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論文を読む会のまとめ

・発表テーマ  「正教寺における芭蕉受容序説 ―文暁の事跡を中心に―」
・発表者     眞杉泰輝
・日時      平成30年7月14日(土)、14時30分〜17時
・場所      東洋大学白山校舎6号館5F 谷地研究室
・資料      @ 「正教寺における芭蕉受容序説―文暁の事績を中心に―」
・出席者     谷地快一、谷地元瑛子、鈴木松江、水野ムーミン、平塚ふみ子、
          梶原真美、伊藤無迅
          <敬称略、順不同、7名>
・議事録作成  眞杉泰輝、伊藤無迅

<発表のまとめ>         

1.発表内容

 発表者は、『花屋日記』の著者として知られる文暁と彼が住持を務めた肥後八代正教寺(現熊本県八代市本町3丁目4-43)の歩んだ歴史を切り口に芭蕉未踏の地である九州地方にどのようにして蕉風俳諧が伝播されたのかを考察した。具体的には、文暁の事跡を簡単にまとめた上で、芭蕉没後に九州行脚をおこなった直弟子の野坡と支考の旅程と風交の様子をまとめた。そして、この2人の行脚中に風交した地元俳人として名前が挙がった“正教寺乙明”の存在を正教寺第6世圓含と考え、そこから正教寺に芭蕉の精神が受容されたとした。
 当日の発表の流れは以下の通りである。

(1)文暁の事跡
 はじめに、旧来詳らかにされてこなかった文暁の人生を略年譜の形で整理した。すると、父梅雪が青蓮院に認められるほどの和歌の才能の持ち主で僧としても仏光寺派の本山の要職に就くほどの実力者であったこと。また、叔父支明は文暁の俳諧の師であるとともに漢詩にも造詣が深く、熊本時習館や八代伝習堂の教授陣とも交流がある知識人であったことが分かった。
 そして、文暁の事跡として今回紹介したのは『俳諧芭蕉談』跋文と文暁宛士朗書簡(文化5年4月20日推定)をもとに安永4年(1775)に暁臺が校訂・刊行した『去来抄』に欠けていた「故実篇」が、『俳諧芭蕉談』に収められており、文化5年時点で跋文を書いた士朗もその存在に気がついていない様子が見て取れた。そして、『花屋日記』の執筆理由を明かした「漫書」や文暁の孫厳城の文暁への追悼文から芭蕉の教えや蕉門の書物の影響を受けた形跡を確認した。

(2)野坡と支考の行脚について
 野坡は、三井越後屋の番頭であった元禄11年(1698)から14年(1701)まで商用で長崎に滞在している。その次の年から、番頭の職を辞し本格的な九州行脚を始める。今回筆者がまとめた範囲では11回の九州行脚に出ており、最長の滞在期間は1年半を超える。その間、地元俳人との風交を積み重ねた。この長期間かつ頻繁な野坡の行脚に対して、支考の行脚は元禄11年(1698)の1回のみであり、旅の期間も3ヶ月と野坡に比べれば短い。しかし、2人の没後九州に広く浸透したのは美濃派の俳諧であった。これは、支考が具体的な付け合いの方法をもって指導をしたことにより後進育成の基盤を作ることに成功したためだろう。
 いずれにしても、野坡と支考の行脚は平明な教えは地方俳人たちに蕉風俳諧を受容するきっかけを作り、またそれらは広く受け入れられた。芭蕉直弟子二人の功労により地方俳壇の進展が図られた。また、この時期の西国行脚は宇佐神宮・太宰府天満宮・長崎のデルタ地帯に赴く傾向が強く熊本や八代という土地は長崎への海路の玄関口であり、その周囲の寺というのは今でいう高速道路のサービスエリアのような役割を果たしていたといえるだろう。

(3)筆者によるまとめ
 文暁が生きた時代に正教寺や八代に芭蕉を追慕する俳諧文化圏があった。このことは、文暁の書いたものに多分に芭蕉の言葉が散りばめられていることや稲妻塚という芭蕉追善の塚が建立されていることが証拠といえよう。では、正教寺や肥後国八代に蕉風俳諧をもたらしたのは誰であったのか。このことを考える上で重要な人物として支考と野坡の二人の直弟子に着眼した。その行脚の様子を大内初夫氏の先行研究などから拾い整理した結果、先述のような内容と傾向を掴んだ。今後は、支考『西華集』との照合や文暁の『俳諧芭蕉談』と現在読まれている『去来抄』「故実」との対照を行い今回の発表をさらに精密に裏づけし中央俳壇にとってこの発表内容がどう影響するのかを考えていきたい。

2 所感

 本発表は数年前の発表を踏まえた二回目の発表であった。その間発表者は@文暁の詳細な年表の作成、A正教寺(八代市)への直接取材、B『花屋日記』の著作動機を記した『漫書』の発見、C野坡、支考の詳細な九州行脚の調査などを続けてきた。今回はその成果を発表する場であったが、前回とは格段に立証性の高い発表であった。発表者は発表の締め括りに、正教寺および文暁に直接影響を与えたのは、九州への蕉風普及者として名高い野坡ではなく支考である、との推論を定めたいと話している。今後の研究成果が楽しみである。なお、個人的には『花屋日記』が文暁作であることの更なる立証と、『花屋日記』をさらに読み込み文暁における芭蕉受容がどのようなものであったかを次回是非拝聴したいと思う。
 以下は蛇足になるが、発表を聞きながら以前読んだ藤沢周平の『一茶』を思い出した。勿論フィクションであるが、当時の俳諧師の実態、特に俳壇と俳諧師の関係や俳諧師と地方の名士との関係が生々しく描かれていた。俳人でもあった藤沢の目と入念な調査で、一般の学術書では得られない俳諧師の姿があり興味深く読んだ記憶がある。俳諧師の低い社会的地位と窮乏生活、生きるための地方行脚、のしかかる俳壇の枷などがリアルに描かれていた。本発表の資料にも寛政四年(文暁が五十八歳の年)に、一茶が九州を行脚したとの記載があった。一茶と文暁は同時代人でもあった。(伊藤無迅)

(了)