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論文を読む会のまとめ

・発表テーマ  「橘曙覧と日米文化人への影響」
・発表者   椎名美知子
・日時    平成30年9月9日(日)、14時30分〜17時30分
・場所    東洋大学白山校舎6号館5F 谷地研究室
・資料    @橘曙覧「独楽吟」、井手今滋編『曙覧遺作集 志濃夫廼舎全歌集』(明治11年刊)による。
        A『近世和歌集』(日本古典文学大系93 、岩波書店)
        B正岡子規「曙覧の歌」、新聞『日本』連載(明治32年3月〜4月)。
        『子規全集』(第7巻、講談社)に入る。 
        Cドナルド・キーン「曙覧の歌」、『日本の文学』(ドナルド・キーン著作集1、新潮社)所収。
・出席者   谷地快一、菅原通済、尾崎喜美子、大江月子、谷 美雪、鈴木松江、
        三木つゆ草、平塚ふみ子、宇田川うらら、佐藤馨子、梶原真美、
        加藤哲人、田中正子、伊藤無迅、椎名美知子 <敬称略、順不同、15名>
・議事録作成 椎名美知子、伊藤無迅

<発表のまとめ>         

1.発表内容
 (1)私と橘曙覧との出会い
 私と橘曙覧の出逢いは、偶然読んだ橘曙覧の以下の二首が心を打ったことがきっかけでした。
       たのしみはそぞろ読みゆく書の中に我とひとしき人をみし時
       いつわりのたくみをいふな誠だにさぐれば歌はやすからむもの

 (2)橘曙覧という人について <発表者内容にウィキペディアより補足>
 文化9年(1812)、現在の福井県福井市の家伝薬などを扱う商家の長男として生まれる。成人前に両親を亡くし叔父の後見により家業を継ぐ。若くして国学に興味を持ち28歳で弟に家督を譲り隠遁し本格的に国学の道に入る。飛騨高山の本居宣長の弟子田中大秀に師事した折に歌に興味を持ち独学で和歌に精進するようになる。寺子屋の月謝などで妻子を養い、生涯清貧生活に甘んじた。1858年、安政の大獄で謹慎中の松平春嶽の命を受け、万葉集の秀歌を選んだ。曙覧の学を慕った春嶽は出仕を求めたが辞退[。慶応4年(1868年)56歳で死去。

 (3)「独楽吟」とは
 橘曙覧の長男(井手今滋)が父の遺作を編纂し発行した『曙覧遺作集 志濃夫廼舎(しのぶのや)全歌集』に収載されている歌集。いずれも「たのしみは」で始まり「・・・時」で終わる一連の歌(52首)で構成されている。

 (4)正岡子規と橘曙覧  
 正岡子規は佐々木信綱より『曙覧遺作集志濃夫廼舎全歌集』(明治11年(1878)木版で出版)を入手し、その作品を高く評価する。その後、新聞『日本』に橘曙覧の人となりと作品を、明治32年3月から4月まで都合9回にわたり掲載し、短歌革新の啓蒙の書(記事)とした。なお『曙覧遺作集志濃夫廼舎全歌集』は、信綱の父弘綱が福井県を旅行した際に購入したもので、30数年を経て子規の手に渡った。なお子規は前年、同新聞に短歌革新の口火となった「歌よみに与ふる書」を都合10回にわたり発表している。この反響が大きかったため信綱が曙覧の歌集を子規に渡したのではないかと発表者は推測する。

 (5)新聞『日本』に発表された「曙覧の歌」の概要
 @ 第1回目
 偶然知った橘曙覧の作品が万葉歌人に勝るとも劣らないこと。さらに橘曙覧が古学を修め勤王の志厚い歌人であること、また松平春岳の和歌の師でもあったこと、望んで清貧の生活を送ったことなどを紹介している。
 A 第2回目
 歌作品に見る曙覧の清貧なる生活を紹介。その歌にふんだんに使われている従来和歌にはない新語を紹介。また集中の「独楽吟」を秀逸ではないが曙覧の性格、生活、嗜好などを知る上で、よい歌であると紹介している。
 B 第3回目
 似非文人と曙覧の相違を作品で解説。似非文人は貧窮の嘆きや不平を詠むが、曙覧は自ら清貧を望み、それを楽しんでいる。また目前に大金を積まれた場合、似非文人は「門前の犬の糞」とあざけるが、曙覧は嬉しいと素直に喜ぶ。つまり似非文人は欺瞞を歌い、曙覧は誇張、虚飾を入れずに素直に歌う。以下曙覧の多くの作品をあげ曙覧が似非文人ではないことを解説する。
 C 第4回目
 曙覧が『万葉集』の歌風を選んだ卓見と、それを模した技量は賞賛に値すること。さらに子規自身の和歌観や歌論史にも触れ、歌の腐敗は古今に始まり足利時代に極点に達したこと、その後江戸時代に入り賀茂真淵一派が万葉に還るべきと呼びかけ歌の命を繋いだこと、しかし実態が伴わないまま江戸末期に至ったことを紹介。万葉は作者の感情をありのままに出したが、古今以後は豪も表に出さない歌風で今日まで来た。その差は、ありのままを詠むと言う写生観念の有無によるものという自説を展開する。
 曙覧の歌に「いつわりのたくみをいふな誠だにさぐれば歌はやすからむもの」という歌がある。古今以降は皆この「いつわりのたくみ」であった。誠の一字は曙覧の本領にして万葉の本領でもあり、つまるところ歌の本領である。「ありのままに写す」とはすなわち誠なり。後世の歌人がこれを承知しながら出来なかったのは、誠、ありのままを誤解していたから。西行もそれを理解していたが、その歌を見ると99%は皆「いつわりのたくみ」である。
 趣味を自然に求め、手段を写実に求めたものは、前に万葉、後ろに曙覧あるのみである。曙覧の歌は自分の囲りに見る活人事、活風光であり、古今以後の題を設けて歌う腐れ花、腐れ月にあらず、彼は自己の貧苦を、主義を、亡き親を、亡き子をそのまま詠っている。
 D 第5回目
 古今以降今日までの撰集、歌集は四季の歌が主で大半を占めているが、これは題詠が主たる詠歌法であったことによる。これに対し万葉と曙覧歌には四季の歌が少なく雑の歌が大半を占める。これが万葉と曙覧が他の集に秀でたる理由である。
 E 第6回目
和歌に歌想、歌調がある。また歌想に主観と客観がある。万葉は主観歌想、古今以後は客観的歌想が多い。主観的でも理屈めいたものは品位卑しく古今以後に多く、万葉、曙覧にはない。四季の題詠には概して客観歌想が多い。しかし古今以後盛んになった縁語や虚飾が多用され趣味を損ねている。絵画のように純客観に詠む作品は少ない。なお俳句(俳諧)は徳川時代に客観的叙述において空前の進歩を遂げた。しかし和歌界は頑陋かつ偏狭であったため、これを果たせず、徳川末期に曙覧が出るにおよんで漸くこれを果たした。
 F 第7回目
曙覧が客観的歌想に成功したのは新材料、新句法を積極的に詠い込んだためである。このため一般歌人より遥に自在に詠いこなすことができた。子規は曙覧作品に見える新材料、新句法を具体作品で解説した上で、曙覧の歌は歌想豊かな点で万葉を超えていると称える。
 G 第8回目
 世の中には「万葉に還る」と称して万葉を模した作品を詠むが、その作品から万葉精神が消えてしまっている歌人が多い。これは万葉の精神である新言語、新趣味への挑戦を忘れているからである。その点、曙覧を見習うべきである。
 H 第9回目
 曙覧は歌想においては万葉を超えたが、歌全体の調子(これを子規は歌調という)については、ついに万葉、実朝を超えられなかった。歌の調べは古来、頭軽脚重が基本で3句4句に主眼を置くことが万葉以後の基本である。しかし曙覧には頭重脚軽の病があり、ついにこの点で万葉に及ばなかった。以上のように曙覧は歌人として実朝以後ただ一人の歌人であるが、彼をもってしても俳句界と比べると大きな差がある。何故なら曙覧に先立つこと百四、五十年前に芭蕉一派の俳人達が、曙覧よりも遥に多い新言語を用いていたからである。
 また曙覧の歌想は和歌界では群を抜いてたが歌調に無頓着であった点、曙覧を実朝以来の歌人と讃えたが、裏を返せば和歌界の衰退がそれだけ長期間に及んでいたことになる。実に哀れで気の毒である。<竹の里人付記>

 (6)橘曙覧とドナルド・キーン
 ドナルド・キーンに橘曙覧を紹介する一文があり、以下その概要を述べる(『日本の文学』ドナルド・キーン著作集1)。
・近世中期、ある歌人グループは『万葉集』を再発見、その詩魂吸収とその理想復活に努めた。そのグループは多くの場合、儒教や仏教の学問を排し独自の学問を目指した国学に関係した歌人たちである。その中で有名な歌人は賀茂真淵であった。しかし彼は新しい歌による万葉回帰までには至らなかった。馬淵の死後も多くの歌人が自己の経験を自分なりに表現する努力をした。しかし作歌方法や生活習慣を新しく変えても、千年前の人々との間に基本的な変化はなかった。
・近世後期になり、ようやく興味ある歌人が二人現れた。大隈言道と橘曙覧である。橘曙覧は貧窮の中で暮らし、その質素な環境が極めて感動的な歌の素材を提供した。彼は青年期仏道を志したが、やがて国学と和歌の道に進んだ。言道、曙覧共に和歌のもつ因襲的な題材よりも自分の経験や信条を詠うことを選んだ。そのため進んで清貧な暮らしを行い、その中で詠歌に努めたが仲間以外には認められることはなかった。
・ただ曙覧の歌には、言道にはない粗っぽい活力があった。さらに曙覧のユーモア感覚は言道と異なり、愛すべき小さな弱者には向かわず、見せかけ、俗悪さ、因襲的なものに向って発揮された。
・歌人たちが長い間待ち望んでいた近代的な詠歌法は曙覧により獲得されたが、その反面他の多くのものを失った。つまり和歌の伝統的な特質である、調べ、余韻、気分の喚起などである。これらは真率な表現のために犠牲にされてしまったと言える。 

 (7)橘曙覧とクリントン大統領
 平成6年(1994)、天皇皇后両陛下がアメリカをご訪問された。その歓迎会の席上、当時の米国大統領クリントンが歓迎スピーチの中で橘曙覧の歌を紹介し、アメリカの印象は如何でしたかと両陛下にお伺いを立てたのである。このため曙覧の名とその歌「たのしみは朝起きいでて昨日まで無かりし花の咲ける見るとき」が日本で話題となった。なお発表者はこの件で、大統領のスピーチにはキーン氏の影響があったのではないかと推測した。

2 所感
 ・私が橘曙覧の「独楽吟」を知ったのは5,6年前である。その時は橘曙覧なる人がどのような人かも知らず、曙覧が詠む多種多様な楽しみ方に驚いた。曙覧に比し自分の楽しみが如何に贅を好む下劣なものであるかを反省した。今回冒頭で谷地先生から「近世まで、〈貧〉に徹することと〈求道〉とは親しい関係にあった。敢えて貧に処することによって、世界を、あるいは人生を把握しようとした」という話があった。また発表者から曙覧の来歴を聞き、曙覧自身が、まさにその人であったことを知る。西洋的普遍性に慣れた現代人が、生活の質を大幅に下げてまで詩の世界を極めたいと思う詩人が何人いるだろうか。キーン氏の書にある大隈言道も橘曙覧同様若くして家業を離れ、清貧生活の中で歌道を究めようとした人である。近世までの歌道が、まさに「道」であったことを再認識した。
 ・橘曙覧の来歴と作品内容を知ると、それはまさに契沖、真淵、宣長と続いた国学歌論の系譜と一致するように思う。そして、それは子規が目指した短歌改革の方向と合致するものでもあった。そう考えると子規の短歌改革は、国学系の歌人によって、すでに引かれていた路線とも言える。子規はこれを当時最先端の情報発信システムである新聞により、この路線を広く啓蒙し成功させたという解釈も成り立つように思う。子規が抱いていた短歌革新の方向が国学系の歌論から得たものか、あるいは独自の論であったのか、はさらなる研究を待たねばならない。子規も述べていたが、この事業に相当するものを俳諧世界では、芭蕉が、すでに百四、五十年前に達成していた。そういう事実を子規自身が認識していたことも本発表で得た大きな収穫であった。 <伊藤無迅>

3 その他
 当日以下の質問があり不詳で回答が出来なかった。後日、谷地先生が調査され芭蕉会議サイトの掲示板に掲載してありましたので再掲します。

■ <質問> 曙覧の清貧な生き方の選択は国学や神道の世界よりも、仏道との関わりを感じるのだが、そうした事実はないだろうか。
■ <回答>『日本古典文学大辞典』(岩波書店)をひいてみました。橘曙覧は15歳で父に死別したのを機会に仏門に入ろうとして、越前国南条郡北日野村(福井県南条郡南越前町)の日蓮宗妙泰寺の僧明導に仏学を学んだのが文学に目覚めるきっかけであったと書いてありました。結婚のずっと前のことになります。やはり仏道が、「もののあはれ」への最初の道であったように思います。
 *その他、生前に自分で歌集を編むことはなく、死後に息子が出版したという話を椎名さんから教えてもらいましたが、これも注意してよい事柄と思います。私の知る限り、江戸時代において、生前に自分で本を出版するという行為は賤しい行いと思われていたようです。最初にお話しした〈貧に処すること〉と、〈お金をかけて出版する〉、〈この世にモノを遺す〉ことは矛盾するからでしょうか。現代と違うという意味で、補足しておきます。
<谷地快一>

(了)