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参考資料室
連句付合論 白き行間の力学―芭蕉の工具、芭蕉のしごと―
John Carley
谷地元瑛子 訳

  俳聖とされるだけでは足りないかのようにペニシリンの発見も最初に宇宙に赴いた手柄まで芭蕉の業績とされ兼ねない勢いだ。彼の文学上の功績は多大、まず俳句の父として讃えられ、非凡なるトラベルライターと尊敬され、極めつけの讃辞はたったひとりでそれまで戯れの言葉遊びだった連句を「匂い付け」なる秘法によって芸術の高みにあげたというものだ。
  よくあることだが,これがそのまま真相とは云えない、というのも独立した句としての発句は芭蕉にさきだつ何世紀も前から存在したし、書いた文すべてがフィクションとは云わないが,芭蕉の旅は理想化されたものなのだ、それに芭蕉以前の宗匠たちも連歌を何度も高みにあげており、俳諧の連歌の時代になっても(芭蕉以外にも)優れた作品はあった。しかしながら,芭蕉は確かに付けの生まれるメカニズムを修繕、再工作し、連句の性格を後戻りできないまでに変えたのである。彼のしごとがなかったなら、現代巻かれている短い形式は生まれていなかっただろう。じつに『匂い付け』こそ、工具ではないとしても、たしかな鍵であると云える。(イラストの芭蕉にはブルーカラーの帽子をかぶり、レンチのような工具をもたせてある)

 厳密に云えば匂い付け的なものは余情付けとか埋め付けとしてすでに存在していた。けれど芭蕉はこれを彼流の匂い付けとして発展させ、スピード感を持って確立されてゆく蕉風連句の中核コンセプトとして位置づけたのだ。私たちには「匂い付け」の優位性が伝えられる。これまでの付け方を超えるこの付けが他の付けを過去の遺物として捨て去られる運命にしたともいえる。

 謙虚な人である芭蕉を思うとこれは実にはっきりした業績だ。一体匂い付けとは何なのか? それより何より,匂い付けがすることは何なのか?

 悲しいかな、scent linkingという英語訳は舌足らずでもあり誤訳めいてもいてあまり理解の助けにならない。付けがlinkageと訳されていることはよい、においは正しい漢字で書けばたしかに英語のscentとかfragranceを意味する。しかしそれだけではないのだ、匂いには radiant (キラキラ喜びに溢れた)の意味もありinsinuation(ほのめかし)。attraction(魅力)の意味もあり、『何がしの意味を持つ』という意もある。したがって匂い付けは幅広い付け、それも想像の翼を大きく広げて出てくる付けになぞらえられよう。むしろ『オーラ付け』と訳せばよいかもしれない。ヒッピー世代に分かりやすい訳なら、『バイブレーション付け』だろうか。こうなるとアイルランド人なら『そこに行きたいなら、ここからは出発しない』というところだろうが、わたしたちに選択の余地はない、たとえscent linkingが狭義すぎ誤解を招くとしてもこの訳語が今後も使われるであろうからここから話を起こす。

 匂い付けの技巧面については多くの記述がすでにある、匂い付けの分類や程度を論ずる記事、論文、一冊の本中に割かれた匂い付けの説明の章などなど枚挙にいとまがない。芭蕉が息を引き取るや否や従者めいた弟子が匂い付けの「解体」を始める,曰く響き,映り,走り、位、俤、景気などなど。詳しくはインターネットの検索でも本の索引からでも調べられる。ただし与えられる説明は矛盾し勝ちである。大見出し「匂い」のもとに細文類があり、そのなかに小見出しでまた「匂い」が出てくるのだ。まるで不毛のあれ野をむなしく追いかけまわるように感じる。
(挿図propositional_llinks.jpg)


  それならば調べものは学者にまかせ、私たちは匂い付けが何をするのか、いやその手始めに何をしないのかを見てみよう。上の図式は芭蕉以前の付けを表す。ひとつ付け進むごとに新しいペアが生まれ,直前のペアのつながりを切ってゆく。A+BはCの登場でA~B+C に、さらにDの登場で、B~C+Dとなる。したがって上の例は詩の展開終止を示している。例示すれば {V~W+X}(W~X+Y)(X~Y+Z)となる。

 この付けをマスターすると、新しい付けが一つ前のペア関係を乱しつつ、ワンシーン顔見せ(カメオという単語はこの演劇用語からできた))のように今ここに新しいペアをつかの間現出させる、その繰り返しが図示のずらした一連の句つながりとなるのだ。実際にはさまざまな付け筋がつかわれる、大胆な疎句から時には洗練されていない語呂合わせ、はたまた別のテキストからの参照/引用からの付けも、さらにはストーリーの筋のような付け、視覚上の付け,論理的付け,最近英語連句界で展開型付け(prepositional linkage)といわれる話題延長の付けまでいろいろだ。これらすべてに共通するのは句のペアリングが理解可能である事だ。詩として読者が受入れるには付け筋に合点しなければならないのだ。

 一般論では句中の一語による付けは「言葉付け」と云い,句の意味や句の表現総体に付ける場合を「心付け」というようだが、いまや芭蕉の匂い付けがこれとは全く異なる仕事をするのでこの二つの用語は忘れてもかまわないと云える。

 匂い付けは香り、感化、オーラ、ヴァイヴレーションに基づく連想を生み出す。ここでは関係は誘い出されるものとしてある、いいかえれば間接的であり、暗示されるのだ。匂い付けは解釈されることを待っているとも云えよう。論理や理知で納得するよう繋がってはいないのである、そればかりか読み手は不確実感でしばし宙づり状態、従って付けが腑に落ちるのは読み手自身の感覚/同感能力/本能だよりとなる。行間の白き空間は読み手が意志をもってナビゲートすべきスペースとして開かれているーそれが匂い付けである。

 下図の匂い付けモデルでは付け句がでる毎に新しいペアができるのではなく、付け句は前句に新しい光を当て前句をいわば鋳直すのであり、この緊張関係は前句への同調表現というよりむしろ前句との比較対照修辞に近い。ともあれ両句の行間にこそ、表現力が籠り詩性が発揮されるのである。
(挿図scent_links.jpg)


  ただしここで旧モデルのずれ型句繋がり効果は著しく減じる。それに代わり、我々はより直接的で力強い勢いを手中にする。付けごとに鑑賞の素となるつかみどころのないことばたちが読者のこころに長く留まり、そのことが詩人宗匠をしてよりダイナミックな詩的効果をオーケストラを指揮するかのように展開することを可能にするのだ。言い換えれば各付け句の字義的意味(つまり実際の文言)は絶えず変化せよという従来の規則に従うのだが、行間に息づく情動の趣意はよりしなやかに全詩篇にわたって生成進展してゆく。匂い付けの世界において字義的意味はそれまでより断片化するが、深い認知鑑賞が可能となった。

 全編匂い付けで巻かれた芭蕉の連句はまずないということをぜひ注記したい。連衆のなかに他のメンバーより保守的な人も交じっており、付け筋が一重でなく重ね状態になっている場合が多く見られる、たとえば形而上的付けには慣例にしたがう付け筋を添わせておくというようにである。しかし、匂い付けを宣言した事で、芭蕉は俳諧の連歌のスピード、連着、情動力をいや増し,巧みにしかも真心をもって秘法を開示したのであり、まったく同時進行で読者を消費者から参加者へと役替えしたのである。

 この芭蕉の仕事は二物対立並置の付け句といった手法をとる現代連句によく見られるイマジスト的、ミニマリスト的付けの流れの下地を作ったと云える。匂い付けの句は無関係に見えて,うまくゆくと素晴らしいものを生むものだ。実力ある詩人の手にかかれば、匂い付けはパラドクス中のパラドクスたる不思議を醸しだす-意味不明のテキストが時を超え,人に訴えると云う不思議を!

〔書誌〕本稿は俳文学雑誌『Journal of Renga & Renku』創刊号(December, 2010)所載John Carley「The Mechanics of the White Space in the void between verses」の翻訳を試みたものである。出版社のDARLINGTON RICHARDSは俳文撰集や、この『Journal of Renga & Renku』誌を手がける目的で、南アフリカのRichards(女性)と、アイルランドのDarlington(男性)が興した俳文学専門出版社である。以下に参考として、John Carleyの原文を付載する。