一. はじめに
貞享元年から翌二年にかけて行われた松尾芭蕉の旅の記録が『野ざらし紀行』(甲子吟行)である。そしてその中に、芭蕉が伊勢神宮を訪れる場面が記されている。そもそも芭蕉の伊勢参宮に関しては、不明な点も多く、また『野ざらし紀行』自体も様々に異なる形式及び内容が残されている。本稿は、手順としてまず、伊勢における芭蕉の足どりを整理し、確認したうえで、それらの背景となる、僧形の芭蕉と伊勢神道との関連、すなわち当時の仏教と伊勢神道との関係性を考察しようとするものである。
二. 芭蕉の足どり
@ 内宮・外宮
本題へ入る前に、前提として、伊勢神宮がいかなる組織であるか、簡単に確認しておく。伊勢神宮を辞書で調べると、「三重県伊勢市にある神社。皇大神宮(内宮(ないくう))と豊受(とようけ)大神宮(外宮(げくう))からなる」(三省堂『大辞林 第二版』による)となっている。つまり、伊勢神宮という呼称は内宮(ないくう)と外宮(げくう)との総称であるということになる。このことを踏まえたうえで、次項にて『野ざらし紀行』の伊勢に関する具体的な記述を確認する。
A 初稿本と伝本との比較
前述のとおり、『野ざらし紀行』には実に多くの形式で伝本が残されており、その結果として、記述に様々な相違点が見受けられるのは事実である。殊にこの「伊勢」に関する記述については、芭蕉の伊勢における足どりを精緻に把握することを困難とさせるような、諸本間での決定的な相違点が存在する。ここで本稿の性質上、まずはその点を整理しておきたい。
まず『野ざらし紀行』の成立に関する伝本の相違だが、具体的な内容へ入る前に、諸本の成立に関して説明した、『松尾芭蕉集』(小学館・注1)をここに引用すると、
『野ざらし紀行』の成立を段階的にみると、第一次段階を示すものとしては、芭蕉真蹟巻物(天理図書館蔵。本書では真蹟本と略称)があり、第二次段階を示す資料としては、『泊船集』所収本(泊船本)の原典(伝本未詳)がこれにあたると考えられる。さらに第三次段階として、右の泊船本に一部の推敲が加えられた孤屋筆写許六転写本(彦根専宗寺蔵。孤屋本と略称)があり、第四次段階が(中略=淺海)芭蕉真蹟絵巻と(中略=淺海)濁子筆芭蕉奥書の絵巻である。
となっている。
これを順番にまとめると、@初稿本(真蹟本)A二稿本(泊船本)B三稿本(孤屋本)C四稿本(絵巻本・御雲本とも)D五稿本(濁子本)となる。そして四稿にあたる御雲本が一般には『野ざらし紀行』の定稿とされていることを、併せてここに付記しておきたい。
私は『野ざらし紀行』を、御雲本を底本とするテキストではじめに読んだ(注2)が、次に『芭蕉全図譜』(注3)で初稿本の伊勢に関する記述を読み、主に二つの相違点があることを確認した。
まず第一に、定稿にある「我僧にあらずといへども、浮屠の属にたぐへて」の部分だが、読点の直後に、初稿では「髻なきものは」が挿入されていた。次に第二の相違点として、大きな構成上の置換が行われていたことを、以下に整理する。
定稿では
松葉屋風瀑が伊勢に有りけるを尋音信て、十日計足をとゞむ。腰間に寸鉄を帯びず(中略=淺海)神前に入事を許さず。暮て外宮に詣侍りけるに、一ノ華表の陰ほのくらく、(中略=淺海)ふかき心を起して、
みそか月なし千とせの杉を抱くあらし
となっているのだが、本来、初稿では、「十日計足をとゞむ」の部分が「十日計足をとゞむ
るほどに、(傍点=淺海)暮て外宮に」となっており、「腰間に寸鉄を」以下「神前に入事を許さず」までの部分が、定稿における最後「みそか月」の句のあとにまわされているのである。
ここで問題点を整理しよう。大きな問題は先ほど紹介した第二の相違点にある。初稿と定稿とで大きく語順が入れ替わっていることにより、この部分の解釈に大きく隔たりが生まれてしまうのである。分かりやすい例を示すと、定稿を底本とした『えんぴつの旅・松尾芭蕉〜野ざらし紀行〜』に於いて、監修の谷地氏は、24頁で、まずその語釈として、「神前」の解釈を「内宮(皇大神宮)であろう(傍点=淺海)」としている。そして22頁の語訳では、この部分を「神前に入ることを許されない。そこで(傍点=淺海)、日が暮れてから外宮に参詣した(以下略)」 と、因果関係を示す順接の接続表現で解釈している。
初稿本を無視し、あくまで底本を定稿とする場合、この順接表現を使った語訳には何も問題がない。例えば、A店とB店しかない商店街があったとして、A店が閉店だったとする。「そこで」消費者Xが、仕方なくB店に入店し、商品を購入した、と記述されてたとしても、読者は何も不自然さを感じないだろう。(おそらくは)内宮に入れなかった。そこで外宮に行った、というのは、この例と同様の、いわば二者択一の論理である。先ほど大辞林で確認したとおり、伊勢神宮には大きく分けて内宮と外宮しかない。そして「神前」を「内宮」と解釈したうえで、その内宮に入れなかったから、二者択一の結果として、芭蕉は「暮て外宮に」行った、と谷地氏は考えるわけである。
しかし、ならばこそ、なぜ氏は「神前」の語釈を「内宮」とはせずに、「内宮であろう」としたのだろうか。氏はおそらく初稿本と定稿本との大きな語順の違いを熟知しており、そのうえで、初稿本の可能性も捨てきれずに、一方で読者が理解しやすいようにと工夫し、定稿本の語順にのっとって、「内宮であろう」としたのではないだろうか。しかし、いずれにせよ、初稿本の存在を無視することはできない。初稿本の語順では、はじめに外宮に行ったことが明示され、その後(もしくはその補足として)「神前」の話となっている。ここに至って問題となってくるのは、「神前」の解釈である。
すなわち、芭蕉の伊勢に於ける足どりに大きな疑問が生まれることとなる。繰り返すとこの問題は「神前」の解釈次第になるのだが、すなわち芭蕉ははたして内宮から外宮へ移動したのだろうか。または外宮にしか行かなかったのだろうか。はたまた外宮から内宮へ移動したのだろうか。そして、そもそもなぜこのような大掛かりな語順の変更が初稿本と定稿本との間で行われたのだろうか。
B 「神前」の解釈
この問題については、いくつかの先行論文が残されている。例えば富山奏氏は『芭蕉と伊勢』(注4)の中で、この問題に触れて、
例えば、「みそか月なし」の句後の、「腰間に云々」から「神前に入事をゆるさず」までの文章では、前掲の如く鯉屋本(注5)では、句の割注の如く一段下げて書いている。ところが、伝本のなかには、この部分を「くれて外宮に詣侍りける」の前に移しているのがある。そして、その伝本の形に従って、この部分の記事は内宮に詣でた折のことと解する説もある。即ち、先ず内宮、次いで外宮と、詣でた順に記したと言うのである。しかし、当時、陸路からの参宮は、地理的な条件もあって、普通は外宮参拝が先である(海路鳥羽に上陸する場合は逆になる)。従って、鯉屋本の方が事実に忠実な記載である。但し、記載を欠くとて、芭蕉が内宮に詣でなかったと言うのではない。なお、僧形の者を一般参詣人と同じ拝殿に入れず差別したのは、両宮とも同様であった。
と記している。最後の部分「なお」以下については、あとで詳しく触れるつもりだから、
今はことさら触れず、次章で扱うこととする。
要するに富山氏は、初稿本に重きをおいて、芭蕉がまずはじめに外宮へ赴いたと主張し、
内宮を訪れたかどうかは保留としながらも、あくまで「神前」の解釈を「外宮」としているわけである。そして確かに芭蕉が桑名から東海道を外れて紀伊半島を南下したと想定すれば、まず到着するのは外宮であると思われる(注6)。しかし私としては、参詣のいわば地理的条件を考慮するならば、むしろ芭蕉が宿泊したとされる松葉屋風瀑の邸宅の地理的位置を考慮に入れるべきだと考える。この点について富山氏は、別の文脈に於いてではあるが、松葉屋風瀑の邸宅が、外宮の「月讀宮」の西方を南北に走る大通り「大世古」の通り沿いにあった、ということを同書に於いて指摘している。さらに濱森太郎氏はこの点について言及し、風瀑の邸宅から外宮までの距離はおよそ1キロ、同様に内宮までの距離をおよそ4キロとしている(注7)。
だが一方で、濱氏はそれでも「神前」の解釈を「内宮」としている点で興味深い。
同書に於いて、同氏は論拠として主に二点挙げている。第一に、芭蕉自身が絵と文章を書いたとされる『甲子吟行画巻』の「伊勢参宮」に記された絵である。絵の右下部に記された鳥居が内宮の近くを流れる五十鈴川とおぼしき川に隣接していることに加え、その近くに記された二棟の神殿の屋根に描かれた柱の角度が、天に対して「ほぼ水平に描かれている」ことから、神殿が「内宮」であることを「裏付ける」と、同書31、32頁に於いて指摘している。第二に、初稿本と比して定稿本の語順に触れた上で、「予は外宮以外のどこかで禁足され、少し間をおいて外宮に参拝したと見る余地が生ずる」とし、元禄7年の宝井其角編『句』兄弟の詞書として、芭蕉の高弟、其角が芭蕉の『野ざらし紀行』を踏まえて書いた句に
内宮 浮屠の属にたぐへて心へだちたる五十鈴川より遥かに拝す。
身のあきや赤子もまいる神路山
と残しているものがある点を同書33、34頁に於いて指摘している。
まず第一点目についてであるが、確かに芭蕉の文学を絵と文章との相関性の上に理解しようとする氏の視点は重要である。但し、氏本人も認めているように、「その先端が曖昧に描かれている」のであって、百パーセント「水平」であるとは、少なくとも絵を見た私には首肯できない。また第二点目についてであるが、其角が「内宮」として、しかも芭蕉の作品を引用するかたちで「五十鈴川」と詞書を句に付記している点は注目に値すると考えられる。しかし、これはあくまで作品を通しての其角自身の解釈として理解されるべきものであって、同氏が「これらの傍証によって、先の禁足事件が実は「内宮」で起きたことが確認される」と断定するには、残念ながら必ずしも充分な論拠が示されたとは言いがたいと私は考える。
以上、二つのいわば対照的な結論を示した研究が示していることは、各々の研究説明で私が傍点をもって強調したように、要するに初稿本、定稿本、いずれの語順にウェイトを置いて作品を理解するかにかかってくるように思えてならない。つまり、それぞれの解釈が現段階で成り立つし、同時に私が前項の最後に提起した疑問に対しては、現段階では答えが出ていない、というのが私の結論である。
但し、前述の疑問の中でも、なぜ語順がこれほどまで大きく変えられたのかについては、先行研究に興味深い指摘がある。この点、次項で指摘しておきたい。
C 西行の存在
先ほどの濱氏だが、同書の別項に於いて、『甲子吟行画巻』の絵に注目し、多くの切り張りや削除の痕跡を実に丹念に解析している。その中で、私が今回のテーマとしている『野ざらし紀行』の伊勢参拝と、それに続く西行谷訪問、そして蝶女の茶店、この連続する作品に関して、「この三者は共に西行法師の説話を踏まえて書かれている」と、同書48頁に於いて記している。
また、類似した視点から、米谷巖氏はその論文の中で(注8)
一の鳥居から遥拝したかのように描いているのは、『西行物語』を下敷きにしたために外ならない。またことさら夜になって参拝しているのも、やはり『西行物語』の記述に合わせたものであり、(中略=淺海)『西行物語』の叙述に対応させて、「腰間に寸鉄を不帯、……神前に入事をゆるさず」の一文を前置させることがより妥当と考えたのであろう。つまり、西行の感動に迫り、その詩心を追体験しようとする人物のために、『西行物語』にのっとって、西行の伊勢参拝にできるだけ似せた状況を描出しようとしたものと思われる。
と指摘している(64頁)。
芭蕉が西行に大きな影響を受けていたことは、芭蕉の文学作品からも充分にうかがえる
ことから、これらの指摘には説得力があると考えられる。
D 新解釈
さて、この章の最後に、私としてはこれまでの研究を踏まえ、ここで新たな解釈を提示したい。私の場合、あくまで書かれた順番、つまり表現の優位性に注目し、富山氏同様、初稿本を優先する。
既に確認した通り、初稿本では、まず「外宮」へ行ったとしたうえで、最後に、僧形であることに触れ、結局「神前」には入れなかったと芭蕉は述べている。しかし同時に、「神前」には入れなかったものの、「外宮」という言葉と同様に、もう一つ、稿にかかわらず、はっきりと場所を示す言葉が一つ示されている。周知の通り、それは外宮の「一ノ華表」(一の鳥居)である。
かつての伊勢神宮の建物の配置は、『伊勢参宮名所図会』(寛政9年序)で確認することができる。それによれば、外宮の一の鳥居は、入り口を入ったすぐのところにあったと想定される。そしてそのまま直進すると、二の鳥居があり、右折する形で三の鳥居と続き、その正面には「正殿」すなわち外宮の本殿たる「豊受(大)神宮」が待ち構えている、という構造である。芭蕉は西行の影響からか、一の鳥居付近のことだけを記しているが、芭蕉が入ったのは外宮の入り口付近までで、その奥に行ったという記述をしていないということは、「神前」とは外宮の「神」すなわち「豊受(大)神宮」の「前」、つまり外宮の正殿を示す、とは考えられないだろうか。はじめに「外宮」に行ったと断っておいて、その詳細として、まず「一の鳥居」付近に行ったことを示し、そして並列的に、あるいは補足的に「正殿」へは行かなかったことを示して、それらを対比させたのではないだろうか。そう考えると、外宮の中で全ての説明が完了することになり、文章の体裁としても辻褄が合う。
なお、私はここで、あくまで「神前」の解釈をしただけであり、富山氏同様、芭蕉が内宮に行ったか行かなかったかについて触れたつもりは一切ないことを付け加えておきたい。芭蕉の実際の足どりの問題と「神前」の解釈の問題とを、私はあくまで切り離して考えるべきだと主張するものである。
E まとめ
以上、諸本の表現に於ける相違点の確認からはじまり、芭蕉の足どりを、新解釈も織り交ぜたうえで確認した。改めて確認しておくが、この作業によって、芭蕉の「実際の」足どりが判明したわけでは全くない。ただし、この伊勢に関する芭蕉の記述が、西行の影響を大きく受けて残された、と仮定するならば、実のところ、芭蕉は真実通りのことを記したことにはならないということになる。これを言い換えるならば、芭蕉は外宮の一の鳥居で引き返したとは考えにくいということになる(くどいようだが、私は芭蕉が内宮に行った・行かない、ということを言いたいのではない)。すなわち、既に本章三項の富山氏の指摘で少し触れたのだが、貞享時代に、芭蕉が外宮(あるいは内宮)の中に「入っていた」ことは、ほぼ確かである。富山氏の言う通り、僧形の人たちは確かに当時、伊勢参宮を許されなかった。しかしそれは「正式な意味での参宮」であり、前項の新解釈でも触れた通り、芭蕉が一般の参拝者と同様、「正殿」まで行けなかった、という意味なのである。では僧行の者たちは神宮の敷地へ「全く入れなかった」のだろうか。実は、既に複数の指摘がなされている通り、僧形や総髪の医者・俳諧師などは、「僧尼拝所」なる、敷地内の特別な場所に於いて参宮できたのである。しかもこの拝所は、外宮・内宮それぞれに設置されていた。では、次章に於いて、芭蕉が向かってであろうこの施設に関して確認しておきたい。
三. 僧尼拝所
@ 設置の目的
尾形仂氏は「神前に入ることを許さず」の解釈に関し、著書の中で(注9)
「浮屠の属」の参拝に関しては、志田義秀博士『芭蕉俳句の解釈と鑑賞』の「何の木の」の条下に詳しい。
としている。
そこで志田氏のこの著作に目を移すと(注10)、氏は「芭蕉時代の遥拝の状況を物語るものと」して、
大神宮に於ける仏教および僧尼の禁制は、文献としては『延喜式』より古いものを知り得ぬのであるが、事実としては頗る古い頃からの事であろうと思われる。(中略=淺海)然るに多分室町後期(『人鏡論』)に僧尼の拝所というものが建てられたが、それが内宮の方では五十鈴川の橋を渡った川縁を行って神宮を遥拝し得るような所に設けられ、外宮では大體五百枝の杉の邊に設けられたらしい。
としている(注11)。
また、志田氏や富山氏など、この施設に関して複数の指摘がある文献として、『神境紀談』
(元禄13年序)が挙げられる。それによると(注12)、僧尼拝所の説明として、
此拝所ハ僧尼法体ノ輩遥拝スル所ナリ、古ヨリ僧尼法体ノ輩ハ内院ニ参ル事ヲ許サズ、然ルユエニ三ノ鳥居ノ外ヨリ拝シ奉リシヲ、イツノ比ヨリカ今ノ如キノ拝所ヲ構エテ僧尼ノ拝所ト称セルナリ、
という記述がある(注13)。
志田氏も指摘する通り、果たして「イツノ比ヨリカ」は分からないが、少なくとも江戸
期に僧尼拝所があったことだけは確かであり、これは前章最終項に記した通り、芭蕉の僧
尼拝所での参宮を裏付けることが可能な資料である。
後に詳しく触れるが、伊勢神宮はおおむね平安期より、『野ざらし紀行』の記された江戸
期に至るまで、仏教とある程度の距離を保っており、僧尼拝所はその象徴であるというこ
とができる。
A 存在の裏づけ
さて、僧尼拝所についてであるが、『神境紀談』以外にも、その存在を示すいくつかの資
料が確認できた。以下に二点、挙げておきたい。まず、前述の富山氏が指摘しているが、内宮、外宮それぞれの僧尼拝所は『伊勢参宮名所図会』にも明記されている(注14)。地理的には、それぞれ、正殿からははるかに遠い場所に設置されており、文字通り「遥拝」する場所となっている。
次に二点目の資料であるが、高野澄氏の指摘を踏まえ(注15)、江戸期における僧尼拝所を裏付ける、さらなる根拠として、神沢杜口による『翁草』(寛政4年序)の中に、僧尼拝所を想起させる記述があることにも触れておきたい。それによると(注16)、ある僧と伊勢神宮の禰宜との会話として、
熊と其名を洩す、或僧は遠慮恐もなく、平俗の通、伊勢にて参拝せんとす、禰宜押留て曰、僧尼は別に拝する所有り(傍点=淺海)、夫へゆくべしと云は(以下略)
というものが紹介されている(注17)。この会話自体が実際の出来事だったかどうかはともかくとして、少なくとも江戸中期に僧尼拝所の存在が認識されていたことだけは確かである。
B まとめ
以上、芭蕉の足どりの確認作業を踏まえた上で、僧尼拝所についての検証を行った。ここで残る疑問としては、伊勢神宮の仏教に対する立場である。一見すると、伊勢神宮は僧尼拝所を設置し、仏教徒に対して正式な参宮を禁ずるなど、仏教関係者を冷遇しているともとれる。しかし、いわば仏教寄りの立場だった芭蕉は、『野ざらし紀行』からその死までの期間、さらに二度にもわたって伊勢へ参宮し、松葉屋風瀑はじめ、伊勢の人々と交流していることが記録に残されている。そのようにしてこの伊勢の地にも間接的に蕉風の影響を与え、この地には、後年「伊勢派」と呼ばれる、蕉風俳句の一派が形成されていくこととなる。そしてまた、その一派を支えたのが、荒木田守武と同様、主に伊勢神宮の神官たちであったことを踏まえると、本当に伊勢神宮が仏教を冷遇したと言い切れるのか、疑問が残る。そもそも伊勢神宮は、神仏習合の思潮と逆行するようにして、なぜ仏教との関係を希薄なものにしていったのか。伊勢神宮との仏教との関係性について、次章で確認することとしたい。
四. 伊勢神宮と仏教
@ 本地垂迹説と伊勢神道の展開
この章では、日本に仏教が伝来したのち、神道がどのような状況に置かれ、その中で伊勢神宮がどのような変遷を辿っていったのかを俯瞰したうえで、伊勢神道と仏教とのかかわり方を具体的に検証し、両者の関係性について明らかにすることを目的とする。
海外からこの日本の地へ、いわば外来宗教として仏教が伝来したのは、およそ六世紀頃のことと考えられている。その後の仏教と神道との関係について、佐藤弘夫氏は、
相次ぐ寺院の造立や出家者の劇的な増加にも関わらず、(注18)伝来してからしばらくの間、神と仏は相互に内的な関係を取り結ぶことはなかった。ところが奈良時代になると、新しい動きが起こってくる。日本の神々が仏法の守護神(護法善神)として位置づけられる一方、神社の周辺に神宮寺とよばれる寺院が建立されるようになるのである。(中略=淺海)神は煩悩に苦しむ衆生の一人として、仏教に救済を求めていると信じられたのである。ただしその場合でも、主役はあくまで神社に祀られた神であり、寺院はまだ神を慰めるための付随的な施設に過ぎなかった。それに対して、平安時代の後半以降、神宮寺と神社との力関係は逆転する。(中略)伊勢神宮を除く(傍点=淺海)大規模な神社の大半が寺家の傘下に入り、その統制に服するようになった。表面的には仏教を忌避しているように見える神宮ですら、鎌倉時代の末には供僧がおかれ、境内で仏教的な法会が催された(傍点=淺海)。僧侶の社参が盛行し、神官の葬儀も仏式で行われるのである。
と記している(注19)。
平安時代とは、宗教的な思潮として、本地垂迹といわれる、神仏を同等のものとして扱う思想が大きな影響力を得た時代である。そこから仏教は急速に神道に対して台頭していく。積極的に活動を行う仏教に対して、神道は当時、「受身」の立場だったということができるだろう。急速に拡大をみせる外来宗教に対し、神道の危機感は強かったに違いない。その中にあって、右の佐藤氏の指摘によれば、くしくも伊勢神宮の存在は、当初から矛盾に満ちている。それはすなわち、一方で寺院の傘下に入らないという立場をとり、仏教を忌避しつつも、また一方で法会を催すなど、仏教と関係性を保っている点である。この矛盾をさらに明白なものとして理解するため、次に高橋美由紀氏の研究を引用したい。
A 伊勢神道の矛盾と僧尼拝所
高橋氏は、いうなれば出発点として神道に仏教禁忌が下敷きとしてあったものの、平安時代には伊勢神宮が神官(禰宜)のレベルで仏教を受容していく様を、
外宮禰宜で初めて出家したのは康雄で、彼は天喜元年(一〇五三)から延久四年(一〇六二)まで禰宜職に在任し、辞任後出家している。その後外宮禰宜を勤めた者で出家した例は多いが、(中略=淺海)このような神官祠官の仏教への帰依は、祭主大中臣永頼(九九一年より九年間在任)による蓮台寺の建立に始まる多数の寺堂の建立となって現れている。
と説明している(注20)。
しかし他方で、神事、祭祀において、伊勢神道は激しく仏教を禁忌しているとして、同氏は『玉葉』や「神道五部書」などを根拠とし、神仏習合に抗う伊勢神道の側面も同書に於いて指摘している。また、伊勢神宮では仏教用語を忌詞(いみことば)として隠語で表現していたことは多くの指摘がなされている通りである。高橋氏はこれらをまとめて、
神仏習合思想に基づく仏教的な儀礼が多くの神社において一般的に行われていた中にあって、神宮祭祀においては厳しい仏教禁忌観が保持されていた。そして、このような観念が、伊勢神道の形成過程において自覚化され、神仏峻別思想の唱道として結晶したものと考えられる。しかし、祭りの場での激しい仏教禁忌観が存在する一方で、神宮祠官の生活を見ると、祭りを離れた日常生活の場においては、彼等が仏教とかかわりを持っていたことも明らかである。『古老口実伝』に見られる外宮祠官の氏寺仏事への関与の様子を見れば、仏教が彼等の生活の一部として制度化された形で定着している様子を認めることができる。ここにまた、外宮祠官によって説かれた伊勢神道が神仏峻別思想の立場をとりつつも、決してそれが排仏思想ではありえなかった(傍点=淺海)背景がある。
と、同書24頁に於いて指摘している。
さて、前章で触れた僧尼拝所だが、私はその存在自体こそ、高橋氏のいう「神仏峻別思想」の具現化ではなかったかと考えている。一般の参拝者と「峻別」し、同時に排除することなく、特別な場所で仏教徒などを受け入れる伊勢神道の姿勢の背景に、以上のような、仏教伝来以降の歴史と、伊勢神道の抱える矛盾とを確認することができる。
B まとめ
この章を締めくくるにあたり、前述の富山氏の指摘に、大変興味深い内容があったので紹介したい。それは、
当時、法衣を脱ぎ付髪をして俗人の姿になれば神前に入ることを許され、市中の商店には付髪を売る店もあったようだが(以下略)
というものである(注21)。
この記述に関して、出典等が明らかにされていないため、細かな確認はできなかったが、もし「付髪」の行為が有償とはいえ、神宮付近の商店にて行われていたとするならば、これは僧尼拝所に勝るとも劣らず、伊勢神宮と仏教との関係性を語りうる、雄弁な物証であるだろう。すなわち、両者はきわめてゆるやかな関係性を保持していたということである。前章の末尾に掲げた疑問に対し、私は、伊勢神宮は決して仏教を冷遇していたと断定することはできないと結論づけたい。
さらに、第三章二項で指摘した通り、『伊勢参宮名所図会』に記載のある二つの僧尼拝所は、それぞれの正殿からはるか遠くに設置されていると同時に、正殿とは地理的関係に於いて、直線の関係にあたるのだ。つまり遠いとはいえ、二箇所ともに、正殿の正面に設置されているのである。これは果たして偶然だろうか。これもまた、伊勢神宮が仏教との関係をゆるやかにではあれ重視していた裏づけなのだと私は主張するものである。
五. おわりに
本稿の私自身の当初の目的は、「神前に入事を許さず」について、端的に言うならば、なぜ芭蕉は神前に入れなかったのかを紐解くことであった。しかしそれは、初稿本と伝本における「神前」の表現上の違いにつながり、そして「神前」そのものへの疑問および新たな解釈の可能性の提示へとつながった。同時に僧尼拝所の存在理由、ひいては背景として横たわる伊勢神道と仏教とのつながりへと敷衍していったことは、ここまでで既に全て述べ終えたことである。
芭蕉の文学や人生には、実に数々の謎が残されており、それら一つ一つをつまびらかにすることは、決して容易なことではない。一方で、本稿を通して私が確認したことといえば、芭蕉研究にはまだ多くの研究材料が残されており、それらの研究はまだ充分にし尽くされた状態とはいいがたい、ということである。例えば神道と芭蕉との関係性についてだが、富山氏が指摘している通り、芭蕉自身がその著作の中で、生涯における参宮の回数を計六回としている。しかしそのうち、当時の事情がある程度明らかなものは、今回私が扱ったこの貞享元年の参宮を含め、半数にあたる三回にとどまる(注22)。しかも貞享元年の参宮にしても、既に検証した通り、文字通り「ある程度」事情が明らかなだけであって、その全てが明白になっているとは、現段階では全く言い切れない状態である。加えて、『野ざらし紀行』は、第一章でも少し触れたように、冊子や絵巻など、実に様々なメディア形態で、また様々に異なる内容が発表されている。テクストの分析も充分とは言い難い上に、本文の解釈にもまだ可能性が残されている。そしてそこに隠された事実を辿るのは、結果としてさらに難しいことでもあるだろう。
芭蕉の俳諧が後世の文学に与えた影響の大きさについては、私がここで改めて述べるまでもない。しかし、その偉大な存在を支え、芭蕉を芭蕉たらしめているものの一つが、「座の文学」と評されるように、人間同士のいわば生きたコミュニケーション上に形成されていたのだとすれば、芭蕉研究に於いてこそ、中心となる人間関係やそれらの周辺的な出来事、史実といった、正しい「事実」の認識に力点が置かれなければならないだろう。これらこそが、陰に陽に芭蕉文学そのものを支えていたものだからである。本稿は、私がそのような思いを胸中に抱きつつ、芭蕉の伊勢参宮について、力及ばずながら、検証を進めたものである。
最後になるが、本稿の上梓にあたり、東洋大学の谷地先生から、数々の有益なご意見を賜った。衷心より感謝申し上げたい。
注
(注1) 『松尾芭蕉集』校注・訳 井本農一、堀信夫、村松友次 昭和47年6月 小学館 286頁
(注2) 『えんぴつの旅・松尾芭蕉〜野ざらし紀行〜』監修 谷地快一 平成18年8月 マックス
(注3) 『芭蕉全図譜』監修 大谷篤蔵 平成5年11月 岩波書店 88、89頁
(注4) 『芭蕉と伊勢』富山奏 昭和63年5月 桜楓社 80、81頁
(注5) 初稿本のこと
(注6) 内宮及び外宮の地理的な配置については『日本大百科全書2』(昭和60年2月 小学館)の「伊勢神宮」の項目(321頁)及び『伊勢神宮の謎―なぜ日本文化の故郷なのか』(高野澄 平成4年10月 祥伝社 14頁〜17頁)によって確認した。
(注7) 『松尾芭蕉作『野ざらし紀行』の成立―文字データベースによる用字解析』濱森太郎 平成21年3月 三重大学出版社 25頁
(注8) 『『野ざらし紀行』における風狂者の造型』米谷巖 昭和59年3月 『国文学攷』101号 広島大学 58頁〜66頁
(注9) 『野ざらし紀行評釈』尾形仂 平成10年12月 角川書店 76頁
(注10)『芭蕉俳句の解釋と鑑賞』志田義秀 昭和21年8月 至文堂 66頁〜70頁
(注11)一部の旧字を新字へと改めた
(注12)『大神宮叢書 神宮随筆大成 後篇』(神境紀談巻二「僧尼拝所」より)編集 神宮司庁 昭和17年3月 西濃印刷
(注13)一部の旧字を新字へと改めた
(注14)前述『芭蕉と伊勢』 95頁
(注15)前述『伊勢神宮の謎―なぜ日本文化の故郷なのか』 100頁〜102頁
(注16)『日本随筆大成 翁草 下巻』(巻之百七十六より)神沢杜口 昭和6年4月 日本随筆大成刊行会 567頁、568頁
(注17)一部の旧字を新字へと改めた
(注18)「仏教が」伝来してからしばらく、の意である
(注19)『神国日本』佐藤弘夫 平成18年4月 筑摩書房 59頁、60頁
(注20)『伊勢神道の成立と展開』高橋美由紀 平成6年10月 大明堂 19頁
(注21)前述『芭蕉と伊勢』 94頁
(注22)前述『芭蕉と伊勢』 21頁
|