筑紫磐井の「切れ」についての論
昨秋から『三冊子』に関する復本一郎教授(神奈川大学)のオープン講座を受講している。そして講座の「切れ」の部分を、本誌第十号に「俳句の『切れ』について」として書いた。要点を一言で繰り返せば、芭蕉は「切れ」を発句(俳句)が発句であるうえの必須の要件としていたということと、私個人の悩みとして、句が切れているかいないかの判定は実作上も鑑賞上も非常にむずかしいということの二点であった。
ところが、雑誌『俳句』平成十五年四月号所載の筑紫磐井「現代俳句と切れ」を読んで驚いた。伝統俳句において「現代的」ということは「切れ」を排除することだと言っているのである。
磐井は復本一郎と川本皓嗣の切れに関する論(これらも興味深い)を概説したあと、能村登四郎と飯田龍太の切れについて次のように論じている。
磐井が登四郎から直接聞いた話として、登四郎は福永耕二が第一句集を出すとき巻頭に掲げた「浜木綿やひとり沖さす丸木舟」を削除するように忠告したという。理由は、「上五に切字『や』を置き下五を名詞止めにするような現代的でない、古臭い句を巻頭に置くことは俳人協会賞の選考に当って決して良い影響を与えないから」だったというのである。そして磐井は、「〈上五に切字『や』を置き下五を名詞止めにする句〉を典型的な切れのある句と考えれば、登四郎は現代俳句は切れを持たないほうがよいと考えていたことになる。実際、能村登四郎は伝統俳人の中でも切れのない俳句が顕著であり、むしろ積極的に現代俳句は切れのない俳句から生まれると見ていた節がある。散文をそのまま取り込んで俳句が生まれる形式を自らも実践したのである。」と述べ、登四郎の次のような句を例に引いている。
くちびるを出て朝寒のこゑとなる
唇緘ぢて綿虫のもうどこにもなし
春ひとり槍投げて槍に歩み寄る
薄墨がひろがり寒の鯉うかぶ
夢の世と思ひてゐしが辛夷咲く
ほたる火の冷たさをこそ火と言はめ
厠にて国敗れたる日とおもふ
霜掃きし箒しばらくして倒る
磐井はまた、切れのない俳句を作るもう一人の現代俳人として飯田龍太を揚げ、
露草も露のちからの花ひらく 飯田龍太
雪山のどこも動かず花にほふ
等々の句を引いている。
そして「このように、飯田龍太、能村登四郎など、現代の伝統俳句を代表する作家に切れのない俳句が多いということは注目してよい事実である。実は、伝統俳句において『現代的』であるということは、『切れ』を排除すること、散文をそのまま五七五の枠組に入れることを意味した。現代の繊細な情感は散文脈でもっともよく伝わり、それを五七五の枠組の中でどのように詩的に昇華させるかが大きな課題であった。切れがあれば俳句である、という原則論とは全く違う困難に対する挑戦であった。それが如何に困難であるかは、そこらにころがっている文章を五七五にしてみても、決して俳句らしい感じがしないことからも明らかである。文学的緊張感をよほど持たなければ、切れのない散文脈の俳句は作れない。」と論じている。
私の疑問
「浜木綿やひとり沖さす丸木舟」のように、上五に切字「や」を置き下五を名詞止めにする句が古臭く現代的でないのかどうかは私には判断がつかないのでひとまず置くとして、その他の点について少し私見を述べたい。
第一の疑問
まず、磐井は「切れ」を排除することをもって「現代的」としたが、では磐井が「現代の伝統俳句を代表する作家」の一人とする能村登四郎は本当に「切れ」を排除しているのだろうかという疑問である。そこで手元にある登四郎の句集に当ってみた。
まず最初に、福永耕二が第一句集『鳥語』を出版したのは昭和四十七年であったから、登四郎が句集冒頭に「浜木綿や」の句を置かないように忠告したのはその少し前と推測し、昭和四十五年出版の登四郎の第三句集『枯野の沖』を調べた。総句数六百二十八句。これを切字で分類すると次のようになる。
・「や」を用いた句
「火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ」など四十八句
・「かな」を用いた句
「だしぬけに樹上声ある晩夏かな」の一句のみ。
・「けり」を用いた句
一句もなし
登四郎が古臭く現代的でないと言ったという上五に切字「や」を置き下五を名詞止めにする句は「やひそかに継ぎし詩の系譜」など四十八句の中に十五句あった。「かな」が一句のみ、「けり」が一句もなかったという事実には正直のところ驚いた。
次に第十二句集『易水』に当ってみた。総句数四百二十八句を同じく切字で分類すると次のようになる。
・「や」を用いた句
「初寄席やいろものになる出の囃子」など二十五句
・「かな」を用いた句
「てのひらの艶をたのめる初湯かな」など二十九句
・「けり」を用いた句
「飯蛸のもたれあへるを貰ひけり」など二十一句
「や」「かな」「けり」を用いた句は合計七十五句、約十七パーセント。〔上五「や」+名詞止め〕も先の「初寄席や」など七句あった。
生涯に十三冊(没後の句集を含めると十四冊)の句集を出し、句集ごとに作風を変化・深化させていったと言われる登四郎であるから、句集によって切字の頻度も変わってくることは不思議でない。それは上記二句集を見ても合点がいくことである。ただ『易水』を読むかぎり登四郎が切字を排除したと断言するには無理があるような気がしてならないのである。
第二の疑問
次に磐井は、登四郎が「切れ」を排除した例として前掲の「くちびるを出て朝寒のこゑとなる」以下八句を挙げているが、これらの句は本当に「切れ」ていないのだろうかという疑問である。私にはどうも磐井が「切れ」と「切字」を区別していないのではないかと思われてならない。
芭蕉の弟子である服部土芳は師の言説、遺墨などを纏めた俳論書『三冊子』の中で、「切字なくては発句のすがたにあらず。付句の体也。切字を加へても、付句のすがたある句あり。又、切字なくても切るる句あり。」と芭蕉が言っていたと述べ、向井去来も『去来抄』の中で「切字にる時は、四十八字皆切字也。用ひざるときは一字も切字なし」と芭蕉の説を伝えている。要するに芭蕉は「切れ」をもって発句の必須の要件と考えていたが、彼は決して「や」「かな」「けり」に代表される切字のみをもって「切れ」と考えていたのではなかったのである。林翔はその著『芭蕉と現代俳句』において、蕉風が確立されたとされる貞享三年以後の芭蕉の全句に当り「切れ」を国語学的に分類している。彼はその中で「切れ」を@間投助詞の切字A終助詞の切字B終止法の切字C疑問詞の切字D感動詞・複合感動詞の切字E体言(名詞)の切字の六種類に分類し、それぞれについて芭蕉俳句の例と現代俳句の例を挙げている。そして「終止法の切字」の例として「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」および「奥白根かの世の雪をかがやかす」(前田普羅)の句を挙げている。芭蕉には、このように上五、中七に明確な「切れ」がなく、かつ下五を動詞または助動詞の終止形で止めた句はこの「旅に病んで」の句以外にも「五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん」「行く春に和歌の浦にて追ひつきたり」など八句ほどみられる。これらの句が林翔の言うように下五で切れているとするなら(私も切れていると考えるが)、磐井が「切れ」を排除した句として例示した登四郎の前掲八句も実は下五で切れているというべきなのではなかろうか。
私の考え方
このように見てくると、(飯田龍太については調べてないが)少なくとも登四郎は「切れ」を排除したのではなく、「や」「かな」「けり」のような古語の切字を古臭いとして排除(若い頃は意識的に排除したが、晩年は必ずしも排除しなかったことは前述のとおりであるが)したと言うべきであろう。
登四郎が福永耕二に、上五に切字「や」を置き下五を名詞止めにするような現代的でない、古臭い句を第一句集の冒頭にもってこない方が良いと忠告したとき、果してどれだけの意味を込めて言ったのか、私にはもとより想像できようはずがない。しかしこのことから直ちに、登四郎が「切れ」を排除し、散文をそのまま五七五の枠組に入れることをもって現代的としたとまで言ってしまっては言い過ぎではなかろうか。
そもそも現代の伝統俳句において「切れ」を排除することは可能なのであろうか。不可能であろう。それどころか「や」「かな」「けり」のような古語の切字を排除することすらできないと思う。
俳句は五七五の短詩である。わずか五七五によって読者に作者と同じ感動を共有してもらおうとしたら、あるボリュームの思想なり、出来事なり、情景なりをその中に盛り込まなければならない。いきおい言葉の節約や省略や飛躍が必要になる。ここに文語的な表現の優位性があるし、「切れ」の価値もあるし、切字の利用価値もあるのである。
切字の伝統はいうまでもなく連歌、俳諧の発句のルールに由来する。すなわち脇句(付句)が独立性を持たず、前の句とセットになってはじめてひとつの世界を形づくるのに対して、発句は一句で独立し、季節を含むひとつの世界を形成する。この役を担っているのが季語であり、また切字、「切れ」である。俳諧の発句を引き継いだ俳句は、同時に切字、「切れ」をも引き継いだのであるが、それは単なる歴史的遺物として引き継いだのではなく、右のような現在的な利用価値をもって引き継いだのである。
前掲の登四郎の句(「くちびるを出て朝寒のこゑとなる」以下)には確かに現代的な新鮮さがあるが、このような句
(林翔の言う「終止法の切字」の句)ばかりでは俳句の可能性を限定してしまうことになる。それよりは切字や「切れ」も駆使して自分の感動や思いを多彩に表現すべきであろう。ただ私達が注意しなければならないことは、「……や………名詞」「………かな」とすればとりあえず俳句の形になるので、さしたる文学的緊張感なしに多用してしまう傾向にあるということである。私自身は作句の初心者としてこのことに十分留意してゆかねばならないと自覚しているが、さて言うは易く行なうは難しというのが現実である。
( 本論の発端になった雑誌『俳句』の筑紫磐井の論「現代俳句と切れ」には、仁平勝の近著『俳句のモダン』(五柳書院)から次の一文が引用されている。「誓子の句は、古典的な切れを持たない。というより、古典的な切れによって成立する発句の格を拒否している。けれども五七五の形式は、やはり切れがなくては一句として立たない。それを誓子はむろん承知している。そのうえで、新しい俳句の文体を模索している」と。傾聴に値する説である。) (敬称略)
以上 |