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参考資料室
私の好きな芭蕉の手紙W(芭蕉の毒舌)
安居 正浩

1. はじめに
 芭蕉が「毒舌家」だと言ったのは、芥川龍之介である。『芭蕉雑記』という作品で龍之介は「芭蕉は一面理知の鋭い、悪辣を極めた諷刺家であり、芭蕉の口の悪いのには屡(しばしば)門人たちも悩まされたらしい」と書いている。また「もし芭蕉が同じ時代に生きていたら、自分の『芭蕉雑記』も得意の毒舌の先にさんざん飜弄されたことであろう」とも言う。
 龍之介は『去来抄』などから、その毒舌の具体例を示しているのだが、私は芭蕉書簡から同じ様な例を探してみたいと思う。芭蕉の違う一面が見えてくるかもしれない。

2. 向井去来宛の手紙(一部抜粋・読みくだし文)

 @ 元禄五年五月七日付 去来宛書簡(芭蕉四十九歳)

盤子は二月初めに奥州へ下り候。いまだ帰り申さず候。こいつは役に立つやつにて御座無く候。其角を初め連衆皆々にくみ立て候へば、是非無く候。もつとも投節何とやら踊りなどで、酒さへ飲めば馬鹿尽し候へば、愚庵気を詰め候こと成りがたく候。定めて帰り候はば上り申すべく、そこもとへ訪ね候も御覚悟になさるべくと存じ候ゆゑ、内語かくのごとくに御座候。史邦へもひそかに御伝へ、沙汰無きやうに御覚悟なさるべく候。

この手紙を私なりに現代訳をしてみた。

 盤子(各務支考のこと・以下支考という)は二月の初めに奥州へ下りましたが、まだ帰ってきません。こいつは役に立つ奴ではありません。其角をはじめ関東の連衆みんなが憎んでいるのも、仕方がないことでしょう。投節(なげぶし・元禄期遊郭ではやった流行歌)なんとかという踊りなどをやって、酒を飲んで馬鹿の限りを尽くしているので、私の庵では気づまりで一緒にいられないのでしょう。奥州から帰ってくれば間違いなく、京へも行くでしょう。そのときはあなた(去来)の元へも行くと思いますから、覚悟しておいて下さい。とりあえず内々にご連絡しておきます。史邦にもひそかに伝えて、他へは言いふらさないように心づもりして下さい。

 A この手紙の注目点

 この手紙では相手が気兼ねのない去来と言うことで、芭蕉は弟子たちについて遠慮のない本心をぶつけている。中でも支考については「こいつは役に立つ奴ではありません」と容赦がない。しかしこの文章は支考の俳句に対してではなく、日常の行動についての事である。

 実は芭蕉は奥州へ旅立つ支考に、同じ年の二月八日付で出羽の国羽黒に住む呂丸(ろがん)宛に次のような紹介状を持たせている。
「弟子の支考という出家が奥羽を一度見たいということで伺いますので、しばらくそちら羽黒山に滞在するよう言ってやって下さい。俳諧についても少し心得ている者ですから、是非話を聞いてみて下さい」と。芭蕉は支考に俳諧についての才能があることを十分認めていたことがわかる。

 ただ曲水宛元禄五年八月十七日付書簡には「珍碩(洒堂)が江戸に到着し昨夜は午後八時頃まで上方の話をしました。六月に会ったばかりの支考の話も出たのですが、話を聞くだけで愛想のない顔つきを二度見るようでいやになりました。(中略)大坂で出家から世俗の生活に戻った路通が、腹を立てるようなことを、支考がいろいろ詮索しないように祈るばかりです。」と言っている。「話を聞いただけでいやになる」とは、支考も嫌われたものである。当時二十八歳の支考の羽目をはずした行動を持て余していたことは間違いない。

 芭蕉は亡くなる直前、支考に遺言書を書きとらせている。持て余していた門人が最後には一番信頼された弟子になっていることが面白い。

3. 森川許六宛の手紙(一部抜粋・読みくだし文)

 @ 元禄七年二月二十五日付 許六宛書簡(芭蕉五十一歳)

一、愚門三つ物、京板にて御一覧なさるべく候。江戸他家の事は、評判無益と筆をとどめ候。其角・嵐雪が儀は、年々古狸よろしく鼓打ちはやし候はん。

現代訳
 私ども蕉門の三つ物(発句・脇・第三の三句で終る連句。三人で作る)については、京都で出版した江戸蕉門の門人たちの歳旦句(正月に発表した句)を御一読下さい。江戸の他門のことは評するのも無駄ですから書くことは止めます。其角や嵐雪は古狸のように鼓を打ちならして得意がっているだけです。
 A この手紙の注目点
 注目すべきは「其角・嵐雪が儀は、年々古狸よろしく鼓打ちはやし候はん。」の部分である。
 二年前の元禄五年五月七日付去来宛書簡では「点取俳諧流行の中で其角は正しい志を失っていません。彼も世間の俳諧には否定的で、今年は無理に連句や発句を作ろうとはしていません。私には親切に尽くしてくれます。以前よりは年を取ったせいか、万事に分別がつき、大いに喜んでいます。嵐雪は積極的に動かない男ですので、以前と変わらず私に尽くしてくれています」と評価していた二人の高弟を、一転して古狸と面白い表現で一刀両断している。        
 この二人の弟子は俳諧の師匠として江戸で力をつけ、芭蕉が目指す「かるみ」に対して関心を示さず独自の道を歩むようになっていた。芭蕉としては「偉くなったもんだねお前たち」という気持ちが「古狸よろしく」という表現になったのであろう。芭蕉の「かるみ」を習得した各地の弟子たちが上達しているという自信もこの発言の裏にはあると思う。
 この手紙では其角や嵐雪を見放したような書きぶりである。だが元禄七年十月十日に支考が代筆した芭蕉の遺言書には「門人たち、其角はこちらに来ていますが、嵐雪を初めとして残らずよろしくお伝えください」とあり、一時的には腹をたてていたにしても、芭蕉の本心は二人からは離れていなかったと考えるのが正しいのではないだろうか。

4. おわりに

 今回芭蕉書簡に「毒舌」をさがしたが、本文にあげた以外にあと数件ある程度で、弟子たちへの「褒め言葉」の方が圧倒的に多かった。手紙に人の悪口を書いて出せるという相手も、信頼出来る向井去来や森川許六などに限られてくるから、少ないのは当然かもしれない。
 書簡で見る限り芭蕉は芥川龍之介が言うような「毒舌家」ではなく、「褒め言葉の達人」というのが私の印象である。
参考
 『芭蕉書簡大成』  今榮蔵著  角川書店  平成十七年十月
 『全釈芭蕉書簡集』 田中善信注釈 新典社 平成十一年十一月
 『芭蕉の手紙』   村松友次著 大修館書店 昭和六十年六月
 『芭蕉DB(ホームページ)』  制作・著作 伊藤 洋
              (俳句雑誌『出航』第50号より転載)