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参考資料室
私の好きな芭蕉の手紙
安 居 正 浩

一、 芭蕉の手紙

 現代に残る芭蕉の手紙と言われるものは、六百数十通もあるのだそうである。といっても多くが偽物で、本人のものに間違いがないと思われるものは二百三十通弱だといわれている。
それでも同時代の文豪であった井原西鶴や近松門左衛門の現存する手紙が十通前後であるのに比較すると格段に多い。芭蕉が早くから有名人で、手紙が大事に保存されていたからであろう。
芭蕉の手紙のほとんどは男性の弟子に宛てたものである。女性宛は八通しかない。宛先は川井乙州の母である智月宛が五通、野沢凡兆の妻である羽紅宛のものが三通である。
男性への手紙は漢字が中心で読みにくいのに比べて、女性への手紙は、現代の私達にも読みやすい。女房様と言い、仮名が中心の女房言葉を使っているからである。女性には特にわかりやすい文章をと心がけていたようである。
病気のこととか貰い物のお礼とか、実生活のこまごましたことが中心であり、
芭蕉の日常の生活の様子や女性にたいする接し方が浮かんでくる。ほとんどの手紙は短い文章であるがその中にも、男弟子には見せなかったやさしさ、人間味が見える。世話になった女性に頭が上がらないという風も見え、女性への素直な表現が胸を打つ。
女性への手紙の一つを取り上げ、芭蕉の違った魅力に触れてみたい。

 

二、羽紅宛の手紙

女性に宛てた芭蕉の手紙の中で私が一番気に入っているのが、元禄六年正月二十七日付の羽紅への手紙である。羽紅は『猿蓑』の撰者として名高い凡兆の妻で、本人も芭蕉の弟子であった。


この手紙を、超訳をするとこんな感じになるだろうか。

 

宛先は、羽紅が京都小川椹木町に住んでいて尼になったことから小川の尼君と書いている。
この手紙は羽紅が出した手紙への返事であるが、二人の親しさがよくわかる。羽紅は親身に芭蕉の面倒を見、芭蕉もすっかりそれに甘えている。
特に後半の「びじよにもあらず、ていじよにもあらず、たゞ心のあはれ成あまにて候とこたへ申候」に注目した。
江戸の俳諧仲間への答えであるが、これはもう他人の言う言葉ではない。「私なんか美女でも貞女でもありませんよ」と自分が謙遜する時の言葉に近い。これほどまで芭蕉の気持が羽紅に近づいているのである。師弟というより、本当に仲の良い、言いたいことを言える友達という感じである。
またもう一つ追伸に注目すべき箇所がある
「なごやのやつばら共、いよいよ不通に成候と相見え候。のこり多候。」
当時芭蕉の新風についてゆけず、離反の態度をみせていた名古屋門人の荷兮や野水や越人に対する不快感をストレートに吐露している。母親に告げ口をしているような書きぶりもほほえましい。

ではその時芭蕉と、羽紅の夫である凡兆との関係はどうであったか。
元禄三年から四年にかけては、凡兆宅を芭蕉が訪ねたり、芭蕉のいる落柿舎を凡兆夫妻が泊りがけで訪れたり、非常に親しい師弟関係にあった。凡兆が『猿蓑』の選者に抜擢されたのもこの時期である。
これほど親しい関係にも罅の入るのは早かった。元禄四年の後半にはもう芭蕉から遠ざかりはじめる。余りに急速な接近は、別れが早いのは現代でも同じである。
こりもせで今年も萌る芭蕉かな  凡兆
などと、芭蕉への当て付けとも見える句を詠んでいる。
もともと一途な性格であった凡兆は師の芭蕉に対しても、何かにつけ自分の意見を通そうとする。
「下京や雪積む夜の雨の音」の句では、芭蕉のつけた上五の「下京や」に露骨にいやな顔をするし、野水や越人と一緒に路通のことを悪くいい芭蕉の機嫌を損ねることなどもしている。一度気持ちが離れはじめると持ち前の頑固さからもう元へ戻ることは難しい。
  この手紙の元禄六年の正月は夫の凡兆からみれば、既に芭蕉からすっかり心の離れた時期であった。それにしては芭蕉から、妻への余りに甘い返事であり、加えて自分が親しく付き合っている名古屋の仲間への悪口であり、凡兆が読んだら不愉快な手紙であったろう。妻に八つ当たりしたかもしれない。芭蕉への憎しみが増幅した可能性もある。
凡兆は元禄六・七年に、入獄してしまう。これで蕉門からの離脱は決定的となる。
出獄後の凡兆は句作りは継続したようだが、もう二度と脚光を浴びることはなかった。羽紅はその後も凡兆につき従い、晩年を看取ったと伝わっているので、「心のあはれ成あま」として生涯をおくったことは間違いない。

この手紙一つの中にも、芭蕉の羽紅への思い、凡兆への思い、名古屋派への思い、そして俳諧への思いなど、さまざまの思いを読み取ることができる。俳聖とまで言われた芭蕉であるが、その心は、一人の人間として大きく揺らいでいたのである。芭蕉の本心が素直に表れていて面白いと私は思っている。

参考資料

「芭蕉の門人」堀切 実著 岩波新書 平成三年十月発行
「芭蕉書簡大成」今 栄蔵著 角川学芸出版 平成十七年十月発行
「芭蕉にひらかれた俳諧の女性史―六十六人の小町たちー」別所真紀子著
             オリジン出版センター平成一年十一月発行

(俳句雑誌『出航』第26号より転載)