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参考資料室
連句を楽しむ その三
市川 千年

  少し歴史を振り返ろう。
  正岡子規が「発句は文学なり、連俳は文学に非ず。」(明治二六年「芭蕉雑談」)と評価した連句を、高浜虚子は「聯句はさまざまの宇宙の現象、それは連絡のない宇宙の現象を變化の鹽梅克く横様に配列したものである。」「聯句の面白味は半分その變化の點に在るのだ。」「蓋し聯句中の或る一句の趣味は其の句のすぐ前の句、及其の句のすぐ後の句の聯想によつて助けらるゝが為め(恰も俳句が季の者によつて助けらるゝが如く)季のものゝ助けを借らずとも充分に詩趣を運ぶことが出来る。」と「ホトトギス」第八号(明治三二年五月)で擁護している。
  一方、子規は「自分は連句といふ者余り好まねば、古俳書を見ても連句を読みし事無く、又自ら作りし例も甚だ稀である。然るに此等の集にある連句を読めばいたく興に入り感に堪ふるので、終には、これほど面白い者ならば自分も連句をやつて見たいといふ念が起つて来る」と言っている事実がある。(「ホトトギス」第三巻第三号(明治三二年十二月)「発句を連句一巻から切り離し、これに「俳句」という名を付けて、新しい芸術とし」(『連句辞典』)「短詩形として自覚を明確にし」(『俳諧大辞典』)「地発句(ぢほっく・連句を伴わない発句)を新生させた」(『俳文学大辞典』)正岡子規は明治三五年九月十九日に死去。
  その二年後の「ホトトギス」明治三七年九月号で虚子は、「俳諧といへば俳諧連歌の事である事はいふ迄も無いが、此明治の俳運復興以来文學者仲間には俳諧連歌は殆ど棄てゝ顧みられ無いで、同時に発句が俳句と呼ばるゝやうになつて、俳諧といふ二字が殆ど俳句といふ事と紛らわしくなつた。」と冒頭で述べ「連句論」を掲載。蕉門の『猿蓑』の「市中は」歌仙を「法則」「意味」「私見」と「三條」に分けて論じ、連句の文学的価値に迫った。
  同年十月、虚子は、夏目漱石、坂本四方太(ホトトギス選者)と三吟歌仙を巻いている。その平句の一節は次のように展開。人事句を楽しんでいることがよく分る。

    反吐を吐きたる乗合の僧    四方太
  意地惡き肥後侍の酒臭く     漱 石
    切つて落せし燭臺の足     虚 子

  発句にて戀する術もなかりけり  虚 子
    妹の婿に家を譲りて      四方太
  和歌山で敵に遭ひぬ年の暮    漱 石

  なお、この歌仙が巻かれた翌年の「ホトトギス」明治三八年一月号に漱石の「吾輩は猫である」が発表された。さて、「花鳥諷詠と申しますのは花鳥風月を諷詠するといふことで、一層細密に云へば、春夏秋冬四時の移り變りに依つて起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂であります。」という虚子の自序(『虚子句集』春秋社 昭和三年)対して川崎展宏は高浜虚子全集(毎日新聞社)の月報E(昭和四九年四月)で次のように述べている。

「このよく知られた、棒のような定義に、昭和初年代、反ホトトギスの青年たちはいらだったことだろう。いらだったのは「近代」である。俳句を一個独立の近代詩たらしめようとする者たちにとって、今更何が花鳥風月か、ということになる。新興俳句から、いわゆる前衛俳句に至る烈しい俳句近代化の、ないしは現代化の運動は、子規の俳句革新の意図を、それぞれの年代の青年たちが、彼らの生きた時代に力点を置いて推し進めた運動であって、つねに、俳句が現代詩としての問題意識を進んで担おうとした結果であった。連句の座が崩壊し、そこから発句ではなく俳句として出発した近代俳句の、一つの必然の道なのである。
  虚子の「花鳥諷詠」は、いまにして思えば、連句の座を失った近代にあって、なお人々の心に残っていた花鳥風月への思ひを拠りどころに、何とかして発句性を回復しようとしたものであった。」

  「連句の座」(もちろん芭蕉の座は失われている)が脈々とつながっているから、こうして拙文を書かせてもらっているわけで、私などはこの虚子の花鳥諷詠論はまさに連句のことを的確に表現していると感じる者である。「連句の座を失った近代」に「連句雑俎」(昭和六年)、「俳諧の本質的概論」(昭和七年)を著し、松根東洋城、小宮豊隆らと盛んに連句の実作も試みた寺田寅彦の熱い思いを紹介しよう。  

  「この芸術はまたある意味で近代の活動映画の先駆者であり、ことにいわゆるモンタージュ映画や前衛映画、そうしておそらく未来に属するいろいろの映画芸術の予想のようなものでもある。それだのに、この「俳諧」という名が多くの人には現代の日本人とは何の交渉もない過去のゆう霊の名のように響くのは何ゆえか。その少なくも一つの理由は、これが従来ただいわゆる宗匠たちのかび臭いずだ袋の奥に秘められて、生きて歩いている人々の、うかがい見るのを許しても、手に取りはだに触れることを許されなかったせいであろう。俳諧自身はかび臭いものではない。いわゆる「さび」や「しおり」は枯骨のようなものではなくて、中には生々しい肉も血もあり、近ごろのいわゆるエロもグロもすべてのものを含有している。このユニークな永久に新鮮でありうべき芸術はすべての日本人に自由に解放され享有されなければならない。そうしてすべての人は自由に各自の解釈、各自の演奏を試みてもさしつかえないものである。俳諧も音楽同様に言葉や理屈では到底説明し難いものだからである。」(昭和六年一月三十日、東京朝日新聞『芭蕉連句の根本解説』(太田水穂著)の書評より抜粋)

    通されて二階眩ゆき若葉かな 寅日子
     まゐらす茶にも夏空の雲   行  人

  これは、行人こと詩人の尾崎喜八が、生前の寅彦の句を発句として昭和二三年に連衆二人と巻いた脇起り歌仙の付合。座の成立、それは他者と共に楽しむ所から始まるのである。

(俳句雑誌『蝶』202号掲載(2013年7・8月))