はじめに
「旅に病んで」の句を耳にした時、すぐに芭蕉の辞世句と思われる方も多いのではないだろうか。確かに死を前にした心境を素直に表現しているようで、辞世句としてふさわしく見える。ところがこの句には「病中吟」という前書がついている。
芭蕉がどういう気持ちでこの句を詠み、何故「病中吟」という前書をつけたのかを考えてみたい。
1・句の成立
芭蕉は弟子の之道と洒堂のいさかいを仲裁するため元禄七年九月八日に伊賀上野を発ち、大坂に出かけてくる。だが到着後すぐに寒気・熱・頭痛に悩まされる。その後一旦治って俳席などに出ていたが、九月二十九日にはまた体調を崩してしまう。ひどい下痢だったという。仲裁がうまくいかない心労があったのかもしれない。病状は日に日に重くなる。十月五日には狭い之道宅から花屋仁右衛門方へ移るが、病状は一向に回復しない。心配した弟子たちが集まりはじめる。
この句が詠まれたのは、その三日後の十月八日で死の四日前であった。
句の成立の経緯については支考の『芭蕉翁追善之日記』(元禄七年刊)に詳しいので見てみよう。
此夜深更におよひて介抱に侍りける呑舟をめされ、硯のおとから〱と聞えけれハ、いかなる消息にやと思ふに、
病中吟
旅に病て夢ハ枯野をかけ廻る 翁
其後支考をめして、なをかけ廻る夢心といふ句つくりあり。いつれをかと申されけるに、其五文字ハいかに承り候半と申さは、いとむつかしき御事に侍らんと思ひて、此句なにゝかおとり候半と答へけるなり。いかなる微妙の五文字か侍らん。今ハほいなし。
〈現代語訳〉
この夜(十月八日)おそくなってから呑舟をお呼びになって、その後硯を磨る音がからからと聞こえたのでどうしたことかと思ったら、
病中吟(病床にあって詠んだ句)
旅に病て夢ハ枯野をかけ廻る 翁
と書かせられたのだった。その後支考をお呼びになって、「なをかけ廻る夢心」と考えたのだが、どちらがいいだろうと言われた。上五はどうなるのでしょうかと聞きたかったが、体調が悪いのに余計な心労をかけてはまずいと、この句でどこが悪いことがありましょうかとあたりさわりなく答えた。しかし「なをかけ廻る夢心」が入ったら、どんな微妙な上五になったことであろう。今となっては聞くことも出来ずどうしようもないことだ。 |
正式な芭蕉の終焉記は其角が『枯尾花』(巻頭に「芭蕉翁終焉記」あり・元禄七年刊)を井筒屋から出版するのだが、其角は十月十一日に芭蕉の元に到着したので、「旅に病んで」の句の成立には立ち会っていない。だから「旅に病んで」の句の成立に近い位置にいた支考の、『芭蕉翁追善之日記』が一番事実を伝えていると考えていいと思う。
2・「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句意
この句は芭蕉の中でも有名なものの一つで、多くの人がその鑑賞を書いている。この句には「旅」・「病」・「夢」など読み手が共感しやすい言葉が並び、孤独を感じさせる「枯野」もある。そして句の背景には近づく「死」があり、泣かせどころ満載である。
一般的な解釈は「旅の途中で病床に臥していながら、夢の中ではなお枯野をかけめぐっている(芭蕉事典・春秋社)」となろうか。これだけだと詠んだ芭蕉の気持ちがはっきりしない。もうすこし芭蕉に引きつけて解釈すると、
@夢の中ではまだ枯野をかけ廻っているのだけれど、病に倒れた私はもう旅に出ることも出来ない。悲しい。
A病気になったが、まだ私の夢は枯野をかけ巡っている。早く治ってまた旅に出たいものだ。
との二つの解釈が考えられる。
この句は悲観的なものか、それともまだ未来を見据えたものなのか。
現在では「夢は枯野をかけ廻る」に悲愴な芭蕉の気持ちを読み取ることが多く、前の解釈の方が一般的だ。
ただ私は芭蕉が「病中吟」とわざわざ付けていることから、まだまだ旅は続けたかったのだと思っている。
3・「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」は辞世句か
辞世とは
「死に臨んで遺す詩歌や発句などを辞世という。俳諧師は、一般に辞世の句を遺すものとされ、世上多くの俳人がこの慣習に従っている(『総合芭蕉事典』)」とある。
芭蕉と同時代の俳人であり浮世草子作者である井原西鶴も、五十二歳の死に際して、辞世として〈浮世の月見過ごしにけり末二年〉と詠んだと言われる。病床に伏した芭蕉にも辞世の句について意識があったことは間違いないだろう。
ただ「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が辞世句かどうかについては意見が分かれる。
●「旅に病んで」を辞世句とする説
「有名な辞世で、誰でもよく知ってゐる句である(中略)〈寂〉を一生の本宗とした芭蕉の辞世として最も適はしい句で、実に立派なものである」(樋口功著『選評芭蕉句集』大正十四年)など。
明治・大正の研究家には、躊躇なく辞世句とする人は多い。
●「旅に病んで」を辞世と同様の句であるとする説
「死に近い病床で詠まれているが、芭蕉自身が辞世として意識していたものではない。しかしその内容は辞世にふさわしく、辞世同様のものと考えられている」(山下一海『現代俳句大事典』平成十七年)など。
現代の芭蕉研究家にはこの説をとる人が多いようだ。
●他に辞世句があるとする説
「芭蕉の最後の心境を表すものは、病中吟〈旅に病んで夢は枯野をかけ廻る〉ではなく、その翌日の元禄七年十月九日に成しとげられた、其の夏の清滝川(落合)での〈清滝や浪に塵なき夏の月〉の〈清滝や波に散込青松葉〉への改作であると、私は解釈している」(福田真久『松尾芭蕉論―晩年の世界』昭和五十七年)など。
心境の方に重点を置いた考え方で、死を目前にした澄んだ心境に「清滝や」の句がふさわしいとする考え方である。 |
以上解釈は分かれるが、辞世句かどうかの判断に、前書の「病中吟」が大きな位置をしめることには変わりはない。
4・何故芭蕉は「病中吟」という前書をつけたのか
この句は「旅に病んで」とあるから病気中の句だということは一目瞭然である。芭蕉ほどの人物が、何故内容の重なる「病中吟」などという言葉を付けたのかという疑問が残る。死の直前とはいえ意識ははっきりしていた。その翌日に自分の句に類想があるとして推敲を行なっており、その翌々日には遺言書を書きとらせていることでもそのことはわかる。では不要とわかっていてもなお「病中吟」と付けなければならなかった理由とは何か。
一つは先に述べたようにまだ旅を続けることに意欲があり辞世などとんでもないという心境であったこと。もう一つはどの弟子も、自分こそ芭蕉の辞世の句を直接聞きたいと思っていたはずの雰囲気の中で、「旅に病んで」を辞世句とされたくはないという芭蕉の意思表示である。
5・「病中吟」は芭蕉のつけた前書なのか
ここまでは「病中吟」という前書を、芭蕉本人が付けたことを前提に考えてきた。しかし呑舟や支考が前書を付けたという可能性はないのであろうか。
呑舟は之道の弟子で芭蕉の直弟子ではなさそうなので、そこまで大胆なことをする可能性は低い。
一方の支考は文才もあり、芭蕉の信頼の厚い人物であった。加えて芭蕉の死後、何回も年忌を取り仕切ったり、追善集を編纂したりするやり手の人物である。可能性はないとは言えない。
問題は支考に「病中吟」とつけるメリットがあったかどうかである。もし「病中吟」と無ければ、世間ではすんなり辞世の句となった可能性がある。そうなら支考は芭蕉の辞世句の相談を受けた人物として喧伝されその方が大きな価値を得られただろう。
こう考えると「病中吟」はやはり本人の意思でつけられたものであり、芭蕉は「旅に病んで」を辞世句にしたくはなかったのである。
おわりに
元禄八年に路通が書いた『芭蕉翁行状記』に
又いにしへより辞世を残す事は、誰〳〵も有事なれば、翁にも残し給べけれど、平生則チ辞世なり、何事ぞ此節にあらんやとて、臨終の折一句なし
〈現代語訳〉
また昔から辞世を残すことは誰にもあることなので、翁にもあってもおかしくないのだが、翁は毎日毎日の句を辞世の気分で詠むものと考えておられた。だからこの時だからと言って詠む必要があるだろうかとおっしゃって、臨終の時には辞世句を詠まれなかった。 |
がある。「平生が辞世」というのが芭蕉の信念なら、「旅に病んで」も辞世句の一つになるが、臨終の時に詠む最期の一句ではないということになるのであろうか。
「病中吟」とつけた芭蕉への興味はまだまだ尽きない。
(俳句雑誌『出航』第39号より転載) |