芭蕉会議「論文を読む会」、「明治人の俳諧への郷愁‐寅彦と国男の場合」
2013年9月14日 発表者 伊藤無迅
〈資料2〉テキスト2の要約
◇テキスト2:柳田国男「俳諧と俳諧観」
(『定本柳田国男集第七巻』筑波書房、昭和四十三年十二月二十日)
国男の文体は和歌から来ている(来嶋靖生)と言われており判りにくい。このため以下の要領で箇条書き化した。
凡例 ・ → 筆者がテキストを読み、ポイントを簡略化し纏めた文章。
* → 原文をそのまま転記したもの。但し旧漢字体は新漢字体にした。
ゴシック(太字) → 発表者の解釈で要点と思われるヶ所。
一.
・寺田さんには遂にお目に掛ることはなくなってしまった。
*最も残念だったのは昭和七年の秋、京都の新村氏から手紙が着て、この三人と斉藤茂吉君と、一晩集つて話をして見ようぢやないか。其世話をしないかといふ申入れがあつた。
▽新村氏→新村出(1876~1967)、京都大名誉教授、言語学・文献学の泰斗、「広辞苑」の編者として著名、二人は知己の間柄であった。
*是は前年にこの四人の随筆が一冊になつて、いはゆる円本時代を賑はしたのを、お互ひに好因縁と感じて居たからであった。
*寺田、斉藤の二君からも、すぐに気持ちのいゝ同意の返事が来た。
・十月下旬の或日と或場所とを予約し楽しみにしていたが、思いがけなく平福百穂君の急病で斎藤氏が秋田県横手へ駆けつけたのでお流れになった。
▽平福百穂(ひらふくひゃくすい、1877〜1933年)日本画家、絵画における自然主義、写実主義を主唱。東京美校教授。アララギ派の歌人。
・そうしているうちに百穂画伯が長逝し、私たちも驚きかつ悲しみ、もう一度是を言い出す力が抜けてしまい、再び以前のように(寺田さんの)作品をただ愛読し、時を経て噂を聞くだけの間柄になってしまった。
・同じ時代に生まれ合わせ、同じ都会の空気を吸っているが、存外頼りないものだと感じざるを得ない。
・殊に学者には老後と言うものがないのだから、やはり前々からお邪魔し合うほどの木戸口みたいなものを開けておかないと、こういう自由な広々とした花苑に入って遊ぶ事が出来ない。
・社中だの門下だのという言葉には、私は久しく反感を抱いていたのだが、新しい時世にも、わずかに形を変えて、何かそれに類するものがある方がよかったと遅まきながら思うようになった。
・寺田さんに大きな感化を受けていることは事実だが、寺田さんの学問の本質、今迄の業績の大きな価値とは別に、これからさらにどういう方向に展開成長しようとしていたかを知ることが、残念ながら私には余りにも遅すぎた。
・これは必ずしもこちらの怠慢ではなく、偏に我々の因縁が未だ熟していなかったのである。
・例えば百穂君はまだ若かったのだから、ほんの一年か二年、達者でいてくれるか、或は新村君があの手紙を数週間早く書いてくれたら記念すべき四人の会は、きっと成立していただろう。
・これは必ずしも年寄りの愚痴ではなく、これには計算できる相応な損失があったということを、むしろ後々のためにここで、説明しておきたい。
二.
*この画餅に帰した雑談会の話題は、少なくとも自分に関する限り推定できる。
*あなたの御著書は大部分拝見して居ますとか、中には三度四度、又取出しては愛読するものが有りますといふ類の、そんな月並みなことは嫌ひだから私は言わなかったらう。
・当時の好奇心の焦点は、どうして寺田さんが、あれ程執心に連句の俳諧に遊んで居られるのか、それを尋ねたらきっと新しい答えが得られ、又同席の二老も多分耳をそばだててそれを聞いたであろう。
・もしそうだったら我が邦の俳諧の歴史が、或は僅かばかり曲折したかも知れないと私は思う。
・松根東洋城君は四十何年前の旧友だった。会えば懐かしく昔を語るが、会うことが稀にしかなかった。
・ある年の暮春に多摩川の玉翠園でふと行き合せ、ほんの十分ばかりの立話で別れたが、それから私は『渋柿』(俳誌)をもらって読むようになったが、雑誌の句など水の如く流れ去ってしまう。しかしこの宗匠が風変わりな優れた友人を二人持っていることを知った。
▽風変わりな優れた友人→寺田寅彦と小宮豊隆と思われる。
・(後に)このような展開があることを予測せず、とうとう引っ張り込んだなというような一人合点の興味に微笑していた。
・それは丁度(四人が会う)会合を計画していた年と同じであったような気がする。これも一種の消極的奇縁であろうか。
・私は(このもらった)雑誌(『渋柿』)に、この間まで連載されていた連句雑俎というものを知らないでいた。
・「蒸発皿」の中には出ているというが、読んだ記憶が全く残らず、本も誰かが持っていってしまった。
・最初はたぶん何にでも興味を持つ人だ、という類の俗念が先に立ち、こんな大きな出来事とは考えなかったからであろう。
・始めて寺田さんと俳諧とを不可分のように思い出したのは、この近所の東宝映画の諸君、山本嘉次郎君一列の先輩たちがソ連の誰とかの暗示に動かされ、次第に寺田氏のモンタジュー論なるものに傾倒し、自分達も天野雨山翁を招いて連句の実習をしているという風聞を耳にしてからで、ここで私は改めてこの前の(寺田氏の)全集を買い求め、二つの芸術(たぶん映画と俳諧)の俳諧的な連関を、明らかにしようと試みたが、悲しいかなもう幾多の不審があっても、それを尋ねる先は遠く白雲の彼方となっていた。
▽天野雨山→俳人、古俳諧に精通し、『蕉風』を主宰。俳諧研究に優れ著書に『俳豪鳥酔』『芭蕉七部集評釈』等がある。昭和24年(1949)歿、59才。
・どんな頓珍漢な質問をしたかもしらないが、ともかく私は何年か早く、今少し賢くなる機会があったのを、ただ何と無く取り逃がしてしまって、こうして一人で淋しがっているのである。
三.
・あるいは、あんなにぐんぐんと先に行ってしまわずに、ちっとは待ち合わせてやればよかったと、寺田さんの方でも思っているかも知れない。
・私の俳諧修行は未熟ながらも古い。
・子規が序説を書いた三佳書は、明治三十二年に俳書堂から出た時にすぐ買い、とじ糸が擦り切れる程読み、製本をしなおしてまだ持っている。
▽三佳書→サンカショ、ホトトギス発行所が明治三十二年に発行した小形本『俳諧三佳書』、子規の序および解釈で猿蓑のみを掲載。
・大震災の時はロンドンにいたが、家族の音信を待つ間にその愁いを忘れるため、西馬校本の七部集を携えて北の海岸を巡歴し、車中であの附け合いの大部分を暗記して来たのが、今でもまだ切れ切れに、寝られぬ夜の楽しみに残って居る。
▽西馬校本の七部集→志倉西馬(しくらさいば、1808‐1858)、江戸時代後期の俳人。
高崎の児玉逸淵に学ぶ、江戸に出て惺庵(せいあん)を開き宗匠として活躍。「俳諧七部集」の定本づくりに努める。没後弟子の三森(春秋庵)幹雄らにより「標注七部集」として刊行された。(『日本人名大辞典』講談社より)
*たった一つの心得ちがいは、あの時寺田さんの話を聞かなかったばかりに、これは昔のもの、過ぎ去った芸術、いわゆる鑑賞以外に、再び後代の文化と交渉のないもののように思ったことで、罪を人になすくり付けるとすれば、是は全く根岸の悪影響だった。
▽根岸→正岡子規
*あんな古びた万葉ぶりの物の言ひ方すら、アロハを着て大道を闊歩して居る今日、向ふに無いから、知らないからと戸棚の隅っこにしまひ込ませようとしたのは、其動機が少しばかり恠しい。
*ところが寺田さんはあたり構はずに、これは西洋にないから日本独特だから大いに復興させようと言われているのである。それを私は知らないばかりに、正面に立って拍手を送らなかったのが、残念でたまらない。
*要するに是は私の立ち遅れ、気づきが遅かった為でもあるが、一つには、又眼のつけどころのちがいでもあった。
・大戦も終わりに近くなると、人はいらいらと雲丹か針鼠の如く、刺すことばかりを考えていたけれども、是にはまだ今に今にという慰撫もあった。しかし勢い窮まり望みは霧と消えてからの、二年三年の苦悩は耐えがたかった。
・女も男も口をへの字に結び、年中睨むような目で押し合っているのを見ると、あゝ笑いが恋しいと思わずには居られなかった。
*貧と憂愁の底積みに息づきつつも、なほ僅かな隙間から忍び込む人生の可笑味をさがし、指ざしても人と共にしばし心のくつろぎにしようとした蕉門の俳諧にはなつかしいものがあった。
*あれをもう一度という私たちの願いは、遅まきながらもやや、寺田さんよりは広かった。
*しかもこの二つの趣旨に抵触はなく、二つ合わせたら更に力強く世に行はれ得ることを、私は久しく心付かずに居たのである。
四.
*心理の方面の考察はこの次にすると言われたが、それが進めば勿論追々と判って来たことと思ふ。
*連歌の昔から、否それよりも遥か昔の相聞の時代から、この文芸には今言うところのスポーツ味、挑む試みるといふ楽しい刺激があった。
*それが俳諧となると、一段と互ひの気を取られることが濃くなって来るのである。男女の間に在っては容易に侮られまいとする努力、これは今日の民謡にまで続いて居る。
*差合い、去嫌い、月花の座などの式目は単なる障害物競走ではなく、むしろ押詰めて相手の機転を見ようとする難題の掛け方で、蕉門にも其の例の面白いものが多い。
*つまり連句は他流試合が晴の場で、宗匠の指導が無ければ成り立たぬものの如く教え込まれて居たのは旦那衆だけである。
*それなのに、どうしてあなた方は至って仲のよい三人だけで、明けても暮れても附け合いをして居たのですかと、一ぺんは遠まはしにでも私は詰問して見たかった。
*話は尽きないがもう端折らなければならぬ。
*連句がもと百韻を通例として居たのを、芭蕉の世を境として、三十六句の歌仙の形に移行したのは、明らかに計画であった。
*是でも未だ考えたらぬという人はあったか知らぬが、もともと一夜で一巻を巻き終わるのが法則であって、以前は即応捷対をもって賞翫とし、寧ろさういふめまぐろしい渡りの中から、稀々ならず好句の飛び出すことによつて、群の昂奮を高めようとして居たと思われる。
*「渋柿」の風雅人が葉書を利用し、又は三句五句づゝ間を置いて、長い休止をして居たことは大きな改革であった。
*それでもよろしいといふ理論はきつと成立つであらうが、少なくとも是を基準にして、西鶴以来の即吟を解説することはできない。
*俳諧を次の時代の楽しみに引継ぐには、是もやはり寺田さんに考へて置いてもらひたい問題の一つであった。
*私などの僅かな経験でも、考案に時をかけると片隅では雑談が始まり、一心になりきることが六つかしく、従って音楽にも映画にもたとへつべき、まとまつた作品を留めることが望まれない。
*修業はやはり延宝の二十歌仙のやうに独吟の間に積み重ぬべきものかとも思ふ。
*少しの年月の喰ひちがひの為に、斯ういふ点までを寺田さんに考えてもらふことが出来ず、其為に折角の双方の願望は縒(よ)り合せる折がなくて、依然たる発句万能の形勢を見送らねばならぬのは、それこそ笑えない公の悲しみである。
了
|