わくわく題詠鳩の会会報59   ホーム
鳩ノ会会報59(平成26年1月末締切分)
兼題 初釜・河豚

【はじめに】
1,初釜(大服茶・初茶湯・釜始・茶湯始・点初・初点前)を季題(上位概念)として、初茶杓・初削・削初・挽初などを季語(下位概念)とする世界。こういう場合に傍題ということばを用いるのは近代以後の誤解である。和歌に詠まれることなく、江戸時代が発見した題目であろう。
2,河豚も俳諧が見つけた新しい題目。


○初釜の湯気に抑への水を足す   酢豚
【評】茶会の一景をとらえた。だが初釜の景に至っているやいなや。

◎初釜や老いには老いの華のあり   希望
【評】「老いには老いの華のあり」と言われると、読者はその通りだと思う。その感慨が「初釜」になじむかどうかを鑑賞する。ややステレオタイプな表現だが、ボクはなじむと思う。

◎顔ほどの茶碗で孫が初点前や    和子
【評】「や」は本来間投助詞だから、古典に用例がないわけではないから間違いとは言えまいが、終助詞のように見えると不安になる。音数が足りてもいるし、「や」は削除してしまおう。なお俗に「孫俳句にろくなものはない」という。理由は言い過ぎと受け取られてしまうからであろうか。ボクは必ずしもそう思わないが、そうした世評を踏まえて、「孫」という字を使わないというのも智恵である。「顔ほどの大きな茶碗初点前」。「孫」一語は読者に想像させればよいのだ。

△初釜や想ひは巡る過去のこと   喜代子
【評】思い出だけで生きてゆける年齢になってみると「想ひは巡る過去のこと」はわかるのである。しかし、読者から見れば「初釜」に結びつけるには漠然として具象に欠け、胃の腑に落ちてくれないのである。もう少し告白しちゃうとよいかも。

○茶筅持ち鼓動の高なり初点前   光江
【評】「初点前」はいつになくかしこまるからよくわかる。でも茶筅持つ手と心臓を、もう少しつなぐ工夫ができまいか。「茶筅まで鼓動が届く初点前」なんちゃって。

◎初釜や二十歳の帯に朱の袱紗   月子
【評】申し分なし。蕪村を超えている。ほめ殺しの意図はないので、誤解のないように。

○初釜や免許皆伝切柄杓   美雪
【評】読者のためには「免許皆伝切柄杓」をひらいて、説明した方がよい。

○競り人を見詰めて跳ねるや市のフグ  泰
【評】一読して「見詰めて跳ねる」という箇所で、河豚が気の毒になり、辛く悲しくなった。「河豚」に限らず、題はまず賞美する(ほめる、喜ぶ)ことから始めた方が詩歌の姿を整える。なお、表現は整っているが「や」は要るまい。「あるときは競り人を見る市のフグ」なんちゃって。

◎一昔行きて独り身河豚の鍋   千年
【評】申し分なし。但しボクなら「一昔過ぎて」。振りかえる昔があることを、共によろこびたいと思う。

○毒舌の鋭さも失せ河豚と酒    ちちろ
【評】「毒舌」はとても強いことばである。「鋭さ」も文字通り強い。それを弱めることで、さらに読者の共感に近づくのではないか。「毒舌はむかしむかしや河豚と酒」なんちゃって。

○水揚げの哀れとら河豚歯を切られ   山茶花
【評】詩歌にとって、とても大切な景をとらえている。但し、その景自体があわれゆえ、わざわざ「哀れ」と言わない方がよいし、トラフグに限定しなくてもよい。「水揚げや河豚は大きな歯を切られ」なんちゃって。

○火の橋を旦過市場へ河豚の客   谷地元瑛子
【評】「火の橋」は九州小倉の鵜飼で知られた紫川に架かる橋のひとつ。「旦過(たんが)市場」も小倉にある。つまり名所の句。そこを河豚目的の人が通っているのだ。名所の句の成否はその認知度に左右される点で難しく、本歌本説に依存する句に似ている。その困難を乗り切るために「火の橋」か「旦過市場」の一つにしぼる道もある。蕪村に「鍋さげて淀の小橋を雪の人」がある。この場合、「鍋さげて」が抒情に奥行きを与えている。

○ふぐ食ふて過ぎりし八世三津五郎   柴田 憲
【評】河豚を食べつつ、危険を承知で河豚の肝を食し、その毒に当たって死んだ八世の坂東三津五郎を思い出したという。この人間国宝の歌舞伎役者の逸話は、すでに伝説化しているから、このような句があってよいだろう。

○河豚刺や皿の花鳥の透けて見え   梅田ひろし
【評】河豚職人の包丁づかいを称える句。ただし「見え」と連用形で止めた効果のほどをはかるのは難しい。

○河豚提灯口とがらせて客を呼ぶ   若林 直久
【評】面白い景に挑戦している。ただし「とがらせる」姿が「客を呼ぶ」ことに馴染むかどうか、また河豚料理の世界が客引きという行為に似合うかどうかについては意見が分かれる気がする。俳句は言い過ぎず、姿そのものに語らせるほうがよい。

○絡め合ふ指先河豚の袋糶り   ひぐらし(植田好男)
【評】河豚の競り売りに特徴的なフクロゼリという面白い素材を詠む。ただし「絡め合ふ指先」が作者に見えたのかどうか不安になる。

△男為す湯呑み鰭酒しみとほる   西野由美
【評】大勢の男が河豚の鰭酒を飲む景であろうが、「男為す」が難しかった。「為す」は動詞だから「男を為す」とするなら、一応の意味がとれる。しかし作者の意図からは逸れそうだ。俳句は短詩だけれど、言葉の腸詰めのようにギュウギュウ詰め込むと失敗する。

△河豚の宴時めくひとの裏話   むらさき
【評】実体験にもとづくのかも知れないが、「河豚」という題が中七・下五と結びつかない。河豚の毒と人の言葉の毒を結びつけているとすれば、そうした思わせぶりはマイナスである。俳句は季題に気持ちを託すこと。

 
「鳩の会」トップへ戻る