一.はじめに
現代ではほとんど名前を聞くことはなくなったが、芭蕉の弟子に史邦(ふみくに)という人がいる。俳諧の「古今和歌集」と呼ばれ、蕉門の最高の作品と言われる「猿蓑」で、発句の作者百八名のうち、史邦は五番目に多い十四句が入集。また歌仙四巻のうち「鳶の羽もの巻」を芭蕉・去来・凡兆との四人で巻いている。当時は蕉門でもかなりの実力者であったと思われる。そんな忘れられた史邦について述べた芭蕉のちょっと面白い去来宛の手紙があるので、今回はそれを取り上げてみたい。
二.史邦とは
本名中村荒右衛門と言い、尾張犬山の出身。寺尾土佐守直龍の侍医をしていた。医名は春庵。のち京に出て、仙洞御所(上皇の御所)の与力を勤めた。元禄六年七月には与力を辞職して江戸へ出る。芭蕉からは「二見の文台」※を譲られたりして信頼された弟子であったことがわかる。芭蕉の死後、遺句・遺文を集めた『芭蕉庵小文庫』を元禄九年に編集刊行した。
※二見の文台(ふたみのぶんだい)
史邦が芭蕉からもらった「二見の文台」は、後に能村登四郎の母方の伯父で、登四郎が俳句の手ほどきを受けた山本安三郎(俳号六丁子)が所蔵していたという。(『蕉門研究資料集成』第六巻に写真あり)
三.去来宛の手紙(一部抜粋)
元禄五年五月七日付去来宛書簡(芭蕉四十九歳)
一、先書、史邦こと委細に仰せ聞けられ候。奉公人の常、もつとも武士の覚悟にて御座候へば、驚くべき事にはあらず候へども、後の御状にこのこと御座無く候あひだ、少々こと静まり候やと推察候。
去歳、人々とりこみ、版木・三つ物などとて少しは騒ぎ過され候へば、佞者のにくみたるべく候。もつとも、これまた世の常にて御座候。なにさま、かやうのところも存ぜざるにはあらず、随分他のまじはり御やめ、是非貪着これ無きやうに、まことに忍び忍び御修行あれかしと存じたることに御座候。
拙者などながながと逗留、これまた史邦子ためには大害の御事どもに存じ候。もし静まり候はば、いよいよ張り合ひにならざるやうに、少しは御遠慮の体然るべく候。破れて御退き候段、是非無きことに候。すなはち人の平生かくのごとくに御座候。近き便、今一左右つぶさに承りたく存じ候。(中略)
一、史邦首尾、はやはや御知らせ、この書状御見せ下さるべく候。
この手紙を私なりに現代訳をしてみた。
先のお手紙で史邦のことについて、詳しく聞かせていただきました。宮仕えにはよくあることで、本当に武士として責任をとるということであれば、驚くべきことではありませんが、後のお手紙に史邦のことについて触れておられないので、少しはことが静まったのかと推察しています。
去年人々が集まり、出版の版木や歳旦の三つ物などと、ちょっと騒ぎ過ぎのことがありましたので、口達者な者達から憎まれたのでしょう。いかにもこれも世の中にはよくあることです。もちろんこのようなことも史邦は知らないわけではないでしょうし、できるだけ他の人たちとのお付き合いは止め、物事に執着しないで、本当に静かに静かに俳諧の修業をしてほしいと思っております。
私などが長々と逗留したことなども、これも史邦のためには大きな害になってしまったかもしれません。もしことが落ち着いたのなら、今後はこれ以上意地の張り合いにならないように、少し遠慮がちに俳諧をなさるのがいいと思います。職のほうがうまくいかず退かれるようなことがあってもこれも仕方のないことです。つまり人の平生というものはこのようなものであります。今度のお手紙で一層細かなお話を伺いたいものです。(中略)
史邦の今後のなりゆきを、早目に教えて下さい。この手紙も史邦にお見せ下さい。
四.この手紙の注目点
この手紙を読むと史邦の仙洞御所での与力の立場が危うくなっていることがわかる。まだ職にいるのか、もう首になったのかは芭蕉もわからないようだ。
芭蕉はそんな状況になった原因を、史邦が俳諧にのめり込み過ぎたことにあるのではと推量している。自分が史邦の家に何回も泊りこんだことも一因かもしれないとも言う。
昭和四十三年にこの手紙が発見されるまでは、史邦が何故京都の職を辞して、江戸に行ったのかがよくわからなかった。理由の一つに史邦の飽きっぽい性格を指摘した人もいた。ところがこの芭蕉の手紙によって、もう少しどろどろした職場の状況が浮かび上がってきたのである。史邦は蕉門にのめり込み、「猿蓑」で一躍注目を浴びることになったのだが、夢中になり過ぎて職場をおろそかにしていると見た人たちから足をひっぱられたようだ。趣味の世界にのめり込む人は、職場では白い目を向けられることが多いのは現代でも同じである。
この手紙の面白いところは、史邦の職場での地位が危なくなっていることを聞いた芭蕉の反応である。「宮仕えにはよくあることで(中略)驚くべきことではありません」「いかにもこれも世の中にはよくあることです」「職のほうがうまくいかず退かれるようなことがあってもこれも仕方のないことです。つまり人の平生というものはこのようなものであります」など、いやにさばさばした反応なのである。自分の行動が史邦に与えた影響についたは、反省しているようだが、史邦が職に残ろうが離れようが、深く心配している様子はあまり感じられない。
手紙の末尾に芭蕉は「史邦にこの手紙を見せるように」と去来に指示している。見せられた史邦は芭蕉の手紙をどのように読みとったであろうか。「職を首になることなどよくあることだから、そうなったら気にすることなく、今後は俳句一本で精進したらどうか」と言われたと思ったのではないか。
芭蕉の手紙が史邦の人生にどう影響を与えたのかは想像するしかないのだが、芭蕉のいる江戸へ出ようという行動を起こす大きなきっかけになったのは間違いない。
史邦は平成六年の夏に江戸へ出る。大きな誤算は芭蕉が平成七年の五月に上方へ出たまま同年十月に死んでしまったことにある。
芭蕉没後の史邦は目立った活躍もなく、没年もわかっていない。ちょっとさびしい晩年になったようだ。
芭蕉の一言は、芭蕉が思っている以上に弟子に大きな影響があったはずである。手紙がきっかけで職を捨て、江戸まで行ってしまったとするなら、史邦が気の毒な気もするがこれも運命か。
参考資料
『芭蕉書簡大成』 今榮藏著 角川学芸出版 平成十七年十月発行
『芭蕉』饗庭孝男著 集英社 平成十三年五月発行
「史邦と魯九」市橋鐸著『蕉門研究資料集成』第六巻クレス出版 平成十六年九月発行
『芭蕉の手紙』村松友次著 大修館書店 昭和六十年六月発行
(俳句雑誌『出航』第48号より転載)
追記 本稿は平成24年7月の論文を読む会で勉強させていただいたことを、私なりにまとめてみたものです。
|