<発表のまとめ>
1.発表内容
発表はインドネシアでの長期滞在を実感させる貴重な体験報告であった。また前回同様プレゼンテーションツール(Power Point)を駆使した説得力のある発表でもあった。
今世紀はアジアの時代と呼ばれ世界の目がアジアに向けられている。わが国もアジアの主要先進国としてアジア全体の発展に大きな役割が期待されている。このため国レベルでの支援策が各種整備されいる。発表者が参加した日本語パートナーズ制度もその一つである。発表者はこれに応募して見事選抜され、昨年後半からインドネシアに8ヶ月間滞在した。今後も本プログラムへの参加者は増えると思われる。今回の発表はこの参加希望者にとり貴重な体験資料でもある。このため本発表を整理し「芭蕉会議」サイトの「芭蕉会議研究室」「参考資料室」に収載した。したがって本稿では以下の概要に留めた。発表内容の詳細を知りたい方は「参考資料室」収載の新井奈津美 『インドネシアでの日本語パートナーズ経験』をご覧頂きたい。
■インドネシアについて
・インドネシアの概要 ・季節と天候 ・宗教 ・生活 ・交通や乗り物事情 等
■日本語パートナーズ活動について
・インドネシアの高校 ・日本語パートナーズについて ・対日感情 等
2.発表を聞いての所感
発表を聴き以下の三点が印象に残ったので「芭蕉会議」的な視点から所感を述べたい。
・インドネシア政府が国民に信仰する宗教を持つことを義務化していること
・スマホを中心としたSMS(Social Network Service)が普及していること
・時間に関する認識が日本と違うこと
(1)インドネシアにおける宗教観
発表者がインドネシアに赴任し先ず聞かれたのは信仰する宗教名であった。「特にない」と答えると驚きの目で見られたという。日本では日常生活をする上で宗教を意識することはあまりない。しかし海外では宗教が生活のかなりの分野に根を下ろしている。このため信仰宗教を持たない人間は生き方に一本筋が通っていないと見なされ、時には見下されることもある。特にイスラム社会ではその感が強いように思う。文献などで「外国人と日本人の発想の違いはその根底に宗教観、つまり一神教と多神教(八百万の神)の相異がある」といった類の知識は一応身に付ける。しかし実際に海外で生活すると宗教色が様々な局面で顔を出すことを肌で感じる。これは私見であるが、一神教社会は宗教そのものが文化である。これに対し日本などの多神教社会では、その基底に宗教よりも風土的生活があるように思う。このため一神教社会に日本の俳句を説くことは大変なことではないかと個人的には思っている。彼らの生き方は戒律を伴う神の教えがありこれを無視しては生きられない。つまり日本文学がもつ自然観や和の精神は、そう簡単には理解されないのではないかと思う。一般的に俳句を伝えるということは俳句の心を得心させ、その上で俳句を詠ませることになろう。しかし時間的制約もあり通常はとてもそこまではいかない。このため俳句を詠むと言っても所詮「言葉遊び」の域で終始するしかないであろう。出国前に発表者が「俳句も教える」と言っていたので、このことが気になっていた。しかし発表者は流石この辺を心得ていたようで、教えたての日本語を生徒と興じ合うためのツールとして五七五(俳句)を利用したようだ。生徒が得意げに詠んだ教訓的、キャッチコピー的なフレーズを短冊に書かせて褒めてあげるのだ。つまり発表者は日本語教育のツールとして俳句を利用し成果を上げたのである。物事を「形から入る」というスタイルは、国柄を問わず今時の若い人達の得意技でもあるようだ。
(2)インドネシアにおけるSNSの普及
発表を聞いているとSNSの普及は日本とそう変わらないように思う。生活のあらゆる場面で、それも国柄に合わせてスマホが活用されているようだ。交通機関を利用する上でスマホは欠かせないし、高校生たちはあらゆる局面でスマホに頼りきっているようだ。試験にもスマホ持ち込みが許されているようだし、発表者の帰国時に生徒達が催してくれた送別会ではスマホで覚えた日本の歌や踊りを披露してくれたそうだ。また日本の得意分野であるポップカルチャーは日本とほぼ同時にスマホから得られる。日本の若者の間で流行している「コスプレ」は、インドネシアでも流行しているとのこと。衣装や小道具の作り方までSNSから得ているようだ。つまりSNSの普及に関しては先進国と新興国の差はないようだ。デジタル社会の寵児であるSNSの持ち味は何といっても即時性と視覚性である。特に映像は強力な説得力を持っている。ただ、そのことが若者たちを「形から入る」や「外見主義」の性向へと走らせる危険性はないか。SNSは便利であるが大きな危険性も孕んでいるように思う。その大きな問題は各国の文化の垣根が取り除かれるという不安である。つまり民族の文化差がなくなるという危惧である。二つ目は若年層が表層的なものを追い求めて物事の本質的なものを求めない性向に陥る危険性である。
(3)インドネシアの時間
発表者が度々漏らした不満はインドネシア的ともいうべき赴任地の時間感覚である。交通機関は、まず時間通りに動くことはなく、時刻表はあってないがごとくである。高校の始業、終業時間もその通りである。つまりかなりの時間が公共のものにランクアップされていないのである。これを在り来たりに言えば「社会的成熟度が低い」ことになる。さらに専門的な言い方では「国内総生産の大きな阻害要因、つまり非効率の温床」とも換言できる。
しかし、そうであろうか。逆の言い方をすれば「私」の時間が国内総生産に優先されているとも言えるのである。インドネシアの時間は、ある意味で国民に優しくゆったりと流れているという見方である。前回の発表で聴いたブータンの話を思い起こす。ブータンにも我々が失った、ゆったりとした時間が流れていた。我々が俳句を詠む行為は自分のゆったりとした時間を取り戻す営為であり、そのこと自体が俳句の心の大きな要素でもあるように思う。時間感覚というのは不思議なもので、時間をどう捉えるかで国民性が出るし、文化にも大きなインパクトを与えて来たように思う。
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