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論文を読む会のまとめ

・発表テーマ  「正岡子規と鴎外の俳句−『めさまし草』を視点として−」
・発表者    東洋大学大学院博士後期課程 根本文子
・日時     平成29年7月9日(日)、14時30分〜17時
・場所     東洋大学白山校舎6号館5F 谷地研究室
・資料     @正岡子規と鴎外の俳句 −『めさまし草』を視点として−
          <第五六回「子規研究会」(2016年12月10日)発表用資料>
・出席者    谷地快一、堀口希望、菅原通済、相澤泰司、鈴木松江、三木つゆ草、
         根本文子、梶原真美、西野由美、伊藤無迅 <敬称略、順不同、10名>
・議事録作成  伊藤無迅

<発表のまとめ>

1.発表内容
 今回の発表は前回の発表(*)に続くもので、今回は逆に子規が鴎外に与えた俳句観への影響について調査しその成果を発表された。以下その発表概要を述べる。
 *子規が明治28年に日清戦争の従軍記者として大陸に赴任した際、金州に居た鴎外を訪ねた。そこで鴎外と面談を重ねたことが、子規に影響を与えかつ新聞『日本』への『俳諧大要』執筆動機に繋がったと言われている。

 (1)子規と邂逅以前の鴎外の俳句について
 @ 鴎外の俳句観
・明治23年発行の『しがらみ草紙』掲載の小論「文海の藻屑」には、(俳句は)平談俗話を採用することで日本の韻文学となったが、審美基準を満たさないものは論に値しないであろう、とのみ述べている。
・また明治45年、俳誌『俳味』寄稿の一文には、少年期去来の句を読み感動した旨の記憶を述べたものがある。鴎外はこの当時俳句に大きな関心は示さなかったようである。
 A 鴎外の俳句作品
 そう多くはないが『衛生寮病志』第44号(明治26年)から数句引用する。いずれも長文の前書きがある。

    反動機関のいはく伝染病研究所建設地問題は
    何故に中央衛生会に諮詢せざる
   助言をかしあつさに碁の手ゆるむ時

    北里柴三郎が辞表
   濁されたあともしみづは清水かな

    反動機関は今さらに芝区某等が上を云々す
   踏み出した先やさつきのぬかり道

 いずれも長い前書きと主観の強い俳句が多い。推測するにこれらの句は責任ある地位と実務をもつ組織人鴎外が、日頃蓄積していたであろう鬱屈を紛らわすために詠句していた側面があるかと思われる。それにしても主観性の高い寓喩に満ちた作品が多いのに驚く。

 (2)邂逅後の鴎外と子規の交流
金州邂逅後それぞれ帰国するが、交流は翌年の年初から再開する。その後、交流は二人の関係から、鴎外と日本派(子規、虚子等)との交流へと拡大する。

@ 子規庵における「発句始」という句会に鴎外を招待。これは互選と選評からなる題詠句会で、日本派の鍛錬句会と言えるもの …… 明治29年1月(帰国の翌年)
・鴎外は途中参加だが、その招待は虚子の発案による。
・結果として鴎外、漱石、子規、虚子、碧梧桐等錚々たるメンバ−が揃う。
・鴎外の句に「霰」を題とした、「おもいきつて出で立つ門の霰哉」がある。
・鴎外は途中参加だが、次々と出される席題に即興で出句し、選句を繰返す運座(題詠句会)に新鮮な驚きを感じるとともに、日本派俳句への認識を新たにしたと思われる。
A 鴎外主宰『めさまし草』への子規、虚子の寄稿 …… 明治29年〜35年
・『めさまし草』は鴎外が国内復帰後立ち上げた文芸誌で、日清戦争開戦で廃刊した『しらかみ草子』の後継誌である。創刊は子規庵の句会稿「発句始」の直後で、子規が俳句関連の記事を寄稿している。因みにこの創刊号には、鴎外の句を含め、「発句始」の作品が収載されている。
・子規の寄稿は、以後子規没年まで継続するが、端緒は「発句始」における二人の再会にあることは書簡などから間違いないと思われる。
*明治31年5月、虚子が観潮楼で『めさまし草』の編集者と共に校正作業に参加している。同年10月、虚子は松山から『ほとゝぎす』を引き取り、東京における第一号を発刊している。発表者(根本)は観潮楼における虚子の校正経験が、雑誌発行への強い関心を呼び起こし、『ほとゝぎす』を引き取る動機になったのではないかと述べている。
B 鴎外・子規の往復書簡の増加
・以降、鴎外と子規、あるいは鴎外と虚子の往復書簡が急激に多くなる。内容的には『めさまし草』の寄稿依頼やその内容に関するもの、あるいは鴎外の作った俳句の添削や選句を依頼したものが多い。すべて「発句始」に起因すると思われる。

 (3)鴎外と子規の「草花」
発表者(根本)は、子規と鴎外の交流は心の深いところで結びついていたと主張。その証左として二人の「草花への愛着」を挙げた。

@  子規の帰国途中の大患と子規庵の庭
・子規は中国大陸からの帰途、船中で大喀血し神戸病院に入院する。その後、須磨、松山で養生に努め、やっとの思いで子規庵に戻る。子規はその時の気持ちを小論「小園の記」(『ほとゝぎす』2巻1号、明治31年)で、「家に帰り着きし時は秋まさに暮れんとする頃なり。(略)ありふれたる此の庭が斯く迄人を感ぜせしめんとは嘗て思ひよらざりき。(略)今小園は余が天地にして草花は余が唯一の詩料となりぬ」と記している。
・「小園の記」は、続けて、前年に鴎外から数種の種袋が送られてきたこと、その種は鴎外の庭で採取したものであること、早速子規庵の庭に撒いたことなどを述べている。
・なお、この「小園の記」は子規の最初の写生文とされている。
・子規は続いて『ほとゝぎす』2巻3号の小論「我が幼児の美感」の中でも、幼時の草花の記憶を述べたあと、子規庵の「百歩ばかりの庭園は雑草雑木四時芳棼を吐いて不幸なる貧兒憂鬱より救はんとす」と記し、最後に「草花は我が命なり」と述べている。
A  鴎外の庭
・同じ明治31年の鴎外の日記には、次のように花の名前が頻出するようになる。
吾家後園の梅も亦数枝綻び初めたり(2月4日)
後園のヒヤシンス花開く(3月17日)
桃、木瓜、早桜開く(4月1日)
……
・鴎外の草木好きは長男於菟がその著書『木芙蓉』(時潮社、昭和11年9月)で、「私の父は草花を好んだ。それを花壇や温室をつくらず、種子を蒔けば芽を出し花をつけるものを自然のまゝに生ひ立たせた(略)二十坪ほどの後庭は色とりどりの花に埋められて美しかった」と回想している。

  以上のことから、発表者(根本)は、鴎外の句が子規の写生句に近づいて行く理由は、明治29年1月の「発句会」以後に二人の交流が急速に深まったこと、さらに、草花の美しさ、愛しさ、自然の運行の不思議さに気がついたからではないかと主張した。

  (4)鴎外の俳句観の変化<日本派との交流を通して>
  鴎外は明治32年6月、一時は「退役も決意した」という小倉へ転任をする。左遷ともいわれるこの小倉転任中の日記(「小倉日記」)には62句の俳句が記されている。以下にその一部を紹介する。

   夢成らず蚊帳近く聞く雨の音        8月31日
   菊畑や暮れのこる白のところどころ    10月23日
   縁の戸やことりことり雪のよもすがら    1月6日
   海きらきら帆は紫に霞けり          3月6日
   筆とれば若葉の影す紙の上         5月9日
   花蜘蛛の軒に幾日さみだるゝ        7月7日

  句はいずれも、日々の感興を見たまま、感じたままに日記に書き留めたものである。
  これらは、冒頭の『衛生寮病志』にある俳句とはまるで趣を異にしている。明らかに子規の写生句に似ており、平明で人の心に届く印象的な俳句になっている。

2 所感
  大変興味ある発表であった。子規と漱石の関係は広く世に知れ渡っている。だが、その陰に隠れ子規と鴎外の交友はあまり知られていない。今回の発表はそこに焦点を当て、丹念な調査と裏付資料を元に、その隠れた事実を知ることができた。また資料もよく纏まっており理解が容易であった。今回の発表を拝聴し以下のような所感をもった。

  (1)俳句は「天国の文学」
  戦後、虚子は『ホトトギス』誌上で、「俳句は極楽の文学である」と説いた。略述すれば、文学には「人生とは何か」の問いに苦しむ文学があり、それを仮に「地獄の文学」とする。一方で、その苦しい中でも前向きに、小さな希望と明るさを見出し、それを表出しようとする文学があって、それを仮に「極楽の文学」と呼ぼう。とすれば、すなわち俳句は後者であり、花鳥諷詠であると述べている。根本氏の発表を聞いているうちに、船中で喀血し九死に一生を得るが、余命幾許もないことを悟る子規と、権謀術数が渦巻く官界に身を置き、左遷の憂き目に合った鴎外が重なって来る。共に現実の厳しさを噛みしめながらも、それを表に出さず、小園の草木に生命の一途さと美しさを見出す姿が重なるからだ。鴎外は子規のそのような姿に共感していたように思う。

  (2)鴎外の秋声会との関係
  当時の俳壇は旧派と新派がその主導権をめぐって、激しく競っているときでもあった。新派を代表するグループは、子規の率いる日本派と尾崎紅葉を中心とした秋声会(明治28年10月結成)である。秋声会は文人が中心の派であるため、鴎外とは近い関係にあったと思われる。今回の発表ではこの点への言及はなかったが、鴎外が秋声会をどのように考えていたかは興味の湧くところである。発表の中に文壇で孤立する鴎外を子規が擁護する話(『松羅玉液』)があった。当時の文壇における鴎外の立場、つまり鴎外と秋声会との微妙な関係が、鴎外の日本派接近を促した可能性も探ってみたいものだ。

(了)