、文字あまり、三、四字・五、七字あまり候ても、句のひびきよく候へばよろしく、一字にても口にたまり候を御吟味有るべき事。 (以下略)
(書簡ではこの後に、連句の付け方を具体的な例により指導していますが、今回は省略しました)
(現代訳)
句を詠む方法は、概ね次のようになると思います。
(1) 連句で句を付けるのに、前の句に全体が当てはまってしまうのは古風(貞門風)とも中興(談林風)とも言えます。(変化がないとだめだと言っている)
(2) 俗語の使いようは風流でなくては、これも古風と変わらないと言えるでしょう。(俗語も使い方一つで味わいが変わるということか)
(3) 一句を器用に仕立てることは、やらないこと。(小手先だけでうまく作ってもいい句にはならない)
(4) 昔の人の名前を使って、「何々の白雲」などと詠んでしまうのは、一番の古風になるでしょう。(有名人の名前を入れて句を作るのももう古い手法だ)
(5) 三、四字、五、七字の字余りになっても、句の響きが良ければそれで良く、例え一字であっても、読んでみて口にたまるようであれば、もう一度考えてみることです。(字余りも句にリズムがあればよい)
C 後半部分の注目点
前段で句が古いと指摘した芭蕉はこの段では、こと細かな指導をしています。
芭蕉の指導については、『去来抄』や『三冊子』のように弟子たちが師の言葉を書き遺すことによって伝わっているのがほとんどです。だから書簡による直接の指導は非常に貴重なものです。特に俗語の使い方や字余りの考え方は現代でも参考になると思います。
ただ内容的にはそれほどありがたがることではないかもしれません。というのは、談林派の俳人であった岡西惟中が、すでに延宝七年刊の『近来俳諧風躰抄(下)』に「俳諧は常の詞の俗をもちゆれ共、俗中の俗はこのむべからず。俗にして俗ならざる詞、よくよく工夫すべし(俳諧は俗な言葉を使うけれども、俗な言葉の中でもあまりに俗なものは使わない方がよい。俗であって俗にならない言葉を十分工夫すべきである)」と述べ、同じ岡西惟中が『続無名抄』(延宝八年刊)では「此頃世間よからぬ人の俳諧の詞つゞきに、一句のたよりもなく、むさと、何の山・何の雲と結び、あらぬ詞のはやる(近頃世間では、上手でない人の俳諧の言葉のつながりに、一句の関連もなく、下品に、何の山・何の雲とつなぐなど望ましくない言葉がはやっている)」、「口にとなへてなだらかならぬは、下品とおもふべし。連歌もたゞやすらかなるを本道とするなり。俳諧とても同じこと(口で言ってみてなだらかでないのは、出来が悪いと思え。連歌もただやすらかであるのを本筋とする。俳諧も同じことである)」とも言っています。
蕉風確立もまだ先のことであり、芭蕉の教えもこの時代には、他の宗匠達の指導とそう変わらなかったのではないかと考えられるからです。
4.おわりに
この書簡の翌年に火事で焼け出され、出状先である高山伝右衛門に世話になることになるとは、芭蕉も想像していなかったに違いありません。詳しくはわかっていませんが、山梨で高山伝右衛門のゆかりの人たちに面倒をみてもらうこととなったのは間違いないと思います。
天和三年冬には江戸深川に再建された庵にもどることになるのですが、旅ごころがわいて其の次の年の貞享元年八月には『野ざらし紀行』の旅に出ることになります。
芭蕉の死後すぐに書かれた其角の『芭蕉翁終焉記』に、芭蕉が火事に焼け出された時の気持ちを推し量った記述があります。
「天和三年の冬、深川の草庵急火にかこまれ、潮にひたり、苫をかづきて、煙のうちに生きのびけん、是ぞ玉の緒のはかなき初め也。爰に猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発して、其次の年、夏の半に甲斐が根にくらして、〈以下略〉」
(現代訳)
天和三年(其角の思い違いで実際は天和二年)の冬、深川の草庵が急な火事にかこまれて、海の潮につかり、苫をかぶりて、煙の中を生きのびたのを、これこそは生まれたことをはかなく思われたことのはじめだろう。ここでこの世は不安であり、定まった住むところも無いと悟り、次の年の夏の半ばには甲斐の富士の麓に暮して、〈以下略〉
火事により芭蕉は世の無常を感じ、定まった場所に住むことに疑問を感じたのではないかと其角は推測しています。
火事による気持ちの変化に加えて、山梨の自然のなかで暮らすことで違う土地の魅力を感じ旅への気持ちが大きくなったと考えても不思議ではありません。
結局天和の江戸の大火は、八百屋お七に恋と死と言う波乱の生涯を与え、芭蕉には新しい俳諧を見つけるための手段としての旅を決意させるきっかけとなりました。大火でお七は若い僧に恋をし、芭蕉は旅に恋をしたと言えるかもしれません。
参考資料
『好色五人女全注釈』前田金五郎(一九九二年 勉誠社)『芭蕉書簡大成』今榮蔵(二〇〇五年 角川学芸出版)
『全釈芭蕉書簡集』 田中善信(二〇〇五年 新典社)
『芭蕉の手紙』 村松友次(一九八五年 大修館書店)
『注解芭蕉翁終焉記』今泉準一(二〇〇二年 うぶすな書院)
『近世俳句俳文集・新編日本古典文学全集72(芭蕉翁終焉記)』雲英末雄他校注(二〇〇一年小学館)
『芭蕉と京都俳壇―蕉風胎動の延宝・天和期を考えるー』佐藤勝明(二〇〇六年八木書店)
『続無名抄他―第二期近世文学資料類従・古俳諧編47』近世文学書誌研究会編(一九七六年 勉誠社)
『俳文学大辞典 普及版』尾形仂他編(二〇〇八年 角川学芸出版)
(俳句雑誌『出航』第54号より転載)
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