【Advice:境遇の句】今回はめずらしく身の上(境涯)を述べる句が複数あった。そこで、芭蕉に〈自分がこの世で置かれている身の上を詠むときは、事実を逸脱したり、曲げたりしてはいけない〉(『去来抄』同門評)というような教訓があったことを思い出した。言葉を飾ったりすると、そのために大きな誤解を招く心配があるからだと思う。 |
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◎夕立晴一番星は洗ひ立て 啓子
→「夕立晴」という季題を知っている人には、ほとんど解説を要しない。「一番星」つまり宵の明星(金星)を持ち出す点も「夕立晴」と馴染むし、「洗ひ立て」の一語も。読者はビジュアルに徹している表現力に大いに学ぶであろう。
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◎傘なくて陽明門の白雨かな 鹿鳴
→ここは日光の陽明門か。忘れがたい旅の一コマとみた。無駄を省いた点が上品で、古典の物語のなかにいるような気分になる。「白雨」はユダチと三音に読む。
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◎ずぶ濡れのみんな喜ぶ白雨かな 海星
→「ずぶ濡れの白雨」。「みんな喜ぶ」で美しい詩になった。この作者の代表句になるだろう。
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◎大夕立にはかに駅のさんざめく 憲
→「さんざめく」が古風で上品。景は凡庸な気もするが捨てがたい。
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○中陰の母の縫針夕立晴 千年
→「中陰」は死後四十九日間のこと。作者は近ごろ実母を亡くし、その悲しみを受け入れるために多くの句を詠み続けている。掲出句から裁縫する姿が母そのものであったことが読者に伝わる。よって斧正はおこがましいが、表現法上は「中陰や」とはっきり切るのがよい。海紅は平成二十二年十月、佐川の千年居を訪うた折に、母堂の心温まるおもてなしをうけた。御冥福をお祈りします。 |
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○酢豚氏よ白雨の向かうに立つてゐる ひろし
→夕立の先に亡き故酢豚氏を偲ぶ句か。渡邊白泉「戦争が廊下の奥に立つてゐた」(『渡辺白泉句集』)を鋳型とすること明白だが、初めから鋳型を学ぼうとしない人よりは学ぶ人の方が誠実と考えるゆえ、こうした試みを否定しない。その成否については作者自らが時間をかけて判定を下せばよい。
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○弟の死やアスファルト驟雨打ち 由美
→「驟雨」が内包する「急なる出来事」の意味が作者の悲しみを形象化する。その場を「アスファルト」とするために、交通事故の類が連想されるが、そう決めつけられない点が表現不足か。いずれにしろ、悲劇は最近のことと読める。合掌
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○白雨やスカート絞る君の膝 千寿
→なにやら初々しい恋が匂う句。結びの視点を「膝」に移すところに確かな写実性をみることができる。
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○夕立や鉄のブランコ生き返る 智子
→白雨が鉄製のブランコを生き返らせたという意に読める。それは濡れていることでわかるのか、それとも誰かが乗ってることでわかるのか。そのあたりがすぐわかるようにしたい。 |
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○しらさめに容姿整ふ木木の花 松江
→「白雨」は現在ユフダチ(ユウダチ)と読むが、本来はハクウ・シラサメである。作者はそこにこだわったのだろう。句意は、木々の花が雨で色彩を増しているということ。よって姿は十分だが、景は凡庸。
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○坂の町白雨の中に龍を見る 直子
→坂をくねって流れ落ちる白雨に、あるいは断続的な稲光に龍を見たか。この点やや曖昧だが、見立ては新鮮。こうした試みの積み重ねは必ずスケッチの腕をあげるだろう。 |
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○物干しに雲が仕掛けし驟雨かな 貴美
→「雲が仕掛けし」は「驟雨」のイメージ内にあるので無駄な説明。「物干し」と「驟雨」この二つを残して、さて何に感動したのであったか再考したい。
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○夕立や窓をちらちらスクーリング ムーミン
→通信教育のスクーリング風景とみた。平明でよい味わいだが、「夕立」に「ちらちら」が似合うかどうかは意見が分かれそうだ。
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○都大路に軋む車輪や大白雨 ひくらし
→季節柄、祇園会の山鉾か。ただし、景色は凡庸。
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○高らかに轟く足音白雨や 右稀
→下五を「や」で止めるのは不安定ゆえ、原則としてはやめたい。「高らかに轟く」が雨か人の足音かが不明瞭ゆえ、「白雨に負けぬ足音夫(ツマ)帰宅」などを参考にして研鑽を。
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○夕立に尾羽うち枯れしポチ帰る むらさき
→ポチが犬なら「尾羽」とは言わない。景は凡庸。
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○白雨や線香焚きてくはばらと 美雪
→この作者の空想力は時折評者を戸惑わせる。表現上は「線香焚きてくはばらと」と唱えているのは作者自身。「クワバラ、クワバラ」は落雷よけの呪文だから「白雨」の連想内だが、「線香焚きて」とする大胆さは読者の困惑を招くだろう。「白雨に数珠をまさぐる女かな」という句が、こうした場合の鋳型として有効かもしれない。ビジュアルな様を追求する参考にしてください。
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◎卯の花や歌口ずさむ母もなく 静枝
→亡き母追慕という主題が明確ゆえ合格。ただし、「母も」より「母はなし」の方が焦点がはっきりする。
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○杣古道卯の花房の長さかな 瑛子
→「杣」の連想範囲に「古道」は含まれるので捨てたい。その結果、「杣に見る卯の花房の長さかな」などと助詞を使うことができる。助詞の使い方が表現力を左右する。
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○卯の花や母の故郷井戸の端 喜美子
→字数を合わせて「卯の花や母の故郷の井戸の端」か。「母の生家の」とすれば更に焦点が絞れることを学びたい。ただし、景色は凡庸。
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○卯の花のわずかな垣根乳母車 山茶花
→事実の報告かもしれないが、「乳母車」の効果が感じられない。つまり、感動の焦点が定まらない。
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○卯の花を境に明日より他人 真美
→人生の悲しみの一コマかもしれないが、「卯の花」の白に淋しさを読むにしても、あまり効果が感じられない。
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○卯の花よ遺影に飾る一枝を 和子
→「卯の花よ」が詠嘆か呼びかけか不安定。
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